午前五時半の泣き声
「目的地は、帝都!これより進撃を開始する!」
ふぁ〜あ〜……眠い。
ハッ! 不味い! 出勤時間だ!
目を開けなきゃ――そう思った瞬間、
「だぁ〜! だぁ〜!」
……ん?
誰の声だ、今の。
耳元で、妙に間の抜けた泣き声が響いている。
いや、間の抜けた、というよりも――力の入らない、情けない声。
それにしても、やけに近い。近すぎる。
「だぁ〜! だぁ〜!」
まただ。なんだこれ。どこから聞こえて――
「あら? 起きたのね」
不意に、柔らかな声が降ってきた。
うお!?誰だこの人!?
視界いっぱいに広がる、見知らぬ顔。
いや、それどころじゃない。近い。近すぎる。
というか――
でかい。
巨人か?いや、違う。人間だ。多分。
その人は、私の身体を軽々と持ち上げている。
まるで重さなんて感じていないかのように。
ちょっと待て。
なんで私は持ち上げられてるんだ?
反射的に身体を動かそうとして――違和感に気づいた。
……手が、短い。
いや、短いどころじゃない。
ぷにぷにしている。指が、やたら丸い。
視線を落とそうとして、気づく。
首が、上手く動かない。
「だぁ〜!?」
またあの声が出た。
いや、今の、私の声じゃないか?
喉に力を入れてみる。
「だぁ〜……」
出た。終わった。
「元気ねぇ」
いや元気じゃねえよ!
というか、私、赤ちゃんになってないか!?
一体何が起きた!?
待て、落ち着け。落ち着け私。
記憶を辿れ。
確か――同期と久しぶりに会ったんだ。
帰りの方向が同じで、電車に一緒に乗った。
どうでもいい仕事の愚痴とか、上司の話とかして。
で、その電車が――脱線した。
凄まじい衝撃音。
急停止の慣性で、身体が投げ出されて。
何かに叩きつけられて、視界が反転して――
……そこまでは覚えてる。
それ以降の記憶が、ない。
まさか。まさか、私。
転生したのか?
しかも、前世の記憶持ち?
「ふふ、今日はよく泣くわね」
知らない女性が、優しく私を揺らす。
……いや、知らないっていうか母親、なのか?
そう思った瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
この人のことを、知らないはずなのに。
知らない、はずなのに――
安心する。落ち着け。
状況を整理しよう。
まず、ここは病院ではない。
部屋を見渡す。
……豪華だ。
天井には装飾の施された梁。
壁には絵画らしきものが掛けられている。
窓辺のカーテンは分厚く、明らかに高級そうな布地だ。
映画のセット?いや、違う。
妙に生活感がある。
家具も、調度品も、使い込まれている。
となると――金持ち一家に生まれた、ということか?
深呼吸。深呼吸。
一度、落ち着きましょう。
勝ち組確定コースって事ですかね。
それならそれで良いんだけど。
また一からやり直すってのも、なかなか大変だな……。
「あなたは、この家の誇りになるのよ」
不意に、女性がそう言った。
意味は分からない。
でも、その言葉の響きだけは、やけに重たく感じられた。
誇り?
……赤ん坊に何を期待してるんだ、この家は。
扉が、静かに叩かれた。
低く、短い声。
それまで私を抱いていた女性の身体が、僅かに強張るのが分かった。
ゆっくりと扉が開く。現れたのは、一人の男だった。
背が高い。
いや、それ以上に――空気が違う。
部屋の温度が、数度下がったような錯覚すら覚える。
整えられた黒髪。無駄のない動き。
一歩、足を踏み入れただけで、そこが“彼の場”になる。
視線が、こちらへ向けられた。
鋭い。感情の読めない、観察する者の目だ。
その目が、――私を、見ている。
「……この子が」
男は、それだけを言った。
女性が、小さく頷く。
「はい。あなた」
数歩、近づいてくる。
足音は小さいのに、やけに大きく感じる。
私の顔を、覗き込む。値踏みするように。
確かめるように。
「――問題はないな」
それは、赤ん坊に向ける言葉じゃないだろ。
そう思った瞬間、
「この子は、伯爵家の後継となる」
男は、静かに言った。
断定だった。
未来の話ではない。
決定事項のように。
「然るべき教育を」
「……ええ、もちろんです」
短いやり取り。それだけで、十分だった。
この家は、私に何かを“期待している”。
いや――“役割を求めている?”。
なぜか私は、逃げ場のない場所に生まれ落ちてしまったのだと理解してしまった。




