『尊い5歳児たち』シリーズ【電子書籍発売中・コミカライズ決定】
【電子書籍化】尊い5歳児たちが私に結婚相手を斡旋してきます~今度は結婚式準備を妨害中?~
いつもお読みいただきありがとうございます!
こちらは「尊い5歳児たちが私に結婚相手を斡旋してきます」の続きです。
先にそちらをお読みいただくとスムーズです。
馬車に揺られて、夕暮れ時のガルシア公爵邸が見えてくる。
昨日今日と続けて休みだったので、初日は婚約者であるカルレインの実家のダンフォード伯爵邸に顔を出し、今日は母のお墓参りに行ってきたのだ。
勤め先のガルシア公爵邸の前に到着すると、墓参りで少しばかり沈んでいた心が落ち着いた。
人生最悪な学園卒業式の日に、捨て猫のような私を拾ってくれたのはガルシア公爵夫人だ。少しきつめのお顔立ちで歯に衣着せぬ物言いで有名な方だったが、「うちに来る?」と言ってくれたのはあの方だけだった。
私が人生で最も困っていた時に、ここは私を受け入れてくれた場所なのだ。カルレインとの結婚式の日取りはごたごたしてまだ決められないけれど、やはり仕事は辞めたくない。
そう胸に秘めながら、門番に挨拶をして使用人用の部屋に向かって歩いていると、よく通る声に呼び止められた。
「あぁ、アガシャ! 帰って来た! いいところに!」
同僚侍女であるロキシーが赤毛を揺らしながら、珍しく慌てて走って来た。
「あれ、ロキシー? どうしたの。もう仕事は終わりでしょ? 明日のデートに向けて気合を入れるんじゃなかったの」
「デートなんてそんなものどーでもいいわよ!」
「そ、そうなの……?」
この前恋人と別れてから、新しくできた恋人候補の人とのデートだということで張り切っていたのではなかったか。
クリス殿下に相手を斡旋してもらおうとして、なぜか「パンをくわえたままはしってぶつかったオトコにしろ」という主旨のことを言われていたが。
結局、パンを咥えて走ったんだったかしら? それともどのパンを咥えて走るかで揉めてそれで終わったような……。パンに塗るために再度はちみつとバターも登場したしね。
「今日はクリス殿下がいらっしゃったの!」
「え、お嬢様とのお茶会の日ではないのに? 何か緊急の用事?」
「そうよ。緊急よ。浮気よ、浮気」
「う、浮気……?」
あの五歳の可愛いクリス殿下が浮気? ダリアお嬢様から浮気? あんなに仲睦まじいのに? いやいやまさか……待って、でも五歳だからあり得るのかしら。五歳なら○○ちゃんも○○ちゃんも好きということはあり得るよね? まさか、ハーレム?
クリス殿下は婿に入るのだから、ハーレムはダメだ。
「とにかく、来て! ダリアお嬢様はとっても落ち込んでおられて……。今は奥様がついてらっしゃるわ。アガシャも慰めて!」
「わ、分かったわ」
ロキシーの「デートなんてどうでもいいんだよ! それどころじゃないのよ!」という勢いに気圧され、私は手を引かれてダリアお嬢様の部屋に向かった。
***
あと一時間ほど耐えたら終業、いや単なる定時。最近定時で帰れたことはないのだが、俺は今日こそは定時で帰るのだという切なる願いを胸に抱きながら仕事をこなしていた。
「カルレイン、今日は帰れそうだな」
同僚が不吉なことを言うので、慌てて静かにするようにジェスチャーをした。そんな前振りはいらない。新しい仕事をこの時間に振られたらどうするんだ。
同僚が口をつぐんだ瞬間、扉をノックする音が聞こえた。
嫌な予感が背中を伝う。
「ダンフォード様。大至急、第三王子殿下のお部屋においでください」
「え?」
「いやいやいや、仕事中なんですが……」
「カルレイン、今すぐ行ってこい」
上から、第三王子クリス殿下の伝言を持って来た使用人、同僚、自分、そして宰相閣下のセリフだ。
カルレイン・ダンフォードは自慢ではないが、忙しい。宰相補佐として断じて暇ではない。しかも今はアガシャとの結婚式の準備と新居探しに追われている。私生活もこれまでにないほど忙しいのだ。正直、五歳児の第三王子殿下のお守りをする時間はない。お馬さんごっこだってしない。散々話し相手をして残業になっているのだ。
「私は仕事中ですし……そもそも、仕事が終わってからは結婚式の準備と新居探しがですね」
「いいから、今すぐ行ってこい。この前の件絡みかもしれないだろう。ダンフォード伯爵家の悲劇」
「この前の件はすでに解決したはずでは⁉ 御大層な名前をつけないでください! しかもクリス殿下は関係ないですよね⁉」
「カルレインのお兄さんの事件か? 式当日に駆け落ちされた?」
「やめてくれ、全部言うな。まだ兄は立ち直ってないんだ。『か』という言葉を聞いただけで落ち込んでる」
「じゃあカルレインの名前も呼べないな……」
「とにかく、カルレインは行ってこい」
悲しいかな、上司である宰相の命令には逆らえない。
第三王子クリスティアン、通称クリス殿下(五歳)の部屋に到着するまでにまずは説明しよう。
ダンフォード伯爵家の嫡男であるエカルト・ダンフォード、つまり俺の兄は結婚式の日に花嫁に駆け落ちされた。さらっと言ってはみたが、凄い事件だった。
あの日を振り返ってみれば本当に尻拭いが面倒くさく大変だった。家族全員降ってわいた不幸にパニックになる中、アガシャだけは冷静でいてくれて助かった。彼女は学園の卒業式で婚約解消と絶縁宣言されているから、不幸耐性が強すぎるのだ。そして他人がパニックに陥っている中で引き摺られずに冷静になれる人物だ。
あの事件でダンフォード伯爵家でのアガシャの株は大変上がった。
「まずはこちらが被害者であることを前面に出しましょう」
貴族社会は舐められたら終わりだ。
ガルシア公爵家の侍女の必須アイテム・唐辛子スプレーは火を噴かなかったが、参加者を押しとどめて食事会にして、兄の婚約者だった令嬢の家族を参加者たちの前で謝らせ……。寿命が縮むかと思った。
アガシャの冷静な行動により、ダンフォード伯爵家のダメージは最小限で済んだ。相手の家については知らないと主張したい。もう尻拭いはしたくない。
兄も父母も落ち込んでその後も大変なのだが、アガシャが休みの度に伯爵邸に訪れてくれて母はかなり救われている。最近は俺よりも母に会っているんじゃないだろうか。忙しくて休みが合わないから。
これは嫉妬ではない、断じて格好悪い嫉妬なんてしていない。
しかし、なんとこの一連の騒動は駆け落ちだけでは済まなかった。
俺とアガシャの結婚式を兄と同じ教会で挙げることにしていたが、家族のトラウマを考慮してキャンセルせざるを得なかったことも含む。
なんと、商人の男と駆け落ちしたはずの兄の元婚約者は戻ってきたのだ。膨らんだお腹を抱えて。駆け落ち事件から数カ月しか経っていないのに、腹が膨らんでいるのは……つまりそういうことだ。腹が膨らみ始めるのは一般的に妊娠4~5カ月らしい。そう、つまりはそういうことだ。
元婚約者は、お腹の子供は兄との間の子供だと主張してヨリを戻そうとしてきた。きっと駆け落ちで持ち金が尽きたのだろう。
兄はまだショックでふさぎ込んでおり、会わせるわけにはいかなかった。兄の子である主張が嘘だと黙らせるために俺が何度か話し合い兼脅しのために会っていると、それをガルシア公爵家のアガシャの同僚が目撃したらしい。俺の隠し子騒動にまで発展して大変だった。
いやいや、妊婦と会っていたからってどうして俺の隠し子騒動に発展するんだよ。大変でしたなんて一言で済ましているが、本当の本当に大変だった。
ガルシア公爵夫人に呼び出され、ダリアお嬢様までそこには同席していて「カルレイン、うわきしたの?」と純粋な五歳児に真顔で聞かれたあのダメージは計り知れない。脳震盪でも起こすかと思った。
「ふせーじつなひとには、テーブルひっくりかえしてもアガシャはわたしません」
ダリアお嬢様は容赦がなかった。ちゃぶ台をひっくり返すあたりを何かと勘違いしているところが可愛い。貴族の家にちゃぶ台はないんじゃないか。ふせーじつの意味も恐らく分かっていない。
「わたしは、ふせーじつなカルレインにおこっています。プンプンです」
突如開催される笑ってはいけない選手権。後ろのアガシャの同僚の侍女たちは笑うというか「プンプン」の可愛さに悶えている。
女の子であるからか、お嬢様はお口が達者だ。クリス殿下のように重要なところで噛まない。もっと暗いお嬢様だと思っていたのに。
ダリアお嬢様の成長を噛みしめながら、俺は隠し子騒動に関する尋問を受け否定し続けるしかなかった。おかしい、アガシャは普通に俺を信じてくれたのに。なぜ外野にこんなに責められなければいけないのか。
「参りました」
「あぁ、カウレイン。きたのか」
五歳児の部屋にはいい年の大人が揃っていた。そしてアガシャへのプロポーズを成功させても、まだ俺の名前は牛みたいに呼ばれるのか。
まず、にこやかに手を振っているのは王太子殿下。なぜ王太子殿下がいらっしゃるのだろう。そして殿下の侍従と自分である。俺だけ謎の人選だ。王太子殿下がいらっしゃるなら俺は権力的には要らないんじゃないか。
「カルレイン、悪いな」
王太子殿下にそう言われてしまえばグチグチ言うこともできず、示されたイスに座った。
「大至急とうかがったのですが、どのような緊急事態でしょうか」
俺の言葉に王太子と侍従は、そっとクリス殿下を見た。
「かいぎをしよーとおもって。おとなは、こまったらかいぎをするじゃないか」
珍しく元気の無いクリス殿下。この世の不幸を三割ほど背負い込んでいそうな黒いオーラを放っている。いつもは見事な金髪もくすんで見える不思議。
ちなみに、クリス殿下はダリアお嬢様とお揃いで作らせたクマのぬいぐるみを抱いている。これが会議ならそのぬいぐるみも参加者として名前を議事録に書いた方が……いや、何を言ってるんだ。俺は。忙しさで頭がおかしくなっている。
御年五歳だからぬいぐるみは仕方がない。いつもこんなに元気がなかったら可愛いのに。憂いを帯びた五歳児なんて、アガシャの同僚たちが見たら鼻血を出しながら喜ぶんじゃないだろうか。一人は無心でスケッチを始めそうだ。
「殿下、大人が会議をするのは困っているからではありません。全員出席のもとで会議をしたという体裁が必要なだけであって。あれは結局身分の高い者の意見が通る出来レース……」
「カルレイン、それ以上は世界の真理に触れるからいけないよ」
「いえ、よく考えると会議というのは多くの素晴らしい意見を聞ける大切な場ですね。えぇ、大人は困ったら会議をするのです。あら不思議、すべて解決します」
一瞬、世界の真理に触れかけたものの王太子殿下から待ったがかかってしまった。五歳児に世界の真理はまだ早かった。
無駄になる資料と時間。会議の後で「やっぱり、あぁしたらいいんじゃない?」と無駄に後出しじゃんけんのように口を出してくる大臣(お前、会議中寝てただろうが)。私情で会議中にケンカを始める貴族たち(事件は会議室で起こしちゃいけない、ケンカなら現場でやれ)。しまった、脳内で愚痴が止まらない。やはり全て五歳児にはまだ早かった。俺はきっと疲れているんだ。アガシャに会えていないからだ、そうに違いない。
「クリス殿下はそれほど悩んでおられるのですか」
最近は会うなり真っ先にお馬さんごっこをさせられていたのに。クリス殿下がこうも世界の不幸を背負っていると不安になる。
「殿下がケーキを召し上がらないくらいです」
「それは事件ですね」
「あぁ、クリスがケーキを食べないなんて紛うことなき事件だ」
侍従が説明してくれて、俺はやっと事態の深刻さを知る。
王妃様にお尻ペンペンされても、ケーキだけは死守する。三度の飯よりケーキがお好きなのに……俺が袖の下に使うくらい。
「一体、何が……まさかダリアお嬢様と……?」
重々しく侍従が頷く。
おかしい、アガシャからそんな連絡は来ていない。そんな重大事件なら連絡くらい……あ、昨日今日とアガシャは休みだったような……。まさかアガシャ不在で起きた重大事件なのか。
「ガルシア公爵家との関係が悪化するのは良くないからね」
「い、一体どんな重大事件が……」
俺は唾を飲み込んで次の言葉を待った。クリス殿下はやや迷いながらもぬいぐるみを抱きしめたまま口を開く。
「カウレインは、うわきをどーやってゆるしてもらったんだ?」
「浮気なんてしていません!」
「でも、カクシゴがいたんだろう?」
「いません!」
誰だ、五歳児にこんな言葉を教えた奴は! 頭に血が上りかけた。
結局、王太子殿下と侍従が語ったのはこうだ。
この前の王宮での子供を集めたお茶会にて。クリス殿下はハンカチを落としたのだそうだ。
それがどう浮気につながるのか。
そう。殿下も侍従も落としたことに気付かず、コーエン伯爵令嬢(七歳)が拾ったのである。
拾った令嬢がすぐに気づいてハンカチを返してくれていれば何の問題なかった。だが、不運なことにコーエン伯爵令嬢は王子様のことが大好きな夢見る少女であった。
そのハンカチを手に伯爵令嬢は「クリスティアン第三王子殿下は私のことが好きだといってくれてハンカチまでくれた」なんて言いふらしたのである。七歳児の戯言ではあるが、親戚などに話してしまったため王宮でのお茶会に参加資格のなかった下位貴族に広まってしまった。
コーエン伯爵夫妻は常識人であったため、娘が見慣れないハンカチを持っているのに気付いてすぐさま返却の上、方々に謝罪した。
王家としても七歳児のやったことなので、いかんともしがたい。高位貴族はガルシア公爵家への婿入りを知っているので何の反応もしていなかったのである。ただ、ウワサ好きな下級貴族の中には信じる者もいた。そしてガルシア公爵家への婿入りだとか婚約だとかをあまり理解していない下位貴族の多くの子供たちは、無邪気に信じている。
そのウワサが遅れて徐々に広まってダリアお嬢様の耳に入って傷つく前に、クリス殿下は謝罪に行ったのである。それが今日。
「もう謝罪されたなら良いのでは……?」
「ダリアがわらってくれなかったんだよ……くらかったし」
侍従によると、殿下から話を聞いたダリアお嬢様の表情は終始暗かったらしい。
あのお嬢様は嫌なウワサを流されて虐められていた時期があるから、敏感になっているのかもしれない。これからのお茶会でこの件を口にする子供がいるかもしれないからだ。
今は五歳児だからいいのだが、ダリアお嬢様も将来こういうことに立ち向かっていかねばならないだろう。対処できなければ舐められてしまう。しかし、今回は殿下がハンカチを落とさなければ良かっただけの話ではある。相手に物まで出されてはダメだ。信ぴょう性が増す。
「ハンカチはポケットにぬいつける。あと、コーエンはくしゃくレージョーのしょけーはできないって」
殿下、五歳児のわりに発想が物騒。飛躍が凄い。
「国家反逆罪くらいじゃないとね」
「カッキョハンギャク」
「冤罪を被せて処刑できるようにしましょうか?」
難しい顔で間違った復唱をするクリス殿下。
俺は冗談で冤罪を持ち出したのに、国家反逆罪と口にしたはずの王太子殿下に引かれた。
五歳児に処刑について教えるのだから冤罪くらいいいだろう。コーエン伯爵家は手広く商売を成功させている家だから、冤罪をかけたくないのは分かるけれども。しかもあそこの七歳児といえば三女か。一番甘やかされている末っ子じゃないか。
ああいうタイプが結婚式寸前に駆け落ちして平気な顔して戻って来るんだよ。いや、これこそが冤罪だな。コーエン伯爵夫妻が末っ子の教育に失敗したなんて冤罪はまだ早い。
「カウレイン、どーやったらダリアはわらってくれる?」
先ほどまで「しょけー」なんて言っていたのに、モジモジしながら聞いてくる疑問が可愛い。王太子殿下と侍従を見ると、肩をすくめたり重々しく頷かれたりされた。
会議の体裁を取らなければいけないようだ。
「許してもらえるまで謝りましょう。ダリアお嬢様は以前嫌なウワサを流されていたことがあるので過去のことで敏感になっていらっしゃいます」
「そうですね、それしかないでしょう」
「カルレインもついていってくれるから。そうだ、謝る時に母上のお気に入りのバラを持っていくか。ダリア嬢も王宮のバラを気に入っていただろう? 母上に頼んでみよう」
「さっそくお手紙を書いて訪問の予定を立てましょう」
「ダリアお嬢様もお悩みでしょうから、早めがいいですね」
俺の言葉に追随する侍従と王太子殿下。これ、もし許してもらえなかったら俺のせいにされないよな? 同行することは確定でアガシャに会えるのはいいのだが、同時に俺の残業も確定している。
「カルレイン、悪いな」
クリス殿下を皆でなだめすかして部屋を出ると、王太子殿下が肩を叩いてきた。残業確定なので恨めし気な視線を向けたくなる。
「お兄さんの件は残念だった。新しいお相手はその……見つかりそうか?」
「兄は女性不信になっておりまして……すぐは難しいのではないかと」
兄は「カルレインが伯爵家を継いでくれ。俺はもう無理だ、結婚などできない」なんて恐ろしいことを最近になって言い始めたのだ。
「結婚しなくても周囲はうるさいだろうが、伯爵家なら養子を取ってもいいしな」
「……そうですね」
それもそれで色々煩いだろうが、ありだ。王家はそうはいかないだろうが、伯爵家ならありだ。俺が伯爵家を継ぐことになったらアガシャが「自分は平民だから伯爵夫人は務まらない」と気を遣うだろう。どこかの養女になるという選択肢があるのだが、どうもアガシャの母親の実家の子爵家が最近になってすり寄って来ていて鬱陶しい。
そして、今回のクリス殿下の事件である。あぁ、忙しい。結婚前ってこんなに忙しいものか? もしかして呪われているんだろうか。
「カルレインは式をキャンセルしたんだろう? 新しく執り行う所は決まっているのか?」
「いえ、なかなか予定が合わなくて予約が取れていないんです」
アガシャもダリアお嬢様が参加するお茶会・公爵家でのパーティー等で仕事が増えている。俺もたまにクリス殿下に振り回されて仕事が溜まる時がある。上司がクリス殿下のファンなのがいけない。
「私が無理矢理ねじ込んでやろう、王族権限だ。王都の中規模の教会でいいな?」
「は、い?」
俺は素っ頓狂な声を出しながら王太子殿下を見つめた。クリス殿下をそのまま大きくしたような人物がにこやかに笑っている。
「今回の件の報酬だ。クリスとガルシア公爵家との関係を修復してくれたら、の話だ。どうだ?」
「それは正直大変ありがたいです」
ちょうど結婚式のシーズンになってしまうため、中々式の予定が取れずに焦っていたところだ。あまり引き延ばすと兄もさらに責任を感じるだろう。王太子殿下に肩を叩かれて、しばらくの残業には仕方なく目を瞑ることにした。
まぁ、クリス殿下とダリアお嬢様の関係は良いに越したことはないから。政略が絡んでいるのだから婚約解消なんて早々ないだろうが、可能性は潰しておいた方がいい。あの婚約がもし解消になったら貴族の力関係がまた変わって面倒なことになる。
クリス殿下は「かいぎ」の後ですぐに行動した。翌日の訪問の約束をさっさと取り付けて、庭師と一緒に王妃殿下のお気に入りのバラの中からどれを持っていくのか悩み抜いて選び、侍従にも任せずずっとバラを握りしめていた。
俺は嫌な予感をズキズキと頭痛のように感じながらその様子を見守る。そして案の定、もうすぐガルシア公爵邸に到着するという段階でそれは起きた。
「ど、どーしよう。カウレイン……」
「殿下、忘れ物ですか? お手洗いですか?」
「か、かれたかも……」
殿下は片手に持ったバラを俺の目の前にずいっと差し出した。大事に大事に握りしめていたバラは、殿下の体温で出発前よりも萎れている。好きな人にあげるには格好がつかない。だから庭師の言う通りにそんなに持つなと……。
「ずっと手に持っていらっしゃったから萎れていますね」
「どーしたらいい⁉ おはなやさん⁉」
半泣き状態になっているクリス殿下が可愛いので、一瞬にやけそうになったのを我慢した。アガシャの気持ちが段々分かるようになってきた。
「お花屋さんにはこんなに見事なバラは売っていません」
その辺の花屋にこんなバラが売っているわけがない。
クリス殿下は絶望したような顔をする。あまりに面白いのでもうしばらく引っ張ろうかとも思うが、俺も王太子殿下にご褒美をつるされているので我慢する。
「殿下、大人の処世術を教えてあげますよ」
***
「アガシャ……」
私が部屋に入ると、お嬢様は奥様に慰められながら殿下からもらったクマのぬいぐるみを抱きしめていた。
ぬいぐるみと幼女のコラボレーションの素晴らしさといったら! うっかり拳に力が入る。
あ、話が逸れましたね。あのクマのぬいぐるみは殿下とお揃いなのです。クマの目にはお互いの目の色を意識した宝石が縫い付けられています。お嬢様のクマさんは殿下の目の色と同じ紫でアメジストなんですよね。
「あとはお願いね」
奥様はすっと立ち上がって部屋から出て行かれました。
お嬢様の部屋にたどり着くまでに同僚のロキシーから粗方の事情は聞いて把握していたので、お嬢様の前にそっとしゃがみ込む。
ガルシア公爵夫人である奥様は強い方だから「そんなウワサは無視しなさい」とか「ちゃんと言い返して戦いなさい」と仰るでしょう。事実、奥様はさまざまなことに立ち向かってきた方だから。でも、お嬢様は四歳の頃から心無いウワサで苦しめられた。
私はお嬢様の片手を軽く握る。
「クリス殿下と喧嘩をされたのですか?」
「ううん。ちがうの。ハンカチをおとしちゃったのはべつに……うっかりだもの」
お嬢様はふるふると首を振る。
「また、おちゃかいでヒソヒソされるのがいやなの。くちがきけないとかヘンだって、たくさんいわれるのかなって」
お嬢様はすでに涙目だ。
子供は純粋で残酷だ。言葉の意味が分かっていても分かっていなくても、お嬢様にそういった言葉を投げつけた。
「殿下が嫌いになったわけではないのですね? ただ、今回の件がきっかけで、前に起きたことがまた起きるのが嫌なのですね?」
「でんかのことはすき……いっしょにいたらたのしい」
お嬢様は殿下には怒っていない。
ただ、今回七歳の令嬢が言いふらしたことでまた以前のように目の前でヒソヒソとウワサをされるのかと連想したのだろう。それで落ち込んでいらっしゃるのだ。この間、ある令息には一対一でなんとか対応できた。でも、お茶会などに呼ばれて大多数を相手にするのは厳しい。
当たり前だ、大人でもあれは厳しい。
「お嬢様、どうして彼らはお嬢様に酷いことを言うと思いますか?」
「……わたしがみんなとちがってヘンだから」
「いいえ、それは違います。彼らが幸せではないからお嬢様に酷いことを言うのです」
「え? どーゆーこと?」
お嬢様は目に涙を溜めながら、私の顔をうかがった。
「お嬢様は幸せな時、誰かに酷いことを言いますか? 例えば、クリス殿下とお茶会をした後に」
「ううん。いわない」
「そうでしょう? 幸せで自分のことが大好きだったら、誰かのことを悪く言おうなんて思わないんです。もちろん、お嬢様はいつもそんなことはおっしゃいませんが」
私もお嬢様も、誰かに何か言われたらすぐ自虐に走ってしまう。私の場合は自分が嫌いだから。自分を嫌いでいる方が言い訳ができて楽で、ずっとぬくぬくと殻から出なくていいから。
義妹にはよく傷つくことを言われた。その年月が積み重なって私は自分嫌いの殻から出るのに苦労した。でも、お嬢様はまだ小さいし私のように長い呪いのように苦しんで欲しくない。
「幸せではないから、誰かのことを悪く言って足を引っ張るのです。自分と同じところに引っ張って下ろしたいから。そんな方々を相手にする必要はありません。彼らは幸せではない可哀想な人達なんです」
私の言葉は少し足りないだろう。でも、なんとなくでも私の気持ちは伝わったらしい。
さっきロキシーから受け取った手紙を見せる。
「クリス殿下がまた明日来られるそうですよ。その時にお話できそうですか?」
「うん……きょうはぜんぜんおはなしできなかったから」
「お嬢様、私はどんなお嬢様でも大好きですよ。うまくお話できなくてもいいし、泣いてもいいんです」
以前からお嬢様に繰り返し言っていたのと同じ言葉なのに、今日は自分の耳に違って聞こえた。以前まではこの言葉を発するたびに「私だって誰かにこんな言葉をかけて欲しかった」と心の片隅で不満が渦巻いていた。今はそれがない。カルレインがずっと私に寄り添ってくれたからだ。
お嬢様はクマのぬいぐるみごと私に手を伸ばしてくる。私はお嬢様をしっかり抱きしめた。
自分のことが嫌いだったら、そして自分の中に恐れがあったら、心から誰かを愛することは難しい。私は身をもって知っている、だからお嬢様にはそうなって欲しくない。
翌日、やって来たクリス殿下は恥ずかしそうに王宮に咲いていたバラを差し出した。
「ダリア、ごめんね。プレゼント。ほら、これ、ハンカチはこーやったらもうおとしゃないから」
殿下はポケットに縫い付けたハンカチを見せながら、最後の最後で噛んでいる。
同行してきたカルレインが殿下の後ろでちょっと笑った。
「でんか、ありがとうございます。でも、そーやったらハンカチのおせんたくはどうするんですか」
「それはちゃんとかんがえたぞ!」
バラを嬉しそうに受け取ったお嬢様に殿下はハンカチの縫い付けについて力説している。侍従さんあたりがちゃんと考えたのだろう。
「あのバラなんだけど」
彼の家族には散々会っていたが、カルレインと会うのは久しぶりだ。彼は近付いてきてやや萎れたバラをこっそり見せてくる。
「え、これは?」
「殿下が握りしめすぎて萎れたバラ」
「じゃあ。殿下がお嬢様にお渡しになったあれは?」
「俺が持って来た予備。もちろん王宮の王妃様のお気に入りのバラだよ。庭師にこっそり頼んどいた。だって、殿下はバラを受け取ってからずっと握りしめてて……『ダリアはよろこんでくれるだろうか』なんてソワソワして。絶対ああなるだろうなって。案の定馬車を下りる前に『かれた!』って大騒ぎで。それなのに今はあんな得意げな顔でバラをお嬢様に渡しちゃって」
殿下の可愛さに鼻血が出そうになり、慌てて鼻の頭を摘んだ。
萎れたバラはなんとか花瓶に生けてみよう。それにしてもそこまで予測しているなんて、カルレインは凄い。
「これで仲直りかな」
「お嬢様はウワサされることに敏感なので、大勢の集まりの前には不安定になられるかもしれませんが。きっと大丈夫」
「あと、式場の件だけど。王太子殿下が何とかしてくれるって」
「え? 言い出した時にはもう遅くて今シーズンは無理だったっていう話じゃあ……」
「王族権限ってやつ。兄もそろそろ変に俺たちに気を遣い始めるしさ」
「そのことなんだけど、お兄さんのお相手って子爵令嬢ではダメかしら」
「もうこの際、逃げない人ならだれでもいいんじゃ……? 気が強い方がいいかな。兄はまだしょげてるから」
「同僚のロキシーが今日デートの予定だったんだけど。お嬢様が落ち込んでおられてそちらにかまけて、デートに行ったはいいけど心ここにあらずでお相手から振られて帰ってきたの。今はお菓子を一人で食べているわ」
「俺たち以外も殿下たちに振り回されてるな……」
「だから、ロキシーを斡旋するのはどうかなって」
カルレインは少し考える素振りを見せてから、ニヤッと笑う。
「斡旋ならやっぱり、あの二人にやってもらわないといけないな」
殿下は仲直りできたようで、お嬢様の頬にキスをしている。二人を微笑ましく見ていると、頬に温かい感触があった。
「あ、仕事中なのに!」
カルレインは私の抗議をスルーした。
「じゃあ、兄にはクロワッサンを咥えて走ってもらおう。殿下の言い分ならパンを咥えて曲がり角でぶつかれば恋が芽生えるんだっけ」
「クロワッサンだなんて。ロキシーがフランスパンを切ったのを咥えて走ってぶつかればいいんじゃない?」
「絶対クロワッサンだ。あのサイズ感がいい」
「クロワッサンは食べている途中にポロポロ落ちるから恋には向かないわ」
「パンって大体ポロポロ落ちるじゃないか」
殿下たちに呼ばれるまで、私たちはパンの好み談義をしていた。