#18「ハルと忘れてしまいたいこと」
渡会ハル。両親健在。学力はそれなり、運動神経は平均よりも少し下。優しいが、少し臆病。
「おいっ! ハルのこといじめんなーっ!」
そして親友はたった一人。生まれた病院から一緒の、力強く明るい少女。
幼い頃のハルは臆病故に、意地悪な同級生に絡まれがちだった。その度いつも、彼女が助けてくれたのだ。
「ほらっ、もう泣かないの! ……なーくーなーっ!!」
桃色の髪を左右で縛ったその少女は、そう言ってハルの頭を叩いていた。だけど、その殴打だけは痛くなくて、温かかった。
葦名ウタの、その拳だけは。
なんだかウタが前よりよそよそしいな、何か変なことをしただろうか──そんなことを思いながら、ハルは中学生になった。
同じ時期、中学校の周囲が怪しい雰囲気を持ち始めた。
以前から少なくはなかった不良学生がいっそう多くなり、そのくせ警察は大して働かず──ハルが中学を卒業する頃、当時の山倉市警察署長は汚職の疑いで更迭された──結果山倉市には、暴力沙汰や少年犯罪が多くなった。
「っ……やめろ、ハルをいじめんなっ!!」
「声がうるせえが良い顔してるなァ……おい、ソイツは適当にシメとけ」
中学2年の冬だった。ウタが男の不良グループに執拗に絡まれ、ハルは恐る恐る彼らを退けようとした。
結果、二人は暗い路地裏に連れて行かれ、そして暴力が始まった。
「姉ちゃんもさぁー、こんな弱いカレシいらないっしょ? さっきもゴミ弱くて、キミに守られててさぁー、ははっ」
頭を踏みつけられ、鈍い痛みが走る。不安感で鼓動が早くなる。だがそれは、自分が痛めつけられる恐怖から来る不安ではなかった。
「おい、俺の女になれよ。そうすりゃあのモヤシは助けてやるぜ?」
「…………っ」
苦痛に歯を食いしばりながらも、ハルの視線は、他でもないウタへと向いていた。
以前のウタならば、同級生の男など簡単に打ち倒していた。だが今はもう、言い寄ってくるその男一人、力で退けることも叶わなくなっていた。それが"大人になる"ということなのだと、ハルは知っていた。
「…………ハル、ごめんね」
そう言って涙した彼女の顔から、その胸の内がはっきりとハルに伝わって来た。
「……かせるな」
「あぁ? どうしたんですかぁー、はるくぅーん?」
別にむすっとしていても良いし、彼女に叩かれても、蹴られても、パシリにされても文句はない。
だけど、そんな顔を見るのだけは嫌だった。
「その子を……泣かせるなッ!!」
瞬間、ハルは感じた。
全身をめぐるエネルギーの活性を。
体内の全ての血が──否、マナが目醒めるのを。
鋭い鉤爪と牙、そして脅威のキック力を誇る山倉中の"ビースト"。その後、ハルが半年ほど呼ばれた通り名である。
その半年間は、妙に不良に絡まれ、その度退けてウタを守る、そんな漫画のような日々が続いた。
それ以外の日は、ウタと遊びに行ったり、学校の屋上で一緒にアイスを食べたり、電動自転車を持っているのを良いことに、彼女の足にされたり。その全てが、今や懐かしい。
敵はただの不良だけではない。魔法使いもいた。氷使いとも戦ったし、鉄くずを研磨して刀を作り出す魔法使いとも一線交えた。
"1文字ずつ文字数を増やして一人しりとりをし、その過程で言ったもの全てを具現化する固有魔法"──あの魔法使いは特に強敵だったと、今も記憶している。
「痛っ……あの、もういいから……」
「何言ってんだよ! 消毒しなきゃバイ菌が湧くだろうが」
ハルはいつもボロボロになって、そのたびウタの部屋で治療をした。昔は質素で壁が落書きだらけの部屋だったのに、その頃はなんだかいい匂いのする小綺麗な部屋になっていて、ハルはどこか居心地が悪かった。
「あっ……ば、絆創膏くらい自分で……!」
「うっさい、動くな」
ウタの瞳に映る自分の姿が見える、それくらい近い距離で、そうして彼女はハルに絆創膏を貼ってやっていた。昔と違って何だか恥ずかしかったけれど、ハルにとってはどこか幸せにも思えた。
「……はい。ありがと。守ってくれて」
治療が終わるといつも、ウタはハルから目を逸らしながらそう言った。
(……そっか)
その顔を見るたび、ハルは思い知った。
自分にとって彼女がどれだけ尊く、愛しいのかを。
どれほど守りたい相手なのかを。
「ヴゥ……ア゛ァァ……」
獣のような汚らしい声──それを発しているのが自分自身だと、ハルはようやく気がついた。
高熱が出ているかのように、全身熱くて思考がまとまらない。その中でも、ハルは必死に五感からの情報と、自らの記憶を整理した。
ここは暗がりの廃墟。そうだ、今日もまた不良と一戦交えていたのだ。今度の相手は、今までで最も強かった。へし折られた腕が未だにズキズキ痛む。
だが、あそこに倒れているのは──そうだ、奴だ。記憶に無いが、なんとか倒せたらしい。
(……そうだ、ウタは)
マナ切れにより、自分の身が強制的に人間に戻されていくのを感じながら、ハルは周囲をきょろきょろと見回した。
「! ウタっ!」
探し人は、すぐに見つかった。
「う…………た?」
頭部から血をを流しながら、地に伏した姿で。
「ウタ!! なんで……なんでこんな!?」
うつ伏せで顔が見えないが、おそらく気を失っている。いやそれよりも、顔の辺りから溢れ出している鮮血が、ハルに拭えない焦りと恐怖感を与えた。
「……クッ、クク……なんで、だと?」
「! お前がやったのか!?」
まだ意識のあった敵の不良に、ハルが振り返って問いかける。しかし不良はクスクスと笑う。何言ってんだ──とでも言うように。
「俺の"重力"の固有魔法じゃ、そんな切り傷は付けられねえさ……よーく見て、自分の罪を思い出してみるんだな……」
そう言うと、力尽きたのか、不良は気を失った。
「!」
一人取り残されたハルは、すぐにウタの体をそっと仰向けにして、そして見た。
顔の左半分に大きく深く刻まれた、真っ赤な獣の爪痕を。
人間の面の皮が、4割ほど破壊されているのを。
「…………な、んで……違う……僕は」
違う。違う、違う。口でも、頭の中でも繰り返しそう唱えた。
だけど、消えない。その傷を見て、鮮明に蘇ってきた記憶が。
暴走した自分が、"それ"をやったのだという確信が。
世界で一番美しい花を、他ならぬ自分が踏みにじったのだという事実が。
「…………違う。僕だ」
それしか呟けないまま、ハルはそらを見上げた。
皮肉なほどの快晴であった。
そして、今。
「っ……」
昨日、不良に殴られた腹をさすりながら、渡会ハルは山倉市中央病院の廊下を歩いていた。
昨日は痛めつけられ、浅井正宗に好き勝手言われ、そして夜は嫌な夢を見た。そんな状態で、学校に行きたいとは思えなかった。だから休みの連絡を入れて、朝からこの場所を訪れたのだ。
階段を上がり、3階に辿り着いた。入院患者が寝泊まりする階の一つである。"彼女"の病室は、階段を抜けてすぐ、一番手前の部屋だ。
「…………」
目当ての部屋を前にして、ハルは立ち止まった。部屋を間違えてはいなかった。そもそも、中学3年の時からここへ通い続けて、1日たりとも部屋を間違えることなどなかった。
同時に、渡会ハルはこの二年間一度も、"彼女"の病室の中へ入ることはなかった。否、入れなかった。
今日も手土産の菓子の袋を手に、ハルは部屋の戸の前で立ち止まる。そして、立て札に"304 葦名ウタ"と書かれているのを確認する。
(……会いたく、ないよね)
そして、袋に"葦名さんへ"と書いた紙を入れてその場に置き、引き返す。何十回、何百回と繰り返してきた、大嫌いなルーティーン。
あれから彼は一度も、葦名ウタには会えていなかった。
彼女の両親には縁を切られたが、最初に病院を訪れた時、院長に部屋番号を教えて貰えた。曰く、両親は面会を拒否したが、彼女自身は拒否しなかったからだそうだ。
それがかえって、ハルには怖かった。
(……会って、何を言いたいんだろう。ウタは)
怖かった。自分が彼女を傷つけたのだと、再確認するのが。大好きだった彼女に、怨嗟の言葉をかけられるのが。
彼女がもう友達ではないのだと、思い知ることが──シュレディンガーの猫が、もう死んでいることを確認するのが、恐ろしくてたまらなかった。
だから今日もこうして、病室を出て、病院を去り、バス停の日陰で柱に寄りかかって、途方に暮れていた。
そんな、幾度となく繰り返してきた、鬱屈で最悪の日常。
「よっ、渡会」
「?」
だけど、その日だけは違った。
「浅井……くん?」
「はよ。昨日は悪かったな」
飄々とした態度で、学生服を着崩した男が立っていた。
昨日の夕方ぶりの、浅井正宗が。
「あれ? もう9時だよ、学校は?」
「ああ、寝坊しちまってさ。どうせ1限は数学だし、まだ行かなくていいだろ」
「そんな、でも──」
「渡会」
ハルの発言を遮って、正宗はその手に持った手提げ袋を掲げた。
「学校サボる気なら付き合えよ。墓参りに行くんだ」




