幕間 一
〜午前四時、路地裏〜
狭い路地を、一人の女が歩いている。黒いワンピースに黒いジャケット黒いブーツで身を固めた女の足取りは重く、相当の無理をしているのが見て取れた。
夜明けはまだ遠く、周囲には他に人の気配はない。
だが女は不意に足を止めて、行く先の暗がりを窺うように目を凝らした。
建物の陰から現われたのは、金髪碧眼の男だった。白いシャツは甘く優しい顔立ちをした男によく似合っていたが、小汚い路地裏では不自然に浮いている。
「首尾は上々……というわけでもないみたいですね」
男はにこやかに声を掛けるが、女は応えない。顔を見るのも嫌だと言わんばかりに眉を顰めていた。
だが男はむしろ嬉しそうに「好い顔ですね」と女に一歩近付いた。女は一歩後退る。
「なぜあの男の魂を丸ごと奪わなかったんです?」
「貴方には関係ないわ」
男は宝石のような碧い目を細め、自身の薄い唇をぺろりと舐めた。獲物に向かう蛇のような仕草に、女はもう一歩退く。
「きっと君はこう思った……彼が私を好きだと言うのは、彼自身の気持ちじゃない。紛れ込んだ【魂の欠片】に引きずられているだけだから」
芝居がかった台詞を吐く男に背を向け、女は来た道を戻り始めた。だが次の瞬間、どうやって回り込んだのか男に道を塞がれてしまう。
「君のその優しさはむしろ残酷なのだと、いつになったらわかるんです?」
笑顔を浮かべたままの男の声は、酷く冷たい。
「彼は生涯ずっと、覚えてもいない君の影を探し続ける。それでも殺されないよりはマシだと?」
「関係ないわ。私が欲しかったのは【欠片】だけだもの」
「君を愛した彼本体の魂があれば戻れたのに」
「私は戻らないわっ!」
女はずっと意識して抑えていた声を張り上げ、男を睨み付けた。だがその表情は頼りなく、今にも泣きだしそうだ。
男は酷く優しい笑顔で女を錆の浮いた壁際に追い詰め、夜に溶けてしまいそうな女の黒髪を撫でた。
「もう【欠片】集めなんてお止めなさい。愛を受け取らず欲に塗れた男の精ばかり浴びて、君の魂はもうボロボロなんですよ」
「構わない」
「このままでは、本当に悪魔になってしまいます」
「そうなりたいのよ!」
男の顔から、笑みが消えた。
「許しませんよ」
男は女を壁に押し付け、真っ赤に彩られた唇を抗議の声ごと塞いだ。最初は逃れようともがいていた女だったが、やがて自分から強請るように顔の角度を変え始めた。
街灯とは違う目映い光が壁を染めるほどに溢れて、轟音と共に二人の身体は離れた。
女は肩で息をし、男は唇から血を流している。一瞬前まで睦みあっていたとは思えない様相の二人の背には、およそ人間には有り得ない、純白の翼が生えていた。
「……これだけやれれば、当分は大丈夫ですね」
先に口を開いたのはやはり男で、しかしすぐ苦しそうに咳き込んだ。口を押さえた掌には赤が飛び散っている。
「まったく……でもわかったでしょう? 君の本質は聖浄な気を求めているんですよ」
「それでも、私は……あそこへは戻らない」
女の声は震え、闇色の瞳は涙に濡れている。片手で心臓の辺りをぎゅっと押さえていて、男はそこへ目をやると小さく舌打ちした。
「これだけ浄化しても消滅しませんか。忌々しい」
「おかげで動きやすくなったわ。ありがとう」
精一杯の強がり。それは男も十分にわかっていた。
純白の翼を広げて夜空へと舞い上がる女を見送って、男は壁にもたれてずるずると崩れ落ちた。立っていられないほどの傷を負ったたというのに、気持ちは歌でも唄いたくなるほどに昂ぶっている。
「逃がしませんよ。君は必ず、僕とあそこへ帰るんですから……」
口いっぱいに広がる血の味の奥に、女の甘い香りが残っている気がした。