二話
次の日、昼休みを惰眠で消化していたところに、担任からお呼び出しがかかった。職員室に呼ばれ何かと思えば、転校していった生徒会委員の替わりをしてくれ、とのことだった。
「俺がやるんですか?」
「お前帰宅部だろ? だったらいいじゃないか。少しくらい内申だってよくなるかもしれないぞ」
簡単に言ってくれるよ。
そうやって口に出せたら、どれだけ楽だっただろうか。成績があまりよろしくないので、この手の話には食い付くほかない。
「わかりました。引き受けますよ」
「そうか、じゃあ今日から放課後に会議室な」
担任が今発した言葉に、一瞬耳を疑ってしまった。
「今日からですか……」
「お前って本当に話を聞いてないな。転校した荒川の代わりに、生徒会に入れって言ってるんだ。荒川は一週間前に転校してるだろうが。お前は部活もやってないだろう? それに難しい業務なんてないみたいだし、別にいいじゃないか」
「俺一応放送委員なんですが」
「ろくに仕事もしてない奴が言っても説得力なんてないよ。元々うちのクラスから出てる放送委員は三名。それが一人減っても支障はない」
また勝手にことを進めてくれる。きっと俺に話をする前に、委員会の移籍を済ませているのだ。この人はそういう人だと、一年の時に思い知らされている。
肩を落として職員室から出ようとすると、担任は最後に「後のことは行ってから聞いてくれ」と言った。あそこまで話しておいてそれはないんじゃないかと思う。本当に教師としての自覚があるのかどうかを問いただしてみたくもなる。
「……善処します」
そして、俺は職員室を出た。
生徒会室は三階の奥まった場所にある。階段を上り、廊下を右手に真っ直ぐ進んだ突き当たり。ちなみに左手には図書館があって、階段を上って数歩進むだけだったりする。
階段を上りきったところで、足は前に進まなくなった。三階まで上ってから思うけれど、やはり行きたくない。業務が嫌だとか面倒だとか、そういう問題ではないのだ。
「生徒会には、あの人がいる」
松永先輩がいる。だから、行きたくない。
顔を合わせるだけでも気まずいというのに、意見を述べろなんて言われた日にはどうしたいいだろうか。
松永先輩は生徒会長補佐で、俗に言う副生徒会長。取り仕切ったり他人の意見を聞いたり、会長の手が回らない部分の補うのが役目だ。
通り過ぎる三年生は皆、俺を訝しみながら階段を下りていく。五人程横を通り過ぎたところで、ようやく歩き出すことに決めた。生徒会室に言ってもいい気はしないが、立ち止まっていても気分はよくならない。ならばせめて、前に進む努力だけはしてみようと思った。
前に進むことの大切さは、よく知っていた。
「失礼します」
生徒会室には、俺以外の全員が集まっていた。そうと言い切れるかどうかも怪しい。しかし、イスが一つしか空いていなかったことがなによりの証拠だろう。
「いいところに来たわね」
無表情で俺を見た松永先輩は空席を指差す。そこに座れ、ということだろう。
俺が席に着くと、簡単な自己紹介をしてすぐに委員会は始まる。別に興味を持たれたいわけではないのだが、ここまで反応が薄いと困ってしまうのも事実だ。興味どころか、空気としか思っていないのでは、とさえ考えてしまう。それは彼女だけに対してでなく、この生徒会全てに対して思うことだった。
「新しい仲間が加わったところで、部費についての話をしましょう」
副会長である松永沙希は、そう言って話を続けた。
生徒も教師も、彼女を高く評価する。ときには羨望の眼差しを向けられるが、彼女が気にするとろではない。何度か嫌がらせも受けたのも事実であり、解決されているのも事実だった。
男子から見れば高嶺の花。
女子から見れば憧れの的。
それだけ、彼女の存在は大きかった。
凛とした声色は、ハスキーと言うには掠れていない。それでいて中性的な太さを持っている。見た目も綺麗だが、人の前に立って話をしている姿も様になっていた。そんな姿に、俺も焦がれたいた時期がある。彼女に憧れるような生徒の気持ちがわかったところで、今の俺は同調などできない。それもまた、事実として存在していた。
彼女が口を開いてから、話はスムーズに流れていく。これは会議ではない。彼女の話を流して聞いている俺でさえ、それに気付く。これは決定事項を告げているだけ。だから別に、俺が話を聞いている理由なんてないだろう。
「わかったかしら、羽柴君」
「ええ、了解です」
急に話を振られても、俺は決して動じなかった。副会長はイジワルだし、そんな予感があったから、聞いていて正解だった。
「よかったわ。こういうのは最初が肝心だから、今後もこの調子でお願いするわ」
一通り話が済み、解散となる。皆が生徒会室を後にする中で、生徒会長と副会長だけは、なにやら話し込んでいた。
「今更じゃないか」
胸に疼く妙な感情を、俺は無理矢理抑えつけた。
松永沙希に対し、今の俺はどんな感情を抱いているのだろうか。一体どんな気持ちで話をするのだろうか。一体いつまで、過去を引きずるのだろうか。
そうやって考えて、廊下をただ歩き続ける。昇降口に行くでもなく、教室に行くでもなく、ただひたすらに、足を動かし続けた。
全ては、過ぎたことだから。
校内を歩き続け、カバンを忘れたことを思い出した。仕方なく、俺は教室に戻った。
自分の席に行き、カバンを持つ。決して重いわけではないけれど、妙に重く感じながらも肩に掛けた。
一番後ろにある窓際の席からは校門が見える。帰る際、待ち合わせなどをしたことも、もう過去の話だ。
窓際から体をはなし、早急に帰ることを選択した。
一人の帰り道は、酷く寂しい。孤独な帰路などとっくに慣れたと、そう思い込んでいただけかもしれない。
隣に誰もいないというのは、こうも心を空っぽにしてしまう。
「俺も詩人だな」
自分の思考を鼻で笑う。何故なら、それしか解決法が思い付かなかったから。自分を笑うことでしか、自分を正当化できない。
この季節は、日が落ちるのが早い。しかし子供たちはまだ外を飛び回って遊んでいる。子供の俺が何を言っても説得力なんてないのはわかっていた。
俺がこの高校を選んだ理由は、実家からの距離が近いから。歩いて五分ちょっとなので、非常にありがたい。でも学力的には少々足りず、当時は苦労した。
また、あの人の影が脳裏を掠める。
生徒会室で見た姿といい、俺はまだ引きずっているのだろうな。
「忘れろよ。もう過去の話じゃないか……」
言い聞かせるように呟き、道ばたの小石を蹴った。
簡単に忘れられたら、こんなに苦しまない。そんなこと、俺が一番わかっている。だが間違いなく、一年前よりは立ち直っていた。それは、近しい先輩のお陰でもある。
胸に突っかかりを抱いたまま、俺は家のドアを開けた。
「ただいま」
静まりかえる家。母さんがこの時間にいないということは、きっと遅番なんだろう。今日はもう帰ってこない可能性もある。
父さんは父さんで、先週から出張だ。
「一言くらいあってもいいだろうに」
母さんはいつもそうだ。遅番でも言わない。小学生の時に言われた程度で、あとは察しろということなんだろうな。
カバンを置いて、冷蔵庫の中身を確認してみる。しかし、入っていたのは卵一つと牛乳、それとおつまみ用のチーズ。どれだけ買い置きしていないのか、ただ単にズボラなのか。
こういう日は外食に限る。食材を買ってきて作るなんて面倒だ。
しかし、田舎町には飲食店がそこまで多くない。行くとすれば、近場のファミレスか、ちょっと離れた牛丼屋くらいだ。
牛丼屋の方が安い。しかし、ファミレスの方が近いのだ。それに食べた分は母親に請求すればいい。
制服から私服に、手早く着替える。財布と家の鍵、携帯電話をポケットに入れ、俺は家を出た。
夕日に染まった家や道路。帰宅するサラリーマンや学生も、差違なく同色で、なんだか考え始めると不思議な光景にも見える。
そして少し歩けばもう、ファミレスが見える。近いというのは、やはり楽でいい。
「いらっしゃいませ。お客様はお一人様ですか?」
「ええ」
そう言うと、窓際の二人用テーブルに案内された。
一人なのでカウンターでもいいのだが、この店にはカウンター席がない。
少しだけ、居心地が悪い。
「ここ、一緒してもいいかな」
「え? ああ、はい」
俺が座ってすぐに、一人の女性が声を掛けてきた。そして、俺の向かいに腰掛けた。
「空いてる席ならたくさんありますけど?」
「君と一緒したかったんだよ」
それは女性と形容するには若い。そう、同じ学校の先輩だったから。
松永先輩と同じ学年の、西園早苗先輩である。俺を立ち直らせてくれた、張本人。
俺はオムライスを注文した。
女の子と一緒にテーブルを囲むなんて、どれくらいぶりだろう。
一瞬、西園先輩が松永先輩と重なる。願望がそうさせるのか、性格も見た目も全く違うというのに……。
西園先輩はアイスコーヒーを注文すると、頬杖を突いて喋り掛けてきた。
「まだ、忘れられない?」
「……」
答えたくなんてない。いや、本来ならば「もう大丈夫」と答えるべきなのだと、自分でもわかっている。松永先輩と仲がよかった西園先輩だからこそ、俺は返答に困っていた。
「まだ引きずっているのね。あまり昔の女に執着しすぎるのも問題だと思うけど。どう、私なら今フリーだけど」
「勘弁してくださいよ……」
注文していたアイスコーヒーが来ると、ガムシロップとミルクを入れ、もの凄い勢いで飲み始めた西園先輩。昔から変わらないのだが、少々男っぽい部分が目立つ。それも彼女の味なのだろう、見た目も相俟って、それなりにモテるようだった。
「私じゃダメだって?」
「西園先輩には、もっと相応しい人がいるでしょう? 知ってますよ、西園先輩がたくさん告白を受けてるの」
「ほう、どれくらい?」
「聞いた感じだと、今月で三人とか。そのうち一人は見てますけど」
「何、私のことつけてたの?」
「焼却炉に用事があって、丁度体育用具室の方を通りかかったんです」
「あ、すいません。アイスコーヒー追加で」
あまりにも空気を読まないものだから、肘がテーブルから落ちそうになる。このマイペースさも彼女の特徴と言えるのだろう。
「でも、古典的ですよね。体育館裏にある体育用具室の前だなんて」
ウェイトレスさんがオムライスを運んできた。熱くなった皿を受け取り、テーブルに下ろす。
「まあ、それもありなんじゃない? 私は正直ごめんだけど。ああ、気にしないで食べてもいいよ。私に構う必要もないでしょう」
言われるがままに、スプーンを動かし始めた。
食べている最中に彼女を見れば、何故か微笑を浮かべている。視線は動かさないまま、俺を見つめていた。
「正直食べづらいんですけど……」
「大丈夫大丈夫、さっさと食べちゃってよ」
皿に口を付け、残っているオムライスを一気にかき込んだ。
「男らしいねえ」
「誰かさんの視線が気になって、ゆっくり食べる気分じゃなくなったんですよ」
「あら、誰のことでしょうねえ」
西園先輩のマイペースさには、溜め息しか出せない。間違っても、ラブレターや愛の言葉は差し出したくない。
視線を気にしながら、ものの数分で完食した。
「じゃあ、俺はこれで失礼させてもらおうかな」
「もう行っちゃうの? まともな話なんてしてないと思うんだけどなあ」
したくないんだよ。松永先輩の近くにいるこの人と話し込むと、いろいろと厄介だ。
「今日は両親がいないので、家のことをしないといけないし」
「なるほどね。まあ、何かあったらまた話に来るよ」
アンニュイに手を振り、彼女は俺に別れを告げる。そしてちゃっかり、アイスコーヒー二杯分の会計を俺に押し付けてきた。
「ありがとうございました」
ファミレスを出て、帰路につく。
空を見上げれば、松永先輩の顔がちらついてしまう。
忘れたい。
忘れよう。
忘れなきゃ。
――忘れるの?
反芻することに意味はなくて、それでも気持ちは許してくれない。葛藤と言えるほどのものなんかじゃなくて、これはきっと完全に――。
「俺は、彼女がまだ好きなんだ」
逢って、話をして、触れて、撫でて……キスをしたい。
叶わないと思って、俺は前を向いて歩くことに集中する。余計なことは考えないように、一歩ずつ踏み出して。
家にはまだ誰もいない。
風呂を入れるのも面倒で、熱いシャワーを浴びる。
勉強をする気も起きなくて、髪を乾かすこともせず布団に飛び込む。
「消えろよ……」
口に出しても変わらない。まだ俺は囚われたままで、それは逆に自ら渦中に飛び込んでいくような、そんな感覚。
脳内で交錯する気持ちに、俺は整理が付けられないままだ。眠れるはずもないと、そう思っていた。しかし、微睡みは強大な力を持って、俺に襲いかかってくる。俺にとって気持ちなど、所詮この程度でしかないのかと、少しだけ心が痛んだ。だって、大切にしていたあの人のことだから……。