ごく普通の男の場合
名前:井上敦
年齢:25
職業:飲食店従業員
恋をした。
報われない恋だった。
「好きだ」
と告げた俺に、彼女は
「それは御愁傷様」
と、毒華のように美しく微笑んで、俺はますます彼女に捕われた。
***
俺が雇われ店長として働く路地裏のカフェバー。彼女はそこの客だった。
ある雨の晩、ふらりと訪れた彼女はカウンターでしばし一人で酒を呷り、声を掛けてきた男と一緒に出ていった。それは、雷に打たれたような衝撃だった。いや、打たれたことなんてないけどさ。
息を呑むような美人なのに、酒に任せてナンパを仕掛ける男にあっさりと身を任せるなんてと、下世話にも思ったものだ。
だが数日後に再びやって来た彼女は、言い寄る男たちをことごとく冷たくあしらって、一人で帰っていった。好みのタイプがいなかったのか、なんて、また下世話な想像をした。
「今晩は」
「いらっしゃいませ」
「今日のお薦めは?」
「いい赤が入りましたよ」
「じゃあそれを」
二日連続で来ることもあれば、二週間空くときもある。それでも月に四五回も来店すれば常連上客と言っていいだろう。
彼女の来店を待ちわびている自分に気付くのに、長くはかからなかった。
常連とはいえ、特別親しい会話をするわけでもない相手に、そもそも店の大事な客に、どうしてここまで惚れ込んだのか、そんなの俺が聞きたい。
一目惚れでも、何でもいい。気付いた時には、もう彼女しか見えなくなっていた。
だが俺と彼女はあくまでも店員と客であり、その距離はそう易々とは縮まらなかった。
彼女は黙って酒を飲み、男を侍らせ、帰っていく。
時には一人で。時には男を選んで。
そして俺は気付く。
──雨。
彼女が男に身を許すのは、雨の夜だけだった。
彼女が店に来るようになって、二年が経とうかという頃。
その日は朝から酷い雨で、夜になって雨足はさらに激しさを増していた。
叩きつけるような豪雨を窓の外に眺めながら早々に店じまいを考えていたところへ、彼女がやって来た。
「よかった、開いていて」
「もう閉めようかとも思ってたんですよ」
「あら、悪いわね」
「いえいえ」
俺は彼女に、赤ワインのグラスとタオルを差し出した。深い紅に彩られた唇が意外そうに少し開いて、それから綺麗な弧を描いた。
「ありがとう」
心臓が止まるかと思うくらいの破壊力。そんな表現が誇張でなく当て嵌まる事象が存在するとは。
少し濡れて束になったショートの黒髪が、細い顎や首筋に張り付いてその白さを際立たせていた。
艶めかしさに喉が鳴り、慌てて目を逸らしてから「童貞か!」と内心で己に突っ込んで、凹んだ。
彼女は普段と変わらず、黙って酒を飲む。だが隣に座る男はいない。
滝のような雨音。絞ったピアノジャズ。唇とテーブルを行き来するグラス。
「貴方も飲めば?」
店中のグラスを磨き終えそうな勢いの俺に、彼女が言った。
「じゃあ……一杯だけ」
二人で無言で酒を飲む。
遠くで雷鳴がして、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「……今日はもう、誰も来ないと思いますよ」
彼女からの返事はない。ただ、唇にグラスを運ぼうとしていた手が止まった。
「どうして……雨、なんですか?」
返事はない。
代わりに彼女は少し遠い目をして、柔らかく微笑んだ。その視線の先に、恋人でもいるかのように。
首の後ろが粟だって頭に血が上る。
カウンターから出て近付いていく俺を、彼女は値踏みするように、どこか試すように、黒い瞳を輝かせて見ていた。
性急なキスでも興奮はいや増すばかり。抱き締めた躯は想像以上に華奢で、だけど柔らかくて。
紅の剥がれた唇が、唾液に塗れていやらしく光る。
もう、堪らなくて。店の明かりを消すと、寝起きをしている二階の自室に彼女を引っ張り込んだ。
黒い服を脱ぎ捨てた彼女の躯は輝くほどの白さで、ほんのりと甘いその柔肌を俺は夢中で貪った。
彼女が店に姿を見せたのは、それから三週間後の雨の夜。
目覚めると抱き締めていたはずの彼女は残り香すらなく消えていて、それっきり音沙汰もないから、完全にやらかした、もしくはすべて疲れた俺の妄想だったのかと、打ち拉がれていた頃だった。
「今晩は」
「……いらっしゃいませ」
「この前のワインはまだあるかしら? とても美味しかったから」
「……ありますよ」
「じゃあお願い」
微かな希望と下心を込めて、店には出さずに残しておいたラスト一本の封を切る。グラスに注がれる深い赤は、彼女の口紅の色によく似ていた。
そして彼女はその晩、他の男と帰っていった。
わかっている。
彼女は俺のものじゃない。それでも、嫉妬で気が狂いそうになる。
たった一度肌を合わせただけなのに。俺が勝手に好きになってしまっただけなのに。彼女が恋しくて怨めしくて、仕方がない。
「お前は俺のモンだろう!」と、言えたらどんなにいいだろう。
彼女はそれからも変わらず店に来て、黙って酒を飲み、男を侍らせ、颯爽と帰っていく。
時には一人で。時には男を選んで。
そうして何度目かの雨の夜。俺はようやく彼女と二人きりになれた。
「今日はもう、誰も来ないと思いますよ」
いつかと同じ言葉を掛けると、彼女は赤い唇を綺麗に上げて笑った。
「だから?」
「だから……俺……」
「……貴方、私のことが好きなの?」
「それは御愁傷様」
安売り店で買った薄っぺらい蒲団の上で、彼女の白い腕に抱かれて、俺は夢を見ていた。
泣きながら笑う、彼女の夢を。
夢か現か、彼女の白くて細い指が俺の胸を撫でる。それは、心臓が奇妙に跳ねるような快感だった。
「私はね、貴方の魂が欲しいのよ」
彼女は歌うように言う。
狡いと思った。
俺はもうとっくに、魂まで彼女のものなのに。そして、彼女は俺に躯しか預けてくれないのに。
そう返すと、彼女はまるで少女のように笑った。艶めかしい裸体と、純真無垢な笑顔が、眩しくて胸が苦しくなる。
「悪い女だと思う?」
「いまさら」
「私の正体は悪魔だって言ったら?」
「天使だって言われるよりは信じられるかな」
その美しい肢体を黒ずくめの衣装に包んで、黒い髪黒い瞳に赤い唇で男を惑わす。そんな彼女が実は人間ではないのだと言われても、むしろ納得してしまう。
彼女は少し驚いたように目を見開いて、また華やかに微笑んだ。息が、時間が、止まりそうだ。
彼女の赤い唇が、俺の胸に触れる。心臓に直接触れられたような気がした。
目が覚めた。
安売り店で買った薄っぺらい蒲団では、いくら寝ても疲れは取れない。凝り固まった首や背中を伸ばしながら、ふと気付いた。
──何か、足りない。
心が寒くて堪らない。だけど、それがどうしてなのかはわからない。
狂おしい熱を掻き抱いたような気もする。でもこのところ女とは縁がない。
なんだかしっくりしないまま欠伸を連発し、とりあえず店に下りる。カウンターに飲みかけのワイングラスが残っていた。昨夜片付け忘れたのか?
最後の客は、誰だっただろうか……
「疲れてんのかな……」
ぽつりと呟いて、窓の外に目をやった。
昨夜しとしとと降っていた雨はもう止んでいて、向かいの店の室外機の上で、黒猫が丸くなっていた。野良にしては毛艶のよさそうな子猫だ。
猫の小さな耳がピクリと動き、顔を上げると大きな欠伸をした。赤い口がかわいらしい。
黒と赤。
ワイングラス。
何か思い出しそうで、慌てて外に飛び出す。日差しに目が眩んで、視界が一瞬真っ白になる。
嗚呼……俺は、この白に恋い焦がれていた。
報われない、恋をしていた。
顔も、名前も、声も、何一つ覚えていないけれど、俺は確かに彼女に恋をしていたんだ。
もう、その熱すら思い出せないけれど──
気付けば、黒い子猫は居なくなっていた。