天然もの
朝起きたら体が変質していた。それも女性体に。
女体化と聞いてどう思うだろうか。少なくともこの少年はショックを受けて立ち直れなかった。
神様がいるとしたら、そうとう怒ってるんだろうな。何の罪かまではわからないけれど。
そんなことを思えるのは最近になってからだ。
当時は一本の心の芯を折られたと言っても過言ではない落ち込みようだった。
家から一歩も出ない生活が何年か続いたある日。一枚の紙が部屋に届いた。
『女体化にお困りの方必見! 怪奇現象調べます』
見出しの下には地図とその周りの景観写真があった。
住所を読むに近所であることまではわかる。
あまりにストレートな物言い。
これを送った者がこの現象の犯人なのではないかとさえ思えた。
まともな神経をしていればそんな怪しい文句や紙切れ一枚など無視していたことだろう。
だが当時少年から青年となった彼はまともでなかった。
何より求め、何年待っても得られなかった手がかりが、何の前触れもなく訪れたのだ。
罠だとわかっていても、飛びつかずにいられるだろうか。誰が責めることができようか
男物の服に体を通してサイズの合わない服をしばりつけるようにして身にまとう。
不格好ながらも外へ歩み出す青年の姿は、さながら不死鳥の再誕であった。
外へ出たはよいものの長い引きこもり生活のせいで土地勘を忘れているため、地図を見ても目印がどれかわからず途方に暮れていた。
このあたり人が多いし、できれば避けたいんだけど……。
考えれば考えるほど、青年は行き先を失った。
大通りから別の大通りへ向かうために小さな小道に入る。見た目からしてすぐに向こう側は地図の通りだと思っていた。
見慣れない街並みは距離感を狂わせ、目的の道をも喪失させる。
ろくに調べもせずに外へ出るのは間違いだったのかもしれないと思い始める。しかしそれは過ぎた後悔であり、いまさらどうすることもできない。
無意識に求めた助け。
ある思い出がふと蘇る。
そのときも今と同じく迷子になって泣きそうになっていた。
広大なショッピングモールの大海に飲まれ、孤立無援誰も彼に手を差し伸べることはなかった。
偶然と幸運と蛮勇。
すべてが合わさり噛み合った時、その混沌は打開された。
思い出の中で青年の父は言った。
「心に銃弾を込めろ。お前がどれだけみっともなくとも、どれだけ弱くてもいい。ただその心に秘めた弾丸が必ずお前を救うんだ」
「僕、よくわからないよ……」
「なら、それでもいい。そのかわり今言った言葉を覚えておくんだぞ。空薬莢よりは役に立つだろうからな」
青年は解釈する。
今思えば物騒な話。要はキレるスイッチを作れってことでしょ。僕は誰も殺したくないし傷つけたくもない。
正しいかどうかまではわからない。
父親の言葉であるということだけだが、青年はそれが自分に似合った言葉かどうかで判断した。
結果は否だが、そのときの父親の『役に立つ』というたった一言だけを抜粋して行動に移した。
青年は手持ちの弾を撃ち尽くしてしまっていた。
ただただまっすぐに。ただひたすら行った。
人通りも大通りも暗がりも関係なく、ただまっすぐに。
喧嘩をする若者の間を過ぎ去り、警察の職務質問をパスし、怪しい店のキャッチも無視した。
尾行されているいるような視線を感じるも妄想だと唾棄する。
手はすでに尽くし、最後に残った父親の言葉だけを信じて。
青年の少年期で止まってしまった時間はそこから動きだした。
ここであってると思うんだけど……。
青年は部屋に届いた紙にある、事務所の外観写真を見比べる。
一階の気の利いた明るい喫茶店の上へ、のしかかるように構えられた怪しい事務所。
それだとわかる看板も表示もない。
喫茶店の印象がなければ、一生かかっても見つけることはできないだろうというほどに慎ましい主張。
薄暗い階段を登り、磨りガラスの向こうで光る蛍光灯の明かりに照らされたノブに手をかけた。
開くと質の良い革張りのソファーに腰掛けた初老の男がいた。
白髪交じりの頭に同じ色のジャケット。格好良く年をとればこうなるであろう男の理想、ダンディズムがそこにあった。
青年を一瞥するとにこりと笑いかける。
「来たかね。まあ、座りなさい」
促されて正面に腰掛けるが落ち着かない。
しかたなく初老の男を見るも青年が話し始めるのを待っているようで、これもまた落ち着かない。
紙をつきだしてこう言うのが精一杯だった。
「あの、ここに書いてあっぅぅ……です……」
声の出し方に戸惑う。今まで出してこなかったわけではない。
ひとりごとならば誰よりも雄弁に語れた。
一人だったからよかったけど、人のいる環境で話すのにはまた別の口がいるのかも。
二口の怪物になった自分を想像して思わず笑みがこぼれてしまった。
そして黙って見つめる初老の男のことも忘れていた。
「だったらこっちの口は食べる専用の口ってことになるの? ……あとひとりごとも言うかも」
「じゃあ、ひとりごとで話してくれるかな? 聞いてあげるから」
突然現れた聞き手に青年は驚き恥じる。
「う……ごめんなさい……」
「謝ることはない。それより、口がいくつもある異形に心当たりがあるのかな?」
「あ、いや! それは自分のことで……これも違うような」
誤解が誤解を招く自分の口を縫い合わせてしまいたかった。
男がそれを聞いて指を鳴らす。
「ちょうどいい。目隠しをしてもらえるかな」
いたずら好きの子供がまたもよからぬことを考えているときのような、「いいこと思いついた」といった表情。
口ではうまく表現できない青年はせめてもと、いそいで手渡された布で目を隠す。
「手をここに出して」
初老の男は青年の手をとってテーブルにのせる。
青年の手の甲に水滴が触れる。冷たくて心の底まで洗われるようだ。
そのまま水滴は手の甲を滑り落ちテーブルの上で止まった。
次に大きく手を動かす気配がするが、青年には何をしているかわからなかった。
さっきから行ったり来たり……。変なことされてないといいんだけど。
不安。
だが同時に相手に身を委ねている感覚に酔いそうになる。
高所で今足を踏み外したらどうなるのだろうと考える気持ち。
このままどうにでもしてほしい。
自棄を帯びた捨て身の発想。
すぐに何を考えているんだと己を奮い立たせる。
外すよう促され、布を外すと目に光が戻った。
そこに見えるのは目隠しする前と同じ光景。ただひとつ、手の甲から落ちた水は青く濁っている。
なんの意味があったのか青年は疑問に思う。
「これは……。君本当にたくさん口のついたお化けだったりする?」
「そんなわけないじゃないですか……」
初老の男は考え、そして青年の手元の紙に目をつけた。
「それちょっと見せて」
「え、ええ」
手にとってすぐに気づく。これはその筋のものだと。
「女体化にお困りと。ふーむ、なるほど。だとすればそういうことか」
男は青年の身なりをみるに腑に落ちる。加えて先程からの応対にも察しがいく。
「あの、あなたが送ったんじゃないんですか?」
「ん……。ああ、そうだね。ちょっと前のことなんで忘れてしまっていたよ」
軽く笑うが、目は笑っていない。青年は一瞬間の悪さに気づくが、言うには及ばなかった。
「君、自分のことについて知りたいとは思わないかい?」
「はい、できれば……」
歯切れの悪さに男はわずかに眉をつり上げる。
すぐに表情を整え、隣に寝かせてあったケースから書類を一枚取り出し言う。
「それではここから問題を出そう。いいかい?」
「面接ですか」
でも、なんのために?
問われることには慣れていない。どこか、急かされている気分になるからだ。
でも、これ以上逃げまわっていてもしょうがない。
青年は胃に穴があく思いでそれに耐えた。
「お願いします」
「では、好きな色は?」「……青」
「急がばまわれか、急がばまわらずまっすぐにだとどっちが好き?」
「はあ。ええと、急がばまわれで」
「じゃあここはパスで……。あ、ナポリタンとペペロンチーノだとどっち食べたい?」
「関係あるんですか? ナポリで」
「あとでこの下の喫茶店で食べよう。それとー……」
これでなにがわかるのだろうか。雑談ならその喫茶店でやればよいのではないだろうか。
しかしそれでも断れずにいるのがこの青年であった。
「変なもの見たことない? 例えば幽霊とか」
「そんなの信じてませんよ。この体をみれば世の中なんでもありかなとも思いますけど」
「え、ああそうだっけ。んー、じゃあこれで終わりにしよう。合格!」
ほっと胸をなでおろす。が、重要なことに気がつく。
「待ってください。僕、ここがなんの仕事してるかまだ聞いてないんですけど……」
急速に二人の間が冷え込む。時間が止まったようにさえ感じられる。
何かまずいこと言ったかな。
「そ、そうかい。どこからどこまで話せばいいかわからないな」
「最初から最後まで、僕の体のこと何でもいいので教えて下さい」
青年の目は真剣に、初老の男を見据えていた。
男はそれをどうとらえたのか言った。
「きっかけに心当たりがないのはまずいね。ただでさえ情報が少ないから……。そうだ、どうせここで働くんだ。君自身のことも調べてみればいい」
「働くなんて一言も!」
「いや、君ほどの逸材は他にないよ。なんせ天然ものだ。もし会話が苦手なら他の所員でもつけよう」
「もしかして僕の体のことが関係あるんですか?」
「ああそうさ。ここの仕事は君みたいな異界化の影響を受けた人を助けることだからね」
青年は異界化などといった言葉に対しても、もうなんと言ってよいかわからなかった。
「僕以外にも女体化した人がいるんですか?」
「女体化は他に例がないけれど、さっき言ってたような口がいくつもある怪物にされた人はいたね。あれはひどかった」
口ぶりとは正反対に、いたって楽しそうに言ってのける男。
青年は辞退したい気持ちを抑えながら言った。
「……具体的には何をすれば?」
内容によっては怖い思いをしなくていいかも。と気軽に考えていた。
「異界の魔物、異形とか怪物とか隠語でカラスとか適当に読んでるけれど、そいつらをどうにかしてほしい。具体的にと言われれば戦うか話し合うか移動させるか……まあなんでもいいから無力化させることだね。多くは戦うことになるからそれなりに手当は出すよ」
そこで、青年の気持ちは決まった。
「やっぱり、このお話は無かったということで」
こんなでたらめばかり。からかっているに違いない。
「おや、ここまで聞いておいて帰れると思ってるのかい?」
「もういいです」
青年はドアを開け、薄暗い階段を見下ろした。
そこには人通りの多い大通りに面していたはずだった。ましてや昼間であるからして暗闇で階段の下が見えないなどということはありえない。
階段は先が細くなって見えなくなるまでずっと続いている。
暗闇の中にあっても階段の軌跡だけは真っ白に輝くようだった。
「ここはどこですか」
「私の事務所だよ。もっと泥臭いところに建てたかったんだけどね。まあ街中は街中で人間の毒が渦巻く暗き場所だから、住めば都といったところだね」
男の言葉を理解はしなかった。
青年はただ監禁、誘拐といった犯罪めいたものにまきこまれたという意識しかない。
とにかく人の多いところへ戻りたい一心で青年は言った。
「喫茶店があるって言ってたじゃないですか。それに行きましょう」
「やー、でも君帰ろうとしたよね? どうしようか」
「もう帰りません! ここで働くので!」
「そうかそうか」
笑いながら言う初老の男のことが青年はわからなかった。
「わかっているだろうけど、私の前で嘘がつけると思わないことだね」
「僕は嘘をつきません」
「あい、わかった。では、そうだ、名前をつけよう何がいい?」
「名前って……。名前はもうあるんです」
「おや、何かな?」
「美理夜です」
青年は驚きのあまり口を押さえた。
いま正確に名前を言ったつもりがまったく違った音として発せられたからだ。
違う! 僕の名前は……。
「ミリヨね。んーしっくりこないな」
口に出して確かめてみる。
自分でつけたわけでも親にもらった名前でもないため、なんと言われようが傷つくことはない。
ひたすら違和感だけが大きくなっていた。
「そうだ、ミロと呼ぶことにするよ。よろしくミロくん」
「え、ええ」
握手を交わすが、ミロは釈然としない。
「今日はこれでいいよ。もう帰りたまえ」
「は、はあ。書類とかいいんですか?」
ここに来てミロは現実的に考えてしまっていた。
「いいよ。だけど、君に使った清水は毎月の給料から差し引いておくから覚えておくように」
「使ってないです……あっ」
ミロは目隠しの向こうで手の甲に落とされた一滴のしずくのことを思い出す。
「たったあれだけでもそれなりに値が張るんだ。君が本物でよかったよ。反応がなかったらどうなってたことか」
その後、有無を言わさずドアの外へ押しやられ、気づけば事務所の前の大通りに一人立ち尽くしていた。
午前中に出たはずなのにすでに日は暮れ真っ赤に染まった空。
名前もしらない初老の男が言っていた喫茶店も閉店へ向かって片付けを始めていた。