トナミと子泣き1
夜更け前に街中を抜けておきたかった。
この街は明るい昼ならばともかく、お世辞にも治安がいいとは言えないから。
郊外にあるマンションの自室へと帰る。
いつもは雑多な部屋も、どこか整理整頓されているように感じられた。
整理整頓なんかしたことがないんだけど、この小奇麗な部屋はなんなの?
考えてみるも答えは出なかった。
整理整頓するだけの気力もなかったし、誰に見せることもない部屋を片付けようとも思わなかった。
かろうじて、最低限のゴミ出しだけは隣のおばさんがやってくれていたが、それ以上は特に気にしてやっていることはなかった。
それよりも、数年ぶりに人前に出たという疲労感から、落ちるように眠ってしまう方が早かった。
ミロは女体化した日の朝を夢に見る。
窓から入った日差しで目を覚まし、眩しさに耐えつつカーテンをしめようと手を伸ばした。
うまく手の届かないことに気づき、面倒ながらも半身を起こして手を伸ばした。
寝ぼけ眼に捉えられた視界の端に緑色の袖。
それはミロのいつもの寝間着ではなかった。いつもは地味ではあるが機能性に優れたジャージかスウェットである。
ところが今着ているそれは、パジャマと呼ばれるべき鮮やかな黄緑のものだった。
伸ばした手のひらもきめ細かい肌にしなやかな指先。
異常事態に気づいたミロは呆けていた頭を叩き起こし、姿見に立つ。
するとそこに映るのは線の細い女顔だった。
黄緑色のパジャマの正体もたどれば頭の後ろにカエルのフードがついている。
こんな趣味はなかったと思うのだが、それ以上の変化の数々に目移りする。
首周りに目を向けてさらさらと流れる小川は黒のロングストレートであり、手に取るのもおこがましいとさえ思えるハリとツヤを誇る。
背丈こそそれほど変わっていないが、手のひら、足のサイズと見比べてみれば歴然の差である。
そこまで観察して、目視しづらい部分へ感覚をやる。
この状況に心当たりはないかと胸に手を当てるが、そこにあるのはふくらみのみ。
内股になって男の存在を確認するも、確認できず。
鏡像が自分ではないという可能性を考えて手をふるも、愛らしく彼女も手を振り返す。
ミロは自分ならにっこりと微笑んだとしても、表情筋のなさからろくなことにはならないだろうと思いながら実行に移す。
鏡の中には抱きしめたいほどのアイドル顔が、まさに自愛に満ちた微笑を浮かべていた。
他に誰もやらないようなことってないかな……。
そう考えながら鏡像と自分の動きのタイムラグを探して歩き回っていると、答えにたどりつく。
これしかない……!
ミロは首をかしげてみたり、振り向いてみたりとおおよそアイドルがやりそうな、あざといポーズを一生分試してやろうと思い立つ。
だが、実行に移してみてすぐに気づいた。
思っている20倍はうまくできてしまっていることに。
目をうるませてみればすぐに頬を伝う涙が、背中で腕を組めば反った体のラインが、それぞれ美曲線を描く。
ぎこちないながらも、想像の再現にいたるまで時間はかからなかった。
そうだ写真を、とスマホを手にとった。
夢から目を覚ましたミロが手にとったスマホは『所長』とだけ表示され、電話をつなぐ許可をとアラーム音で知らせていた。
心地よい思い出だったため浸っていたい気持ちはあったが、おぼろげながら昨日のことを思い出して電話をつなぐ。
「やー君か。探したよ」
「所長って誰なんですか」
「それは君、才覚あふれる経営者である私のことだよ」
冷静な印象の低い声なのに自信過剰な茶目っ気を帯びた話ぶりで確信する。
あの初老の男だ。
「昨日の……。でしたらこの部屋もあなたのしわざですね」
「察しがいいね。事務所勤務が終わるまでそこに住んでもらうつもりだから、近所づきあいもそれなりにしておいてくれたまえ」
そんな誘導ができるならこの人が戦えばいいのに。
「それで、事務所にいけばいいんですか」
「だね。私は今出てるけれど、事務所に控えてるトナミくんに今日のことは伝えてあるからそれに従って。あと、自分が天然の女体化だということは絶対に言わないこと」
一方的に言って電話は切れてしまった。
毎朝のルーティンをこなす。顔を洗って歯を磨き、髪をとかして自室をあとにした。
ミロは気づかないが、持っていなかったはずのパンツスーツに着替えていた。
今度は道に迷わなかった。そのことだけでミロは得意げになるが、心配なのはこの先で出会う同僚とうまく付き合っていけるかどうかだった。
階段を駆け上り振り返る。昨日見たような真っ暗などこへ続くかもわからない階段ではななかった。
一時の幻覚かと納得してドアを開く。
「こ、こんにちは」
語尾がわずかに震えるのを感じるものの、初手としては十分成功だとミロは思った。
「うい」
とたったそれだけの一言が返ってくるが、姿は見えない。
声のした方向を頼りについたての向こうに顔を覗かせると、ゲームに熱中する小柄の女がいた。
床に座り込んでいるのもあるが、とにかく小さい。ショートカットにつんつんとんがった前髪と、ややツリ目の組み合わせによってきつい印象を受ける。体にぴったり合ったパーカーによってウエストまわりのくびれが際立ち、胸から腰にかけてがS字曲線を描いていた。
この人がトナミさんかな?
しかしミロには確信が持てない。
外見的特徴も何も聞いていないのだ。名前だけでどうマッチングすればよいというのだろうかと考える。
話しかけてみれば少なくともトナミなのかどうかは確認ができるわけだが、ミロのながらくの引きこもり生活がここにきて祟ったのだった。
どうしようかと立ち尽くしているミロを見かねた女がいう。
「気が散るからそこに座ってて」
小さくもよく通る声で指示されたため、条件反射のように着席にいたる。
「はいっ、あの、トナミさんですか?」
恐縮しながらも、なんとなく切迫感から言葉を発する。
女の方も気が散ると言ったばかりなのにといった態様である。
「都波ね。そういえばそうなったんだっけ……」
ぼやきながらもトナミの指さばきは止まらない。
呆然と天井を見上げるミロと、心ここにあらず画面の向こうに没入するトナミ。
両者の壁はついたてひとつであるが、その心は異次元の隔絶にあった。
しばらくしてトナミが顔を上げて言った。
「じゃあいこっか」
「あの、どこへ行けば……」
ミロもすぐに応える。意識しはじめた次の瞬間にはトナミはドアを開けて出払っていた。
あわててついていくもその行き先に心当たりはなく、トナミの背中を探していくしかなかった。
トナミを追って階下の喫茶店に入った。
午前中の通勤時間をすこし過ぎたころだ。客足はまばらで退屈なムードに包まれていた。
トナミがイスを引いてミロを座るように促し、自身は対面に座る。
軽食をお互いに注文して一息つく。
「あなたがミロね」
「はあ。所長に言われて来たんです」
「何かいいこと聞いた?」
「なんのことです?」
しめたとトナミは笑う。
「そっかー。じゃあこうしよう」
そして一息吸ってから言った。
「事務所のっとらない?」
一瞬、ミロの思考は止まる。
何を言っているかわからなかったからだ。
「まだ僕は事務所がなにをやっているかもわかっていないので……なんとも」
「悪い虫を掃除するだけの掃除屋だよ。なに、スズメバチの駆除よりは危なくないし、ゴキブリ退治のほうがよほど怖いぐらい。
……そんなのよりさ、もっと熱い仕事をしたいと思わない?」
「そう言われましても……」
「なに? まだ一件も事件にあたってないの?」
「そうなんです」
情けなさそうに眉をハの字に曲げるミロに、トナミはお手上げといったところ。
「ははあ。新人教育を私に任せるとは所長も厳しいねえ」
「自分で言うんですか」
「ついてこられるなら所員の中で一番うまく教えられると思うよ。ついてくることができればだけど」
ミロは血の気が引くのを感じながらもいかにして現状から抜け出すかを考え始める。
「とにかく、仕事の話をしましょう、ね」
「そうねえ」と思案に入るトナミを前に、ミロは手持ち無沙汰になってしまった。
なんでこう新人教育に対してざるなんだろう。
マニュアルがないのはよくあることだとしても、研修方法が確立されてなさすぎるような。
仕事内容さえ不明瞭な事務所に何かを期待するのも無理か、と落とし所をみつけて納得する。
そうこうしているうちに頼んでいた軽食が並べられ、どちらからともなく手をつけ始めた。
ミロはパンケーキでトナミはサンドイッチと、軽く平らげたあとにトナミから言った。
「ちょっと好きに調べてみてくれない?」
とんでもないことを口走っているのではないかと思い、ミロはおそるおそるたずねる。
「何をですか?」
「何を調べるかをね。テストみたいなものだと思ってさ」
「あの、教えるのは得意みたいな話は……」
「ついてくることができれば、ね?」
やれと言われてできたならばついてこられたもの、うまく教わったのだとする。
できなければついてこられなかったものとして『お前が不出来なのだ』と理不尽に罵られるのだ。
つまりそれは、
「丸投げですよね」
「そりゃー仕事柄機密事項も多いしね。調査内容も察することのできない人においそれと『依頼』内容を教えてあげることはできない」
トナミのこぼした言葉の断片からすぐさますくいあげる。
「誰かからの依頼なんですね」
「ボーナス情報だと思ってくれていいよ。それで? 誰から頼まれて何をするべきなのかな、我々は」
フォークをゆらゆらと動かしながら問うている。
トナミは問題の具体性を上げようとしている。この場でだ。
したがってそれはこの場で答えの出る問題なのではないかとミロは思い至る。
「誰からと言われたら、所長ですよね? そうでないと事務所のこともその周辺関係も知らない僕に答えなんか出せないじゃないですか」
「ふんふん、そういうことにして、所長は何をしてほしいんだろうね?」
「……このクイズって意味あるんですか? 所長も似たようなことやってましたけど」
「所長もこれ好きだからねー。でも、私のは意味があってやってるから安心してくれていいよ」
所長のは意味ないのかと辟易する。
しかしそうは言ってもこちらがその意図がつかめないのでは所長のやったことと変わりない。
「ごめんなさい。わかりません」
あまりに情報が少なすぎた。
これで答えが出せるような超能力者であればミロもこんなところにいないだろう。
せいぜいがその特異体質だけであって――。
「よし、じゃあ調べる手段は問わない。どこを調べたい?」
トナミは好きに言ってごらんと目で訴える。
しかし、ミロが知っている場所など限られている。
どう帰っているかもわからない自室と上にある事務所だけ。
「事務所に資料とかあるんじゃないですか?」
「おーけー。私はそれに従おう」
正否にも触れず、調査に向かう相棒としてそう言ったのだった。