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雨鎮めの神楽

【エピローグ】

 雨の匂いが好きだ。

 土の匂いと、濡れた木々の青臭さ、空気に溶けた冷たい水の香り。それらが混ざり合って、世界の音をやわらかく包み込む。

 幼いころから、晴れの日よりも雨の日の方が落ち着くのはそのせいだろう。


 放課後の帰り道。制服のポケットに突っ込んだ左手はいつの間にか湿って、じんわり冷えていく。傘を差そうが、どこからか入り込んでくる雨粒は止められない。

 濡れたことで憂鬱な気分になるだろう。

 そんな常識には見向きもせず、気分を高揚させる。むしろ傘なんか差さず走り回りたい気分だ。そんな気持ちを抱えたままいつもの道を歩んでいく。


 小さな神社の石段を上がるのも、もう何度目になるだろう。

 理由なんてない。ただ、雨の日にだけここへ来るのが習慣になっていた。古びた鳥居、手入れの行き届いていない参道、木々に覆われた拝殿──どこか取り残されたような雰囲気が、僕には心地よかった。


 突然視界に映り込む姿に呆気にとられる。


 拝殿の前。しとしとと降りしきる雨の中、ひとりの少女が舞っていた。


 白い──本当に、純白としか言えない髪。舞いと共に揺らめく純白はみるものを魅了させ続けた。

 純白の中から時折現れる眼差しは浅葱色。淡く青みがかった瞳に吸い込まれた瞬間、僕は呼吸を忘れていた。


 彼女の手に握られた神楽鈴が、しゃらん、と鳴る。その音は雨音に溶け、境内を満たす不思議な調べになった。


「……だれ?」


 鈴の音と重なるように、彼女が口を開いた。透き通った声は、雨粒よりも澄んでいて、どこか懐かしさすら感じさせた。


「……きみは?」


 思わず問いかける。


 相手から尋ねられているのにオウム返しのように同じ疑問を口にしてしまった。何を言ってるんだ…と、抱いていた疑問をはるかに超える強い羞恥心に襲われた。


 少女はふっと目を細め、微笑を浮かべる。


「私は、この神社に祀られた者。雨の日にだけ、この世に留まれる存在」


 そう言って再び鈴を振る。


 自分よりも大人な立ち振る舞いや言葉遣いに見惚れるうちに、しゃらん、しゃらん、と音が重なり、彼女の舞は雨に溶けてゆく。


 ありふれた雨の日のはずだった。けれど──その日を境に、僕の平凡は大きく揺らぎ始めたのだ。


【第1章】

 空は嘘みたいに晴れ渡っていた。

 ガラス窓の向こうで眩しく広がる青空を見ていると、昨日の出来事がすべて夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。


 白い髪、浅葱色の瞳、神楽を舞う美少女。あれほど強烈に胸に焼き付いているのに、現実感はなかった。まるで物語の一幕を切り取ってきたみたいで。


「──おい、聞いてんのか」


 不意に肩を小突かれ、現実へ引き戻される。隣の席の斎藤が、呆れたように眉をひそめていた。


「さっきからぼーっとして。昨日も夜更かしか?」


「……いや、別に」


「どうせゲームだろ?あんまボーとしてるとセンコーに怒られっぞ」


 斎藤は勝手に納得したように肩をすくめ、前を向く。センコーだなんてきょうび聞かない。しっかりしろと説教たらしく言ってくるこいつは優等生なのか不良なのか。昔からの幼馴染である僕は斎藤が前者であると知っている。

 あいつの言う通り、教師の声は頭に入ってこない。ノートにペンを走らせているふりをしながら、窓の外に目をやった。陽光に照らされた街路樹がきらめく。どこにも雨の気配はない。


 ──雨の日にだけ現れる少女。

 彼女の言葉を思い出すたび、胸の奥がざわついた。


 放課後、友人たちは部活や街へと散っていった。いつも通り、寄り道もせずに家へ帰る。


「ただいま」


 マンションの玄関を開けると、無音の空間がひろがった。


 両親は共働きで、家にいても顔を合わせる時間は少ない。兄は大学進学で家を出ていて、いまは僕と母だけの二人暮らしだった。リビングを通り過ぎ、自室に荷物を放り込む。


 机の上に置いてあるのは、昨日拾った神社の参拝札。

 小学生のころから、雨の日にはよくあの神社に行っていた。別に信心深いわけじゃない。ただ、ひとりになりたいとき、あそこはちょうどいい場所だったのだ。


 昨日も、いつも通りの帰り道──。

 いや、違う。あの少女がいた時点で、もう。『いつも通り』じゃなかった。


 ベッドに仰向けになると、真っ白な空間が視界に広がった。それを境に再びあの子のことを思い出す。


「……ほんと、何だったんだ」


 呟いても答えは返ってこない。


 翌日も晴れ、翌々日も晴れた。雲ひとつない空を見上げるたび、彼女に会える日は遠ざかっていくように感じる。いや、雨が降ったからといってまた会えるとは限らない。それでも僕は、つい心の中で願ってしまう。


 ──もう一度、雨が降ればいいのに。


【第2章】

 その日、天気予報は曇りのち雨だった。朝から湿った風が吹き、街全体が薄い靄に包まれているように見える。


 授業中、窓を打つ雨粒の音が小さく響いた瞬間、僕の心臓は跳ね上がった。


 ──来た。


 そう直感した。


 放課後、傘を差しながら校門を出る。友人の声も耳に入らない。ただひたすらに神社へ向かった。


 階段を駆け上がり、鳥居をくぐる。湿った土の匂い、葉を伝って落ちる雨音。境内は薄暗く、どこか別世界のようだった。


 そして──いた。


 拝殿の前に、前回と変わらない姿で。


「……また会えた」


 彼女は静かに微笑んだ。白い髪が雨粒をはじき、浅葱色の瞳が淡い光を映している。


「よかった、、、」


 思わずそう口にすると、彼女は小さく首を傾げた。


「どうかしたの?」


「だって……夢か幻か疑わずにはいられないよ」


「ふーん、夢で済むなら、あなたはここまで来なかったんじゃない?」


 彼女の言葉に返す言葉を失う。確かに、僕は夢かもしれないと疑いながら、同時にまた会いたいと願っていたのだ。


 そのとき、拝殿の奥から太鼓の低い響きが聞こえた。驚いて振り返ると、誰もいないはずの舞台に薄い光が揺れている。


「──神楽だ」


 思わず声に出す。昨日と同じ、けれど今日は人影すら見えない。光だけが舞い、鈴の音のように雨音に混じっていく。


 彼女は拝殿の前に立ち、深く一礼した。

 まるで神楽に呼応するように。


「ねえ、きみ」


 彼女が僕を見つめる。瞳に雨空を閉じ込めたまま。


「この神楽が何のための神楽なのか、知りたい?」


 喉がごくりと鳴る。もちろん知りたい。そう思った瞬間、彼女はうっすらと笑みを浮かべた。


「じゃあ──今日の神楽が終わったら少しだけ、教えてあげる」


 彼女の声が、雨と鈴の音に溶けていった。


【第3章】

 雨は夜になっても止まなかった。しとしとと窓を叩く音に耳を澄ませながら、僕は机に向かっていた。

 教科書もノートも開いてはいるが、文字は頭に入らない。


 ──知りたい?


 あのときの彼女の声が、何度も反響する。

 結局、我慢できずに傘を手に外へ出た。街灯の下、雨に濡れたアスファルトが鈍く光っている。神社へ向かう足取りは、不思議なほど迷いがなかった。


 境内に着くと、そこにはやはり彼女がいた。

 白い髪は暗闇の中でもかすかに光を帯びているように感じ、浅葱色の瞳は夜の闇を吸い込むように輝いている。


「おつかれさま」


 小さく会釈すると、彼女は柔らかな声で応えた。


「つかれたぁ……」


 安堵の表情を浮かべる彼女の横顔はとても儚くこの上なく美しかった。ただ、彼女の隣に立ち、さっきまで淡い光があった場所を見つめる。


「あの神楽……」


 僕が口を開くと、彼女は小さく頷いた。


「ここに残されている舞は、雨神を慰めるための雨鎮めの神楽」


「雨の……神?あましづめ……の神楽?」


 聞き覚えのない単語に動揺しつつも彼女の話を聞き逃しまいと耳を傾ける。


「そう。昔、この土地には干ばつと洪水を繰り返す川があってね。人々は恐れ、祈り、舞を捧げたの。雨を招き、同時に鎮めるために」


 彼女の言葉は、古い伝承を語るようだった。

 けれど、不思議なほど生々しく響く。


「でも……なんで君が?」


 問いかけると、彼女はわずかに表情を曇らせた。


「私は……その雨と共に縛られている存在」


 雨粒が白い頬を伝い落ちる。それは涙なのか雨なのか、僕には区別がつかなかった。


「晴れの日には、あなたの世界に立てない。だから、こうして会えるのは雨の日だけ」


 静かな告白に、心がざわめく。つまり──彼女は、この雨がなければ存在できない。


 信じがたい話だ。でも、目の前にいる彼女の存在が、それを否定させてくれない。


「それじゃあ……雨が止んだら、君は……?」


 問いの続きを言う前に、彼女は小さく首を振った。


「それ以上は…言えない」


 淡い微笑みを浮かべながらも、瞳はどこか寂しげだった。


 境内を包む雨音が強くなる。彼女の髪が揺れ、神楽の鈴のようにかすかな音が響いた気がした。


「でも……」


 彼女は小さく手を差し出す。


「今は、こうしていられる」


 僕は迷わず、その手を取った。冷たい雨に濡れた指先なのに、不思議な温もりが宿っていた。


【第4章】

 目が覚めたとき、窓の外は晴れ渡っていた。青空の下、昨日の出来事はまるで幻のように薄れていく。

 でも、机の上に置いたままの参拝札が、すべてが現実だったことを告げていた。


 授業中、教師の声も黒板の文字も頭に入らない。彼女が言った「雨に縛られている存在」という言葉だけがぐるぐると回り続けていた。


 放課後、速足に教室を飛び出した。向かう先に違和感を覚えながら『らしくないな……』と心の中でつぶやいた。図書室なんて一年のうちに数えるほどしか行かない。

 久しぶりに訪れた空間は古びた紙がかすかに放つインクの香りと木の静かな芳香に満たされていて心地よかった。


 調べるべきことはもちろん。あの神社と、神楽について。


 本棚を漁っていると、地域史のコーナーに古びた冊子を見つけた。


 『霧雨郷土史』──町の歴史をまとめた小冊子らしい。

 ページをめくると、「天降神社」という見出しが現れる。あの神社の正式な名前だ。


 そこにはこう記されていた。


 ──古来より川の氾濫と干ばつに悩まされし土地、里人は雨の神に舞を捧げたり。その舞を「雨鎮めの神楽」と呼び、代々神職の娘がこれを継ぎたり。


 ……雨鎮めの神楽。


 昨夜彼女が言っていたことと一致している。


 ページをめくると一枚の紙きれが宙を舞った。落ちてきたのは如何にも古そうな写真。白黒写真で突如目の前に現れた少女、、、髪は白く、瞳は淡い色を帯びているように見えた。


「……っ」


 思わず声が漏れる。彼女だ。いや、よく見れば顔立ちは少し違う。でも、どこか重なって見える。


 その下に、短い注釈があった。


 ──昭和初期、最後の舞姫。神楽の後に忽然と姿を消す。雨と共に現れ、雨と共に去った、と伝えられる。


 背筋がぞくりと震えた。


 もし、この少女と彼女が繋がっているのだとしたら。


 図書室を出るころ、空は夕焼けに染まっていた。西の空に赤く沈む太陽を見ながら、僕は胸の奥に強い衝動を覚えていた。


 確かめたい。彼女のことを。ただの伝承や噂じゃなく、彼女自身の口から。


 その夜、ベッドに横たわっても眠れなかった。窓の外に星空が広がっている。この絶景を前にして言うのもおかしいだろと感じつつ、気付けば心からの祈りを捧げていた。


 どうか雨が降りますように──。


【第5章】

 願いが届いたのか、翌日の夕方には再び雨が降り始めた。空はどんよりと鉛色に沈み、湿った風が街を覆う。放課後、僕は傘を握りしめ、真っすぐ神社へ向かった。


 石段を上る足音に、雨が拍子をつける。

 鳥居をくぐった瞬間、胸が熱くなった。


 拝殿の前、雨粒を纏いながら立つ少女。

 浅葱色の瞳がこちらを向いたとき、胸が強く脈打った。


「……君に、聞きたいことがある」


 僕は息を整えながら言った。ポケットから昨日の郷土史を取り出し、開いたページを見せる。


「この写真に見覚えは?──“最後の舞姫”、そう書いてあった」


 彼女の瞳がかすかに揺れた。白い髪が雨に濡れ、頬に張り付いている。


「……そんな本があるなんて」


「やっぱり……君は、この写真の人と関係があるの?」


 一瞬、答えをためらうように彼女は目を伏せた。けれど、やがて決意したように小さく頷く。


「そうだね──私かも」


 雷鳴が遠くで轟いた。雨音が一層激しくなる。


「でも、どうして……? 昭和の初めに姿を消したって……」


「私は“時”を越えているわけじゃない。ただ……“雨”に縛られて、この場所に留まっているの」


 言葉の意味をすぐに理解できなかった。でも、彼女の瞳に宿る深い悲しみが、それが冗談や作り話でないことを告げていた。


「神楽を舞った夜、私は“雨”と結ばれた。人々の祈りを背負い、代わりにこの世界から切り離されたの」


 雨粒が頬を伝う。それが涙のように見えて、胸が締めつけられた。


「……君は、ずっとひとりで?」


「雨の日には現れる。でも、晴れればまた消える。だから──私を覚えている人なんて、もう誰もいない」


 その言葉に、胸の奥から熱いものが込み上げた。彼女は、こんなにも美しく、儚く、孤独に耐えてきたのか。


「僕は……忘れない」


 気づけば声に出していた。


「君がここにいることを。雨の日にしか会えなくても、僕は絶対に、、、」


 彼女の瞳が驚いたように揺れ、やがて微笑みに変わった。雨音に混じり、拝殿からまた鈴の音が響いた。神楽の舞が、僕らを見守るかのように光を放っていた。


【第6章】

 雨は止む気配を見せず、境内は深い水音に包まれていた。拝殿の奥で揺れる光は、まるで僕らの会話を聞いているかのように、穏やかに瞬いている。


 彼女は両手を胸の前で組み、静かに口を開いた。


「本来、この神楽は代々受け継がれるはずだった。でも──私の代で途絶えてしまったの」


「途絶えた……?」


「舞を継ぐはずの家族も、天災で消えてしまった。残されたのは、雨に縛られた私だけ」


 言葉の端々に滲む孤独に、胸が痛む。彼女は長い年月を、ひとりでこの境内に留まり続けてきたのだ。


「だから私は待っていた。いつか……誰かが、この祈りを受け継いでくれることを」


 浅葱色の瞳が、まっすぐ僕を射抜く。

 その視線に、息を飲んだ。


「うそでしょ?」


「うそなんかじゃない。あなたは、初めて私を見つけてくれた人。雨に選ばれ、ここに導かれた」


 そんな馬鹿な、、、と思う気持ちと、抗えない力に惹かれている自分がせめぎ合う。でも、彼女の言葉には嘘がなかった。


「でも……僕に神楽なんて舞えるわけ」


「舞そのものじゃないの」


 彼女は首を振る。


「大切なのは“祈り”。雨を恨まず、願いを込め、共にあることを伝える心」


 その瞬間、拝殿の光が強く揺れ、低い太鼓の音が響いた。境内の空気が震え、鳥居の向こうにまで雨音が広がっていく。


「……思っていたより早いかも。神も、雨も、あなたを受け入れようとしている」


 僕は返事をすることができなかった。けれど、心の奥に確かに何かが芽生えていた。


 それは恐れではなく──願い。

 彼女の孤独を、少しでも和らげたい。彼女が繋ぎたかった祈りを、絶やさせたくない。


「君を救う……それだけは心の底から誓える」


 ようやく絞り出すと、彼女は驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。


「ありがとう。──あなたなら、きっと」


 その声は雨音に溶け、境内全体がやわらかな光に包まれていった。


【第7章】

 夜の境内は、雨音と太鼓の響きに支配されていた。

 拝殿の奥で揺れる光は次第に形を成し、淡い幕のように舞台を覆っていく。


「……これが、雨乞いの儀」


 彼女が小さく呟く。


「人々が祈りを込め、雨を受け入れるための舞。私が最後に舞ったのも、これだった」


 その声は雨と一体化し、僕の胸に深く染み込んでいく。

 彼女はそっと手を差し伸べた。戸惑いながらも、その手を握る。冷たい雨粒に濡れているはずなのに、不思議と温かい。


 彼女はゆっくりと拝殿の前に進み、手を広げた。白い袖が雨粒を散らし、舞の始まりを告げる。


「目を閉じたまま雨を感じて、ただそれだけ、、、」


 言われるまま、僕は瞼を下ろした。雨が葉を叩き、地を打ち、全身を包み込む。その中に、不思議な律動があるのを感じた。


 彼女の声が耳元に届く。


「雨は脅威であり、恵みでもある。人はそれを恐れながらも、祈りで受け入れてきた」


 胸の奥で、熱いものが脈打った。いつのまにか僕の体も、彼女の動きに合わせてわずかに揺れている?足が自然に一歩、二歩と動く。


 鈴の音が重なり、太鼓が強く響く。目を開くと、境内が光の雨に満たされていた。無数の滴が宙に舞い、夜空を星のように彩る。


「……これが、祈りのかたち」


 彼女は舞を止め、僕の手をそっと離した。


 息が荒い。胸は熱く、体の奥が震えている。

 それでも、不思議と心は静かだった。


「だいじょうぶ?」


「……うん。なにか、言葉にできないなにかがあった」


 彼女は微笑んだ。その瞳は浅葱色の湖のように澄み、僕を映していた。


「あなたなら、きっと受け継げる。私が途絶えさせてしまった祈りを」


 その言葉に、胸の奥で何かが決意に変わっていくのを感じた。


 彼女の孤独を終わらせたい。

 彼女が背負ってきたものを、僕も背負いたい。


 雨は降り続き、光はゆるやかに消えていった。残されたのは、僕と彼女、そして濡れた境内の静けさだけ。


【第8章】

 夜が明けるころ、雨脚は次第に弱まっていった。さっきまで境内を覆っていた水音は遠のき、代わりに鳥のさえずりが混じり始める。


 僕は拝殿の階段に腰を下ろし、彼女と並んで夜明けを待っていた。

 白い髪が湿気を帯び、微かに光を散らす。その横顔を、できるだけ長く焼き付けようと必死だった。


「もう行かないとね」


 彼女の声は、夜明けの空気に溶けていく。

 僕は思わず振り返った。


「行くって……どこに?」


「晴れの日には、この場所に立てないの。私は雨に縛られている存在だから」


 浅葱色の瞳が静かに瞬く。その瞳には、未練も、諦めも、すべてが混じっているように見えた。


「次はいつ?」


 自分でも情けないほど震えた声だった。

 彼女は微笑む。


「雨は巡る。だから……いつかきっと」


 その言葉がどれだけ確かなものなのかはわからない。でも、僕は信じるしかなかった。


 東の空が白み、雲の切れ間から光が差し込む。一筋の陽光が境内を照らした瞬間、彼女の姿が揺らいだ。


「待って!」


 思わず手を伸ばす。だが、掴んだのは空気だけ。白い髪が霧のように溶け、浅葱色の瞳が朝の光に消えていく。最後に見えたのは、かすかな微笑みだった。


 気づけば境内には僕ひとり。


 雨の気配は消え、濡れた石畳にだけ、彼女の存在の名残があった。

 胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。でも同時に、昨日の祈りの感覚がまだ体に残っている。

 雨は恵みであり、脅威でもある──そして彼女はその象徴。


「……必ず、また」


 そう呟いて鳥居をくぐると、朝の街は眩しいほどに晴れ渡っていた。


【第9章】

 朝の光の下、街は何事もなかったかのように動き始めていた。通学路を行き交う学生、商店街のシャッターを開ける音、遠くで鳴く蝉の声。そのすべてが現実的で、僕がたった今まで夢を見ていたのではないかと思わせる。


 けれど、まだ掌には微かな感触が残っていた。伸ばした手で、確かに彼女の存在を求めたときの空気の震え。それは幻なんかじゃない。彼女はここにいた。雨の日にしか現れない、不思議な少女として。


「……助けたい」


 気づけば口にしていた。


 彼女は言った。

 晴れの日には、この世界にいられないと。

 それが“雨の縛り”なのか、それとも“祟り”なのかはわからない。ただ一つだけわかるのは、このままでは彼女と過ごせる時間が限られているということだった。


 その思いに突き動かされ、僕は再び神社へ足を運んだ。境内はすっかり乾き、昨夜の雨の気配は跡形もない。けれど鳥居をくぐった瞬間、胸の奥にざわめきが走る。あの子の気配が、まだここに染みついている気がした。


 神主さんなら、何か知ってるかもしれない。そう考えて社務所へ向かう。小柄な老神主は僕を見ると、不思議そうに首を傾げた。


「珍しいな。若いのに、この時間に参拝か」


「昨日……雨の日に、神社で女の子に会いました」


 思い切って切り出す。

 老神主の瞳が一瞬だけ鋭く光った。


「……髪の白い子、か?」


 息を呑む。


「やっぱり、ご存知なんですか」


 神主は静かに頷くと、奥の座敷に僕を招いた。ちゃぶ台の上には古びた巻物や書物が並んでいる。


「彼女は“澪音”と呼ばれてきた存在だ。この地に古くから伝わる雨の神楽と深く結びついておる」


 澪音──。


 その名は僕の心に深く刻まれる。


「じゃあ……彼女を救う方法は?」


 思わず身を乗り出す。神主は目を閉じ、しばし沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「救えるかどうかはわからん。ただ言えるのは、彼女は雨とともに現れ、雨とともに消える“循環の化身”。人がその理を変えようとすれば、大きな代償を払うことになるじゃろう」


「代償……」


 彼女を救いたい。でも、その代償が何なのか、僕にはまだ知る術もなかった。


 ただ一つだけ決めた。このまま彼女を消えゆく存在にしてしまうくらいなら、どんな代償でも背負う覚悟で進む。


「お願いします。彼女を知りたい。彼女について知ってること全部」


 そう頼む僕に、老神主は小さくため息をついた。


「若いな。……だがその真剣さ、嫌いじゃない。まずは神楽の起源からだな」


 こうして僕は、彼女の秘密に迫る第一歩を踏み出した。


【第10章】

 老神主の声は、古びた社務所の空気に馴染むように低く響いた。その語りは、まるで長い眠りから目覚めた歴史そのものだった。


「この神社には、古来より“雨乞いの神楽”が伝わっておる。旱魃のとき、人々はここで舞を奉じ、雨神に願いを捧げた。雨が降れば作物は潤い、人々は救われた。……だが同時に、雨は洪水をもたらす脅威でもあった」


 老神主は巻物を広げる。


 そこには色褪せた絵が描かれていた。円を描いて舞う巫女、その背後に白髪の女の影。浅葱色の瞳が、紙の上でも不思議な輝きを放っている。


「この絵……まさか」


「そう。お前さんが会った少女じゃ」


 胸が熱くなる。彼女はただの幻でも妖でもなく、確かに歴史の中で人々と関わってきた存在だったのだ。


「神楽の舞い手は、代々選ばれた巫女だった。心を通わせ、舞を捧げることで、雨神は現れた。だがあるとき、巫女が人としての情を抱いてしまった」


 老神主は言葉を切り、僕をまっすぐに見た。


「……それが禁忌とされた。人の恋慕が雨神をこの世に縛りつけ、やがて災いを呼んだのじゃ」


 胸が締め付けられる。


 禁忌──。


 ならば、僕が彼女を想うこともまた、同じ過ちに繋がるのかもしれない。


「けれど」


老神主の声がわずかに柔らぐ。


「雨神は決して人を憎んではいなかった。むしろ、その祈りを糧に存在していた。だからこそ、巫女と交わした約束を守ろうとした……」


「約束……?」


 僕は思わず問い返した。


「詳しいことは伝承にも残っておらん。ただ、“神楽の舞が完全に成されたとき、澪音のような巫女は人として生きられる”と記されている」


 人として、生きられる──。


 その言葉は胸を震わせた。彼女を救う鍵は、神楽にある。


「神楽を……復活させれば、彼女を救えるんですか」


 勢い込む僕に、老神主は深く首を振った。


「簡単なことではない。神楽は失われ、舞を知る者ももうおらん。何より……再び舞を成すには、舞い手と澪音の心を完全にひとつにせねばならんのじゃ」


 心をひとつに。

 それは希望であり、同時に試練でもあった。


 僕は膝の上で拳を握りしめる。禁忌を恐れて距離を置くこともできる。だが、彼女をただ消えていく存在として見送るなんて、もうできなかった。


「……やります。たとえ禁忌だとしても、彼女を救いたい」


 老神主はしばし僕を見つめ、やがて小さく笑った。


「若いのう。……だが、その覚悟があるなら、試す価値はあるかもしれん」


 その瞬間、外の空に雲がかかり、かすかな雨粒が落ちてきた。まるで彼女が、僕の決意に応えるかのように。


【第11章】

 ぽつり、ぽつりと落ちていた雨粒は、やがて本格的な霧雨へと変わった。境内の木々がざわめき、石畳に水の模様が広がっていく。

 その中で、僕は拝殿の前に立ち尽くしていた。


 ――来る。

 根拠はないのに、そう確信していた。


 そして、霧のような雨の帳から彼女は現れた。純白の髪が濡れて輝き、浅葱色の瞳が真っ直ぐ僕を見ていた。


「……」


 胸の奥が熱くなり、感情が自然にこぼれ落ちる。


 彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、そして静かに笑った。


「あなたは、ほんとお人好しね」


 その笑顔は、前よりも近い。けれど同時に、どこか儚さを帯びていた。


「聞いたんだ。君のことを。この神社の神楽と、昔の伝承のことも」


 僕がそう言うと、彼女の表情が曇る。


「……そう」


「神楽を完成させれば、君は人として生きられる。」


 彼女は俯き、濡れた白髪が肩に流れる。


「そうかもね……でも、半分は嘘」


「嘘?」


「神楽を成すことは、私にとって解放でもあり、消滅でもあるの。人として生きられるのは、ほんの一握りの奇跡。もし失敗すれば、私は完全に消えてしまう」


 その声は震えていた。


 彼女自身、恐れているのだ。存在を保つために雨に縛られ続けるか、解放を求めて消えるか。その狭間で揺れている。



 彼女を失うかもしれない恐怖に襲われながらも揺るがない決心があった。


「でも……諦めたくない」


 気づけば言葉が口をついていた。


「どんなに難しくても、必ず神楽を完成させる。」


 彼女はゆっくりと顔を上げる。浅葱色の瞳が、僕の中を覗き込むように輝いていた。


「どうして……そこまで」


「分かんない、、、けどこれ以上、不安に駆り立てられるのはごめんだ」


 雨の音が境内を満たす。ふたりの間の沈黙は、けして重苦しいものではなかった。むしろ、互いの心が少しずつ近づいていくのを感じる。


「……もし、本当に望むなら」


 彼女は小さく息をつき、両手を胸の前で合わせた。


「次の雨の夜、私と一緒に舞ってくれますか?」


 その問いに、迷いはなかった。


「約束するよ」


 彼女は微笑む。その笑顔は、雨粒よりも透明で、胸に焼き付くほど美しかった。


【第12章】

 その夜、空は昼間から曇り続け、やがて大粒の雨が落ちてきた。稲光が雲を裂き、雷鳴が山々を揺らす。まるで天地そのものが、この儀式を見届けようとしているかのようだった。


 僕は境内の中央に立っていた。蝋燭の灯りが石畳を照らし、風に揺れる。神主が残した古い楽譜と記録をもとに、失われた神楽をできる限り再現した。

 太鼓の代わりに木の板を叩き、笛の音を録音機で流す。完璧には程遠い。


それでも、今できるすべてを込めた。


 そして彼女が現れた。雨を纏ったような純白の衣をまとい、長い髪が水滴を散らしている。


 浅葱色の瞳は、強い決意に満ちていた。


「後悔しない?」


「ここで逃げるなんて、そっちの方がずっと後悔するね」


 僕の言葉に、彼女は頷き、拝殿の前へと進む。境内に満ちる雨音が、やがて不思議と静けさに変わる。まるですべての自然が、彼女の舞を待っているかのように。


 彼女は腕を広げ、舞を始めた。


 一歩ごとに、水面に波紋が広がるように空気が揺れる。白い袖が翻るたび、雨粒が光の帯となって宙を舞った。


 その姿は、神楽というより祈りそのものだった。


 雨を呼び、雨を鎮め、そして命を繋ぐ……古代から伝わる人と神との対話が、今ここで蘇っていた。


 僕は両手を合わせ、彼女の舞に心を重ねる。

 言葉ではなく、ただひとつの想い。


 ……どうか、この舞が彼女を救う道となりますように。


 その瞬間、境内の空気が変わった。天から落ちる雨粒が止まり、無数の水滴が宙に浮かぶ。光を帯びた雨粒が円を描き、彼女を中心に渦を巻く。


「……っ」


 思わず息を呑む。


 彼女の瞳が僕を見た。

 浅葱色の輝きが、切なげに揺れている。


「雨に祈りを」


 その声は、雨音よりも澄んでいた。けれど、同時に不吉な気配も感じていた。雨粒の渦の中心から、暗い影が滲み出してくる。


 長い年月、雨女神を縛りつけてきた“呪い”そのものだ。雨と光と影が入り乱れる境内で、神楽の夜はさらに激しさを増していった。


【第13章】

 境内に渦巻く雨粒と光の中、暗い影が形を帯び始めた。まるで長い年月の怨念が凝縮されたかのような、黒い雲のような存在。


 それは、彼女を縛り続けた“呪い”だった。


「……これが、私を縛るもの」


 彼女の声は震えていたが、瞳には決意が宿る。


「でも、もう怖くなんかない。一人じゃないから」


 影がうねり、雨粒を蹴散らしながら迫ってくる。冷たい空気が僕らを包み、肌を刺すような痛みを伴った。


 恐怖に屈さないよう唇をかみしめ、彼女の側に立つ。祈りを込め、胸の奥から力を引き出す。それは言葉ではなく、心の叫びだった。


 光が集まり、僕と彼女の間で巨大な輪を描く。神楽の音に合わせ、彼女の力が僕の祈りと共鳴する。影は渦巻きながらも、少しずつ揺らぎ、かすかな亀裂が入る。


「まだ……!」


 彼女の声が響き、舞の動きがさらに鮮明になる。白い衣が雨粒を纏い、光の粒子を飛ばす。その瞬間、影が悲鳴のような声を上げて砕け散った。


 境内に静寂が戻る。雨粒はゆっくりと消え、空が少しずつ明るくなった。濡れた石畳に差す朝の光が、僕らを温かく包む。


「おわった……?」


 僕は息を整えながら、彼女を見た。彼女の瞳は輝き、悲しみや恐怖の色は消えていた。


 彼女の微笑みに、胸の奥から暖かいものが込み上げる。長い年月、孤独に耐えてきた少女は、ついに人としての存在を取り戻したのだ。


 僕はそっと彼女の手を握る。雨が止み、光だけが残った世界の中で、ふたりの距離は自然と縮まっていった。


 空は晴れ渡り、鳥の声が響く。澪音は、もう雨に縛られることなく、人として生きることを選んだのだ。


 そして、僕たちは初めて本当の意味で向き合った。互いの心を、祈りを、そして希望を。


【エピローグ】

 それから数日が過ぎた。

 雨は以前より少なくなり、空は晴れ渡る日が多くなった。それでも時折、ぽつりと雨粒が落ちてくると、僕は胸の奥がざわつくのを感じる。


 あの夜、彼女は完全に自由になった。もう雨に縛られることもなく、消える心配もない。


「……やっぱり雨の日は、落ち着くね」


 放課後の神社、境内のベンチで僕はそう言った。

 隣に座る彼女は、微笑みながら頷く。


「そうね。雨は私のすべてだから……」


 白い髪に雨粒が軽くつく。浅葱色の瞳が、嬉しそうに輝いている。その姿は、まるで長い孤独の時を経て初めて笑った少女のようだった。


「この祈りは終わらせない」


 僕は手を差し伸べる。

 彼女はすぐにその手を握り、にっこりと笑った。


「ええ、もちろん」


 雨音が遠くで小さく響く。それはかつての彼女の孤独を思い出させるものでもあり、今は僕たちの祈りを祝福するものでもある。


 僕たちは肩を並べ、静かに雨の音に耳を傾ける。雨はもはや、恐怖でも呪いでもない。僕たちの心を繋ぐ、優しい贈り物になっていた。


 そして、初めて二人で迎える雨の日。それは悲しみでも儚さでもなく、希望と未来の約束に満ちていた。


 僕たちの新しい物語は、こうして始まった。


 雨の日にしか現れない少女と、彼女を信じ続けた少年の、光と雨の物語――


拙い文章でしたがお読み頂きありがとうございました。

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