白山
全速力で走るのにも限界があるが、なんとか紗の家まであまり速度を落とさないでたどり着くことができた。
陽が暮れたせいか、屋敷一帯ひどく素っ気なく、冷たい感じがした。
息を整えるのもほどほどに、紗が屋敷の中に入っていく。その後を追ってオレも屋敷に入った。
人の気配がしていいものなのだが、どうもシンとしていて、屋敷に誰もいないようだった。
急いでいた足が落ち着きを取り戻すと同時に普通の速度に戻っていく。
客間などの障子は開け放たれていて、だれもいない。静かな廊下にオレと紗の足音だけが響く。
紗が足を止めた部屋は光源伯父様の部屋。つまり、紗の父の部屋。
大きく起きを吸ってゆっくり吐いた紗が障子戸に手をかけた。
開け放たれた部屋を見て、一番に目に入ってきたのが奥の襖についた赤い色。その下に落ちている何かと、その横に立っている何か。
「お父・・様・・・」
状況を確認せずに踏み込もうとした紗の腕を掴んで引き寄せ、暗い室内に目を凝らした。
キラリと血濡れた刃が光ったのが見えた。咄嗟に紗を後ろへ隠す。
「誰だ!!」
どうせまともな返事がくることは期待していない。ただ、相手がいる、と認識できればそれでいい。
間もなくギラリと鋭い眼光を放った目がこちらを向いた。にぃっと笑った相手に警戒心を尖らせ、戦闘態勢に入る。
刃をこちらに向けて走ってきた。後ろの紗を危険にさらさないように横に押しのけ、相手が走りながら攻撃してきたのをかわし、腕を掴んで相手の勢いを使って庭の方へと投げた。
一瞬たりとも油断はできない。こちらには守るものがある。
こちらは丸腰だが、対抗する手段は学校でたくさん習ってきた。その努力が無駄にならないようにしたい。
ぎらぎらと目を光らせる相手はどうしてか、刃を持つ姿に無駄がなくて、今まで扱ってきたのだとわかる。つまりは手練れである。
今日は本当に運がないなあ、なんて思いながら相手を倒す最短の方法を頭の中で巡らせた。
駿に押されるようにして、屋敷側に残された僕は急いで父のもとへ駆け寄った。襖に飛び散っているのが血だと分かる。その出血量が尋常でないことも。だが、父とて那智出身。早々に倒されるわけがないのだ。
「父様!!」
声を掛けてもピクリとも動かない。
嫌な予感に血の気が引く。
「父様っ、父様っ」
近くで呼んでも声に反応を示さない。肩を叩いても動かない。ショックを覚悟で首筋に手を当てた。
鼓動を、感じ取れない。
果たして、冷たいのは、僕の指であろうか。それとも父であろうか。
「嘘・・・・・・・だろう・・・?」
父が動かないなんて、ありえない。
「父様っ、父様っ」
ぐったりとする体の重たさが、徐々に現実を示してくる。
「・・・母様。母様はっ!?」
戦っているであろう駿の方を見もせずに、屋敷の奥へと走って行った。
屋敷がシンと静まっていることが、先程の父を思い起こさせて、足が重くなっていくような気がした。
「母様!!」
どんなに叫んでも返事がない。
パァンと乱暴に障子や襖を開け放つ。その度に見る使用人の死体に、自分の血の気が引く。
赤い。黒い。赤い。黒い。赤い。黒い。
母のいつもいる部屋の障子戸を開けるのに、手が止まった。
いる、だろうか。いなかったら、いいな。
・・・・生きていたら、いいな。
そんな考えに、自分が希望を持っていないことに気が付く。
障子戸を開けると母がいた。いつも着ている綺麗な着物は、もともとの色である浅葱色に不釣り合いな真っ赤な色に汚されていて、胸を突かれた気分だ。
「母様」
呼んでも、返事はない。目が開くこともない。
近づいて、触れてみると、あの温もりはなく、ただ冷たくそこに在るだけだった。
ああ、自分に力があったら、助けてあげられただろうか。駿を待たずに帰宅していたら、守れていただろうか。そんな過ぎたこと、気にしたってどうしようもないけれど。
とにかく、僕がやることは、もう決まっている。
風が味方をしてくれる。そうだろう?――――――――
―――――――――私をあてにするなんて、失礼ね。でも嫌いじゃないわ。
敬意はちゃんと払うよ―――――――――――――――――――
―――――――――どの口が言うのかしら。まあ、いいわ。さあ、もう名前は知っているのでしょう?
・・・・薫。力を貸してくれ―――――――
―――――――――何のために?
後悔しないために――――――――――――――――――――――
―――――――――いいわ。前に進みなさい。紗羅。
鶯色の大羽を持った鳥獣は、大きな風を身に纏い、母の着ていた着物と同じ浅葱色の尾羽を僕の頬に掠めて飛び立った。暗かったはずの景色が白く光る空間であると認識した途端に、現実に戻されたらしい陽が暮れた暗がりに一人立っていた。
右手には微かに冷たい空気を纏った長刀。
全ての風が僕に味方した。
勢いよく床を蹴り、走った。後悔しないために。もう、失わないために。
人は何度だって改められる。だから神刀は人を殺めない。まあ、例外も存在するけれど。
けれど、僕の神刀は人を殺めるものではないと知っているから。
「駿!!」
「紗羅!?」
その一瞬の隙でさえ逃さないと言わんばかりに、相手が駿を傷つける、その前に、風が僕の体を押した。
ひとつの傷もない長刀が、相手の胸に深く突き刺さる。
深く。深く。鍔まで突き刺さると、刺した時と同様に真っ直ぐ引き抜いた。血は出ない。
意識を失った相手はどさりと倒れ、その場に静寂が訪れた。
「・・・・紗羅」
「駿。ごめん、遅くなった。今日は、もう帰っていいよ」
「紗羅」
「駿、帰って」
「馬鹿言うなよ。・・・・泣きそうな顔して何言ってんだよ」
「馬鹿は・・・駿だろ・・・。泣きそうだから・・・追い返してるんだよ・・・」
駿が、はあ、と溜息をついた後、ぎゅうっと抱きしめてくれた。
体の大きい駿の腕の中にすっぽりと収まってしまった。
「こんな時ぐらい、頼ってくれよ・・・。じゃないと、オレがいる意味、ないだろ」
優しく頭を撫でられる手に、温かさを感じる。それと同時に両親の動かぬ姿を思い出して、涙が溢れた。
腕の中で泣きじゃくる主をそっと撫でていると、遠くから足音が聞こえた。一人ではない。三四人。いや、もっといる。七八人くらいだろうか。
どっちにしろ、足音からして御影や神官ではない。履いている靴の音が違うのだ。つまりは敵だろう。
紗を抱きしめている腕を少しだけ持ち上げた。
神官に目覚めたのは紗だけではない。オレだって、急だったが、神官として目覚めた。だから、ずっと一緒にいられるんだ。そう伝えるのは紗が泣き止んでからにしよう。
信時、もう一度力をかしてくれ――――――――――
――――――――――好きに使うといいさ。
ありがとう――――――――――――――――――
ああ、桜色の毛並みを持った虎が、興味のないような素っ気ない顔をしているのが目に浮かぶようだ。
この屋敷の外だけに音が広がるよう想像しながら、親指と中指をくっつけて、パチンと控えめに音を鳴らした。きっと今頃は高音で平衡感覚を失った敵がバランスを崩して倒れ伏していることだろう。運悪く外を出歩いていた者には申し訳ない。
ぐずぐずと泣き止んだのか、顔を覗き込んでみると、照れたように顔を横へ向けてしまった。
「泣きやんだ?」
「ん。すまない。駿、もう帰っていい」
「いや、今日はこのまま一緒にいるよ。大変だろうし」
まったく落ち込んだ様子の紗を一人にしておけない。
「だけど・・・」
「紗。オレも神官になった」
「・・・は?」
神官などそうそうなれるものではない。けれど、神官になった。なんという偶然だろう。いや、必然なのかもしれない。
手首についたブレスレットを紗に見せた。赤と黒と白の珠が艶やかに月光を反射させている。
「これからも、紗と一緒にいるよ」
「・・・・駿。僕と一緒にいて楽しい?」
「・・・楽しいとか、楽しくないとか、そういうんじゃなくて、オレが紗と一緒にいたいから紗と一緒にいる。傍にいさせて、紗」
懇願するように、紗に言うと、呆れたように、溜息をつかれた。
「何も、残ってないよ?」
「紗がいればいいよ」
「なんだそれ・・・」
寂しそうに笑って、でも確かに、気力が出てきた紗の声に自然と嬉しくなる。
「・・・・。駿、ずっと傍に・・・」
「うん」
ずっと傍にいる。だから、一人じゃない。しっかり伝わってるといいな。
そう思いながら、紗の背中を眺めた。