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二百年史

偉大なる国民

作者: 鱈井 元衡
掲載日:2026/02/28

2070年


 今頃はここ数年の年表を作成している所だろう。

 あまりにも激動の二年だった。いや、人は毎年激動の年だったと振り返るものだが、この二年間はまさにそう評価するしかない時間だった、と彼は思う。

『執政官』を称していた渡辺哲雄が『征夷大将軍』を名乗ってから、二年が経過した。

 二条城で最後の内閣総理大臣が渡辺哲雄に権力の委譲を告げる文書を手渡して、

 天皇家は国外に逃亡した。

 本当の意味で、日本は新しく生まれ変わったのだ。

 これまでの日章旗に代わる新たな国旗を制定するために日夜どんな議論を繰り広げているという。

 新しい国が始まる、という期待と不安が誰の心の中にもあった。しかし、それがこの男にとっては気に入らなかった。


 北島きたじま航介こうすけは職員として、様々な記録を閲覧していた。

 全ては、これからの日本の有り様を定めるための参考にするためだ。

 そのためには様々なことを記録しなければならないが、同時に隠蔽もしている。

 北島は、情報の隠蔽も命じられている。哲雄にとって都合の悪い情報は消去されねばならない。

 今ではあの男をいかなる時でも『将軍閣下』と呼ぶように厳命されているが、北島は内心あの男を哲雄と呼び捨てにしていた。それは彼が、嫌な人間だからだ。

 きっと一般市民にすれば、強面で無情な支配者側の人間としてしか想像できないのだろう。だが、北島自身は別に屈強な訳でもないし無道を見て平然としていられるほど木石な訳でもない。

 この仕事を好きでやっているわけではない。

 処分対象とされた書類を装置にかけると、紙は一瞬で分解され堆肥と化した。こういうことをするのも、最初はやや疚しい気持ちにはなったが、もう数ヶ月も経つと何も感じなくなった。

 この施設は外観は灰色で、近づきがたい雰囲気を漂わせているが、それは単なるはったりに過ぎない。特殊鉄鋼の施設をそのまま改装して用いられてはいるが、さすがに二十年以上が経ち、あちこちにしみやひび割れが生じている。しかし、今に至るまでろくな改修が施されていない。そこまでする金がないのだ。

 偉大なる将軍閣下の統治する国、というと聞こえはいいが、実の所それはこのみずぼらしいコンクリートの中でかろうじて維持されているものなのである。


 情報操作は公然の秘密だったが、誰も取り立ててそれを批判する者はいなかった。もう何が真実で虚構であるか、誰にも分からなくなってきているからだ。

 北島航介はこの国民を憎悪していた。彼らは決して自省することはない。太平洋戦争の敗北に際してもそうだった。

 自分たちが戦争に賛成していたことをすっかり忘れ、それに最初から反対していたかのような空気になってしまった。

 そのような国民だから、こんなざまになっているのではないか。


 職場に入る時はいつも、やはり醜い建物だと思う。だから出口から出る時にはほとんど振り返ることをしない。

 アフリカ系や東南アジア系の人間が行き交う中をせわしなく走り、仕事から帰ると、タブレットの電源をつけ、インターネットに入り浸っている。

 半世紀ほど前には社会についての正確な情報を保管しているとされたインターネットだが、今ではこの電脳空間は政府の公式発表かポルノを見るかの二つの目的に利用されており、人間に刹那の快楽を提供する電子カストリ雑誌に過ぎない。

 クローラーが過去に投稿された映像や文章から情報を合成し、都合の良い情報をユーザーに提供してくれる。

 成人向けの動画サイトに流通するポルノの内、どれが本物でクローラーによる合成であるか気にする者は誰もいない。

 もはやネットで信頼のできる『この人なら』権威を持っているユーザーだけだった。かつてのネットでは誰もが情報を発信できたが、今ではこんな胡乱なメディアでがんばって事実を伝えようとする好事家など、ごくわずかな人間しかいない。

 違法ダウンロードで半世紀ほど前の動画が何度も転載され、今にまで命脈を保っている。


 昼に食事を取るのは決まって古ぼけた食堂だ。航介は、末端の職員なのでその心配はないが、高位にある政治家は、食事すら安心してできない。

 もし少しでも哲雄に敵意があると見られれば麻薬を盛られ、いつの間にか廃人にされていたとしてもおかしくない。それが現実なのだ。

 常にその日暮らし、給与の良くない北島にとっては週に一回食べるカレーだけが数少ない楽しみだった。

 四角形のレーションばかりで食っていると精神的にきついから。

 中は狭く暑苦しい。客が待っている。ゆえに十分程度で食事を終わらせねばならない。

 急いで席をたつ。と、その時、

「忘れてますよ」

 慌てるような声がした。

 財布を指さす。自分でとらないのは、盗むつもりだと思われないためだろう。

「ありがとうございます」

 優し気な顔の青年だ。

 あまり見ない顔立ちだ。

「もしかしてあなたは、政府職員ではありませんか?」

「どうしてお分かりなのですか?」

「動きで分かりますよ。記録係なら常に周囲のことに気を遣って、びくびくしているものです」

「色んな所を訪れて、そこにいる人と関係を深めて、理解し合いたいんです。そうすることでよりこの国への愛着も深まると思いますから……」

 この国への愛着……か。そんなものが今やどこの誰にあるのだろうと思った。

「君は帰化人なのか?」 航介は気になって問いただした。

「失礼。私は十年ほど前にこの国に移住して来たものですから、あまりよく知らないのです。いや、何年いても、元が異邦人である限り決して……」

 三十年前までならともかく、他にどうすることもできなくなった不法入国者以外でこの国に来る者などもはやどこにもいないはずだ。にも拘わらず目の前にいる人間はそういう素性の怪しい者などではなく、きちんとした身なりをしている。

「北村航介だ。君は?」

「刀亮です。ええ、刀真の弟です……」

刀真についてはあまりいい噂を聞かない。

 誰とも会わず、ほとんど家に引きこもっているというではないか。こんな怠惰な人間に高い水準の生活を保障するなど言語道断という批判が当初からあったし、今でも続いている。

 しかしその真に弟がいるとは知らなかった。この男は兄と違ってやせており、もっと精力にあふれた顔立ちをしている。

 庁舎がよく見えるところから二人は町の光景を眺めていた。

「将軍閣下は偉大なお方です。あのお方が国を継ぐこととなったのは正しかった」

 亮は、哲雄のことを語る時にやや高揚していた。自分自身のことを哲雄と同一視しているかのような感じなのだ。

「金をもらっているとのことで不満を持っている者が多いそうだが」

 亮は自販機から買った茶を飲みつつ、

「兄さんはあまりにも心労がありすぎました。ですからそのような怠惰な人間に見えても仕方ないかもしれません。しかし、それくらいの安逸は許されるような生き方をされてきたんです」

 亮の声には、真摯な響きがあった。自分の存在を元から誇りに思っているかのようだ。航介には、どだいするのが無理な顔を平気でしている。

 この日本で何年も暮らし、その社会風俗に浸かる内に、ほとんど大和人の顔立ちとなっていた。

「国民として認められるなら私は何でもします。もはや故郷に帰ることなど許されないのですから」

 電話に応じる。広東語だ。

「兄さんと話していたんですよ。この言語で話せるのも一体いつまでのことか……どうです、外国語を聞くことすら嫌な人間がいるとのことですが。まさかこの程度のことで私を密告はしないでしょうね」

「……しませんよ」

 しかし亮は不安げな顔を隠さなかった。

「密告なら好きにするがいい。もし密告されるなら私は所詮その程度の人間だったということです」

「いや、しないよ。俺は密告なんて意味ないと思っているから」

「しかし、その噂を聞くお仕事についているんでしょう?」

 本当に重大なことについて密告するよりも、くだらないことで密告してくる人間の方がずっと多い、という笑っていいのかどうか悩むような噂が聞こえてくる。

「ほう……それは良かった」

 亮はそれを聞いて安心したような顔をしていた。

 きっと安心できたことがないのだ。

「ならば、私の予定をお教えしましょうか」

 亮は次第に、航介に気を許そうとしたのだろうか。自分の私生活について、少しだけ話していく。

「来週には黒木くろき光葉みつは女史主演の映画が公開されるとのことです。一緒に見るのもいいでしょう……」


 刀亮は、ホテルに宿泊しているらしい。普通の人々が泊まれないような高級ホテルであり、顎髭を生やした人間や肌の黒い人間がよく出入りする所だった。哲雄は彼らに取り入ってうまく取り計らってもらうつもりなのだろう。

 彼らに少しでも不満な気持ちを抱かせないように綺麗な物を用意しなくてはならないので、当然ながら金がかかり……そこにも批判が集まる。

 恐らく、他国との外交をやっていく上で怖ろしく熾烈な折衝を重ねているのだろうが、それは一般の国民には知らされないことだ。

 亮によれば、関西地方もようやくインフラなどに復旧のめどが立ってきているらしい。

 数年前、航介は大阪や京都あたりに旅行で行って来たことを思い出していた。京都にあった特殊鉄鋼の本社は今では新政府の元で撤去され、わずかな遺構が残るだけだが、あの時はまだ救国軍の職員がたむろし、中に人が入らないように厳重に見張っていた。

 安い宿屋に泊り、いまだ兵器の残骸が撤去されていない道路を見下ろしながら、テレビでニュースを見た。

 ヤマト貴族団がようやく潰滅したことでどこもかしこもかしましく騒ぎ立てていた。それ以外では、基本的に世界中のごたごた情勢ばかりだ。

 この頃は番組「憂国討論! 二時間テレビ」でさい義明よしあきという司会者が哲雄の賞賛と、高連や中国の脅威を高らかに歌い上げているが、一体なぜこんな出来の悪いアジテーターが視聴者の好感を得るのか分からなかった。政府寄りの名士の方々が将軍閣下! と叫ぶのが滑稽でならなかった――無論、それを思っても、決して口にしたり紙に書いてはならない。

 ラジオやテレビ――かつて旧時代の遺産として嘲笑されたこの媒体は、インターネットが人間の欲望を具現化するだけの装置と化してから急速に息を吹き返していた――では連日のように執政官の功績を称えていた。 亮はそういう報道にばかり接してきたのではないか、と航介は邪推した。

 インターネットに比べれば若干事実に近いというだけであって、マスメディアはすでに哲雄の英雄的活躍を伝えるための手段だった。もはやそれ以外の情報はほとんど入ってこない。海外メディアだと、アクセス制限がかかっているサイトは数多い。

 もう誰も事実と虚構の区別など気にしていない。いや、この時代、その二つに違いなどありはしない。


 そして事実と虚構をまぜこぜにする仕事を航介はしている。そうせずには生きていけないからこそ、今の報道のあり方にもさして苦言を呈することができない。

 航介の職場は、いくつかの空間に仕切られている。市民の報告から得られた情報を整理する場所、市民の管理について対策する場所、そして書類を処分する場所。隣の部署は、仕切りはついているがそこまで厳しく隔離はされていない。

 そして、時たま訪れる情報局の職員と顔を合わせることもある。彼らは常に陰気な顔を浮かべていて、口数が少なく、必要なことを伝える以外はめったに無駄口を叩かない。職務上秘密にしなければならないことが多くあるだけではなく、人間の底知れない闇の部分に触れているので

 航介は隣の仕切りの向こうがやけに騒がしかったので、聞き耳を立てた。

 どうやら、接触すべき人間を探しているらしい。プロパガンダの流布のためには民間の協力が必要だ。

 そのためには、不特定多数に主張を拡散できる人間を使う必要があるわけが、ちょうどその条件に合う人間が見つかったとのことなのだ。

宇垣うがきという男がどうも使えるかもしれない。学校の教師をやっているそうなんだが」

「ほう。どこにいる?」

「あれは広い所に顔が利くからな。すぐに奴の行動が周囲に鑑となって広まるものだ」

「品行方正だし、弁も立つ。そういう奴なら誰だって耳を傾けてくれるだろう」

「だが、どうやって引き入れるんだ」

「あいつにはもうすぐ物心つく子供がいるからな」

 航介は、何も聞いていないふりをした。こういう仕事をしていると、知らないふりをした方がいい時の方が多いのだ。

 国民を広く共犯とする。まさにこれこそが国家というものだ。

 目を付けられた宇垣という男が気の毒だった。しかし、自分も似たようなものだ、航介は思う。旧政府の職員だった人間が慈悲でかろうじてこういう風に生きていけているだけでも幸運だと思うべきだろう。

 幸いにも、彼は旧政府が完全に力尽きるよりも前に素早く転身したおかげで、そこまで後ろ指を指されずに済んでいる。

 哲雄に側近としてそのまま取り立てられた総理の高坂たかさか強一きょういち以外は、高官ですら路頭に迷うようになってしまった話をいくらでも聞いているので、航介は彼らのようにならずに済んで良かったと、ぞっとする思いに駆られるのである。


 国家と個人。

 今の日本には、その中間がない。国民が利権を憎み、健全な社会を目指してそれを排除したからだ。確かに間違っているとはいえない判断ではあるが、しかしそれはすさまじい思想的虚無と連帯意識の欠如をもたらした。そのあまりに悲惨な結果がここ半世紀のことだ。

 その虚しさを埋め合わせようとして、今なお意味不明な有象無象が列島のあちこちに跋扈し、血を流し合っている。

 しかしそこから創造的な物は何一つ生まれなかった。この手の試行錯誤に組することができない人々は余計、国家の方にすがりつくことしかできない。


 単なる政府への期待だけではない。将軍・渡辺哲雄への信頼、お墨付きを与えようとする願望が、誰にも背負いきれないほどに肥大化しているのだ。もはやここまでくると、単純に誰が悪いとかいう問題ではなくなってくる。全てを権力者に委ねたがるといえば愚民と思われるが、力がないのだ。一体それを誰が責められるのだろう?


 物寂しい裏路地のすぐ向こう側で薬物が取引されていることは公然の秘密だ。ひび割れたアスファルト、ごみに混じって靴の中敷きが散らばっているのが彼らの縄張りを示していた。死体が転がり、蠅がたかっているのを見ても特に反応する者はほとんどいない。気づいたらすでに死んでいる、ということが日常茶飯事の世の中では、死についていちいち気にしていられないし、無論生きることに関してもそう計画を立てたり行く末を案じたりすることも無意味になってしまう。だが、あの男は別だ。

 再び亮と会った。どうやら、この街を離れる時が来ているらしい。

「汚い所だよ。ここは」

「ですが、ここにも人の生活はある。彼らの貢献のおかげで、かろうじて持っている今の社会がある」

 亮にしてみれば、褒めたつもりなのだろうが、何となく小馬鹿にした雰囲気を航介は感じ取らざるを得なかった。周囲のうらぶれた雰囲気にそぐわない上品な身なりのせいで、余計に。

 それから、映画の話になった。もうあの日の夜にすぐに見に行ったらしい。

 亮は言った。

「彼女の演技はすごかったですよ。今の時代をまさに描写しているといえるでしょう」

 彼は、自分の好みの話題となると決して止まらない。

「兄さんに話しておこうと思いますよ、熱演ぶりを。まだこれからですよ――この国は」

 こんな衰えたる末の世にも関わらず、亮はこれからの希望に満ちている。

 航介は、亮が前途有望の若者であることに何とも言えない羨みを覚えた。

 彼には、哲雄に取り立てられて栄達の道を歩む道が用意されている。兄がどれだけ怠惰な人間であるとしても、少なくとも出自からして軽視されることなどありえない。

 それに対して自分が必死にやっていることは、国を保つためという美名の元にあるが、薄給でしかない。

 二人の間には、どこまでも差が存在する。

 航介はそれを妬みはしない。結局、自分にはそれくらいの値打ちしかないと思っていたからだ。彼らのように、国家の支柱となって活躍していくことを見込まれていないから。航介は、これからの国家において、国民が差をつけられ、区分される未来が待っているのではないかと漠然だが予想した。

「だが、国民は破滅に向かいつつあるぞ……」

 航介は、資格がないことを自覚しつつもそう言わずにはいられなかった。

 亮は冷ややかに言った。

「不思議だな。あなたは国民を騙す側でありながら国民の行く末を憂えている。そんな義理などないはずなのに」

「見ててられないだろ。奴らが一人の人間の元に支配されてるのが」

「ですが、それはあの方が自分で選んだことではありませんよ。それは国民が望んだことなのだから」

 突然、下から怒号が聞こえた。

 殴り合いが起きている。どうやら南の国の言葉らしいが、よく分からない。

 訳も分からないまま社会から隔絶させられ、何の保護もしてもらえずに年だけ取ってしまった人間がどれくらいいるだろう。そして彼らを社会の枠組みに放り込んで、吸収し尽くすのにどれくらいかかるだろう。

「ならば彼らに日本国民としての矜持を与えなさい。それも彼ら自身が納得できる方法で」

 航介は何も答えられなかった。

「それができないなら、力で無理やり支配するしかない」

 背が高い方が相手を倒した後、いきり立ったようにどこかに去った。

「確かに多くの暴力と流血を伴うでしょうが……全ては、偉大な閣下のためです。統一された意志だけが、この国を破滅の危機から救い出すことができる」

 航介は意地悪しようとして問うた。

「閣下の後は誰に従えばいい?」

 亮はきっぱりと言った。

「それは無論、閣下のお子様ですよ。すでに哲靖ひろやすさんも哲幸ひろさちさんも政治を執るにふさわしい年齢に達しているのですから」

 航介はけおされ、何も言うことができなかった。

「日本はようやく普通の国になったんですよ……明確な国家理念があり、明確な建国の日が存在している。これから新しい歴史が始まるんです」

 亮の言葉に高揚した口調が現れた。

 亮は航介の両肩をつかみ、

「その新国家の建設に航介さんは参加しているんですよ。素晴らしいことだと思いませんか。そしてそれにこの列島の住民の多くが参加しているという事実が!」

 彼は熱弁を振るった。

「先ほど争っていた者たちも残らず国民とみなすことで増やしていき、あらゆる事態に動員できるようにし、一気に結束力を強めて行く。これこそが」

「日本国籍を付与されることを拒否する者もいるそうですが」

「そういう国民には憎ませておけばよろしい。それこそが社会を変える原動力となる」

 亮の目には迷いがない。

 期せずして日本人になってしまった者にとっては、今の時代は暴虐そのものだろう。

 日本国籍を付与されたのを拒否して自殺未遂を起こした者もいるほどだ。

「私はこの国のためなら憎まれても構いませんよ」

 亮は静かに、重々しい声で言った。おおよそ、航介には出せない声だった。

 あらゆる苦悩を一身に背負っているからこその強さ。うらやむものではないが、生きてきた道のりの違いにただ慨嘆する他ない。

 航介は、目をひそめた。

「誰かを殴るなんてのは、やめろ。楽しくないぞ」

「……そうですか? むしろ私にはこの世界に殴りたい人間はいくらでもいますよ」

 亮は、それができる人間なのだろう。

「ですが、ただ殴るだけでは捕まるだけで終わります。私は何としてでも上に昇って、」

「私は、再び兄さんの元に戻らなければなりません。その時には北村さんのこともお話しますよ……」


 亮は、まだこの国の誰も、本当に起きつつあることをよく分かっていないと思った。航介が、ようやくそれに気づきつつあるくらいか。

 亮は、航介に歴史の体験者であることをもっと誇ってほしかったのだ。祖国ではもはやこのような経験は二度とできない。

 亮は哲雄と会い、話をした時に、彼が歴史を背負って生きている存在であることを知った。

 哲雄は中心となる新たな国家像が、今後さらに鮮明な物となることを亮は願っていた。


 亮とはそこで別れた。彼はずっと爽やかな人間のふりをしたままだった。

 まだ、航介は、亮から言われたことの内容を反芻し続けていた。

 あの男が権力を志向していることは疑いない。

 強烈なヒエラルキーがあそこには存在している。航介ですら今の仕事にい続けるためには並々ならぬ努力だが、より権力の上層にいる者たちが生き残るためには想像を絶する手数を尽くさなければならないのだ。

 あの男――哲雄の元で。


 都心では日本語以外の言葉を聞くことが多い。新しい国家ができたと公的には主張されてはいるが、ほとんどの人間の生活は思ったほど変わっていない。

 だから新政府はまつろわぬ者たちを徹底的に脅して、制御しなければならないのだろう。そう思うと哲雄の努力も涙ぐましいものがあると彼は思った。

 いつもの道をたどって、再び自室に戻った。相変わらず大事な書類以外の家具や食器はちらかったままだ。

 何も変わったことはない。

 世の中はあまりにも変わり続けるのに、目の前は何も変わらない。

 それが彼にとっては自分の仕事とどう結びつくか、今一分かりかねるのが、どうしても彼に一抹の疚しさを抱かせた。

 たとえそれが世界中のどこでも同じかもしれない。

 少しでも2050年代後半にあったマレーシアや南アフリカへの移民事業に、もしかしたら参加していたかもしれない。もしそうなっていたら、今頃今はどんな生活を送っていただろう。あの時祖国を離れた者のうちどれだけが今、ましな暮らしを送っているだろうか。


 亮は、愚民の根性を叩き直すことに意義はないとでも言わんばかりだった。それは確かに一理ある考えではあるだろう。世の中の人間はそこまでできのいい者ばかりではないし、集団の意志はいくつかの個人とは無関係に成立してしまう。そして、たった一人の人間の意志で万人が変わってしまう。

 そしてその流れの中で誰一人、無実ではいられない。

 この世界に生きている限り、もはや誰一人そういうことから逃れられないのだ。それが嫌なら隔絶するしかないが、それもできない。

 この部屋にほとんど無駄な物はない。家を転々としてきた航介にとっては家に何かを飾る趣味はなかったし、そうするだけの金もなかった。

 冷蔵庫の中から酒瓶をとりだし、振ることもなくキャップを開けて煽った。この酒ですらもはや貴重品だ。もはやこの時代、酒もたばこもとうに過去の遺物となり、たしなむ者はほとんどいない。ここ何十年もの間にかろうじて残っていた国内メーカーが、技術力の後退と逸失により戦争に関係なく吹き飛んでしまったからでもある。たばこをふかしたいと思ったが、もう十年以上、輸入品でしかたばこにありつけない時代が続いている。


 机の上には新政府が発行したパンフレットが置かれていた。資料として職員の誰もが持っている。

 どれもこれもが、旧体制とは違うことを主張する美辞麗句ばかりだ。結局かつての時代とそこまで変わりのあるものではない。


 民主主義とは薄氷の上でかろうじて成り立っているものに過ぎない。

 そもそも、それが世界の政治体制において重んじられるようになったのは、せいぜいここ数世紀のことに過ぎず、いまだに安定したものではない。そして、その数世紀の間に二回も存亡の危機にさらされている。

 それほどまでに脆い物なのだから、今この瞬間に再び吹き消されてもおかしくない。


 そもそも、民衆が本当の意味で支配者の位置に立っていると見なせるのだろうか。結局、人間の上に立てる者は、たいてい残酷でなければ務まらない。

 かつては国民の規律が取れていた時はわざわざ残酷でなくても良かっただろうが、もうここまで追いつめられてしまっては、嫌でも暴力的になるしかない。

 不思議だな。なぜ俺がこんなことを心配しているんだ。俺はそれを破壊する側ではないか……。

 上とか下と言った物を破壊するしかないではないか。だが北島には、それが可能だとは思えなかった。人間とは常に上に向かって泳ぎ続けるしかない生き物であり、溺れないためには下にいる者を足蹴にするしかない。ましてやその下に自分がなると思ったら……。


 国民が富み栄える国を目指す、などという高邁な理想を掲げている者などどこにもいない。哲雄は、ただ国民の身勝手な理想に振り回され、尻拭いをさせられているに過ぎない。

 偉大なる国民だ。


――――


刀亮(2032-2086)


刀真の弟。安逸をむさぼった兄とは違い精力的な人物で、地理管理官として哲雄に仕え、信任を得る。

兄と共に、渡辺家に忠実な家臣を輩出し続けた。六世先の子孫に海軍大将にまで登った刀日恒ひびつね(2172-2229)がいる。


黒木光葉(2050-2131)


将国日本初期を代表する女優。2068年のドラマ「黄金の果実」で話題となる。

2126年に時の将軍渡辺わたなべ哲宗ひろむねから文化一等勲章を授与された。

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