4.sideアヴィスト
やっと見つけたと思った。
やっと仇が討てると思った。
二年前に壊滅させられた故郷の村の、無残に殺された村人たちの、俺と幼馴染みの両親の仇を討てる瞬間を、ずっと待っていた。そして、あの日から行方知れずとなった師匠と幼馴染みのことを聞き出す。二人を殺したのか否か。まあ、どちらにしても俺はこいつを捕まえる。抵抗することは予測済みだから、このままこの場で殺してもいい。そう思って、剣の柄を握る手に力を込めた。
ボロボロのローブを切り裂き、露になった姿の中で最も目を引いたのは、バサバサと絡まる長い黒髪だった。この国で黒は殆どいない。それどころか奇異の目に晒され嫌悪の対象とされる。黒は不吉だとか根拠も何もないただのへったくれだと思っていたが、今この瞬間から魔女の色だからではないかと思ってしまう。そんな色の隙間からこちらを睨みつけてくる同じ色の瞳と視線が交差する。そこには怨嗟の光を灯している。不意を突いたことに対して怒りを感じているのだろう。突き刺さるような殺気を知覚しながら、俺は再びサネルガに掛けてもらった補助魔術で高く跳び、奴へ攻撃を仕掛けた。
さすがは魔女と言ったところか。最初に不意を突いたあの一撃以来、思ったようなダメージを与えられていない。急所を突こうと近づくのを試みるも防御魔術で弾かれ、間を開けずに攻撃魔術でこちらの急所を一気に突いてくる。なんとかギリギリで避けてはいるものの体力は削られていくから、奴の攻撃がいつ当たってもおかしくない。だんだん呼吸が追い付かなくなってきている。蟀谷から流れ落ちる汗を乱暴に拭う。
それにしても、この女は疲れるということを知らないのか? 俺以外にも団長やサネルガ、他の騎士や魔術士たちが四方八方から、幾つもの攻撃を仕掛けているというのに全て防いで躱している。だけど防戦一方ではなく合間合間に反撃しており、その一つ一つの攻撃が重く確実だ。味方ならば頼もしかっただろうが、敵として戦っている今は厄介としか言いようがない。
それでも追い詰めていると言っていいと思う。俺が一撃を浴びせてから奴はひと言も発していない。何かを企んでいるのかと疑いはするが、表情から鑑みると俺たちの攻撃に対処するのに精いっぱいだと考えられる。このまま攻撃し続ければ恐らく反撃のチャンスはあるだろう。ただし、こちらの体力が持てばの話だが。
「おい、どうした? 静かになったじゃねえか!」
サネルガが奴を煽りに出た。分かりやすい挑発に乗る素振りは見せなかったが、魔女は声の主を睨む。
「俺たちを殺して新しい国を作るんじゃなかったのか?」
馬鹿にしたように話す青年を睨んでいた奴の目が、スッと細められた。その瞬間、魔女の雰囲気がガラリと変わった。その場にいる者たちが息を飲む気配がする。
「全員、奴から離れろ!」
魔女の変化に団長が一早く対処に出た。その号令に俺もサネルガも従い、距離を取る。
地面から一メートルほど宙に浮いた状態で魔女は俯き、自身を中心に魔力風を生み出している。その風がだんだんと風速を上げいき、俺たちに襲い掛かる。立っているのも難しくなる。だけど俺は奴の一挙手一投足を見逃すまいと、この視線に力を入れていた。
だから、笑ったのに気づいたのだろう。にたり、と。嗤うのを。
『思い上がるなよ。貴様ら如きに、妾が倒せると本気で思ったのか? おめでたい頭じゃなぁ?』
その声を聞いた瞬間、俺の思考は真っ白になった。
『今までのはただの戯れよ。貴様らの中で最も厄介な奴を見出すためのなあ』
何故、と。上手く回らない思考の中で、その二文字が紡ぎ出される。
『あとの者どもは虫けらじゃ。妾の相手にならぬ。妾が小指を捻るだけで葬れるわ』
ククク…と笑う目の前の奴を見て、必死に否定しようとする俺がいる。だけど、認めたくない事実がそこにあって。否定する俺を否定する証拠が、俺の中にあって。
『ここにいる全員で国を守っているとは考えられんからの、他にも厄介な者がおると思うが…。今この場ではそやつらを始末してしまえば、少しは楽になるよの』
髪の色が違う。瞳の色が違う。体型が違う。言葉遣いが違う。笑い方が違う。
だけど。
──声が。
「お前……」
「アヴィスト?」
声が掠れた。俺の動揺している様子にサネルガが気づき、訝し気に名前を呼ばれる。だけど今の俺はそれどころじゃない。
喉が張り付く。口の中が乾く。剣を握る手が震える。息が乱れる。変に動悸が激しくなる。
クスクス笑うその姿を捉えて、やはり考え違いかと思いたくなる。あんな笑い方はしない。もっと明るくて、周りを元気にしてしまうような、そんな笑い方だった。
一度出てしまった可能性を確かめたくて、奴の言葉を待った。
違うのだと。奴は違うのだと。そう思いたくて。
でも、俺のそんな願いは見事に壊された。
『ここで貴様ら全員、殺してくれるわ!』
奴の口から吐き出されたその声は、紛れもなく、彼女のものだった。
「リラン…」
「え?」
「お前…リランか…?」
俺の言葉に、隣にいるサネルガはもちろんのこと、団長や近くの仲間たちにも聞こえていたらしく、息を飲む音がした。みんなの間に動揺の気配が走るが、俺の発言に驚いたのは仲間だけではなかった。
風の中心にいる奴が、俺を凝視してくる。吹き荒れていた魔力風がピタリと止む。
俺はもう一度、呼び掛ける。
「なあ…リラン、だよな…?」
『リラン…?』
「その声は、リランだろ…?」
間違えるはずない。村を出てから一度も聞いていなかったが、村で誰よりも近くにいて、誰よりもその声を聞いていた。記憶の中でも霞むことはない、彼女の声。
目の前の、倒さなければならない襲撃者の声が、リランのそれだった。
俺の戸惑う視線を受けた奴は再び笑った。今度は、ニコリと。
『知らんなあ?』
奴は否定した。だけど俺は確信した。
こいつは、リランだと。
「おいアヴィスト! 何言ってんだよ? どういうことだ?」
俺の肩を揺さ振り、サネルガが問い詰めてくる。俺は魔女──リランから視線を横の男に移し、説明しようと口を開く。
しかし、それよりも早く、彼女が動いた。
『何を言っておるのか理解できぬが、まあ良い。そろそろ再開するかの、虫けらども。この中で厄介な奴はそこの団長殿と若き副団長殿、それから妾に一太刀浴びせてくれた貴様じゃ。貴様らを殺せば、即ちこの戦いの勝利は妾のものということじゃ!』
彼女が魔術で氷の刃を作る。その数に団長やサネルガたちが緊張を帯び、攻撃に備えて構える。殺気を向けられた俺の身体は反射で剣を構えた。
『まずは貴様からじゃ!』
そう叫んで放たれた氷刃の照準は、俺だった。
サネルガが俺の前に防御魔術を張ろうとし、団長がこちらへ駆けて来るのが見えたが、相手の速度の方が速かった。全てを躱すことはできないと思ったが、急所を守ることはできるだろうと剣を振るう。…否、振ろうとした。
俺の目の前で氷刃が突然軌道を外れ、身体の左側へ逸れて地面に突き刺さった。
何が起きたのか理解できない。それは俺だけじゃなくて、俺を守ろうとしてくれたサネルガも団長も、仲間たちも同様で。放った本人でさえも、目を見開いて驚愕の表情をしていた。
「なんだ…? 今…」
「攻撃が、外れた?」
「でも確かに、アヴィストを狙って…」
みんなの視線が彼女に集まる。全員の注目を浴びた本人は、しかし、自分の掌を呆然と見つめていた。その顔は、訳が解らないと言っている。
『何故…? どうし……っ!?』
突然、胸を押さえて苦しみ出した。意図しなかった攻撃の軌道変化に呆然としていた表情が、苦渋に歪んでいる。
「急にどうしたんだ!?」
「魔術士、何かしたのか!?」
「俺たちは何もしていないぞ!?」
「じゃあなんで…?」
彼女の様子の変化に戸惑いが生じる。彼女を倒す最大のチャンスにもかかわらず、誰もがそのことを忘れて彼女を見る。俺も、その一人だった。
ザワザワと困惑の空気がこの場を占める中、その声は、掻き消されそうなほどに弱かった。でも、俺の耳はそれを拾った。
「アヴィ…ス、ト…」
はっと息を飲む。痛みに耐えるように、喘ぐように紡がれた声の主は、目の前で苦しむ彼女だった。両手で胸を搔き毟り呼吸すらも苦痛だというような状態なのに。今言葉を発さなければ死んでしまうとでもいうような様子で、俺の名前を呼ぶ。その声は、やはり彼女のもので。
「リラン?」
「はっ………ア、ヴィ…っ」
こちらを見る彼女の瞳の、黒い瞳の中に、記憶の中で色づく春を閉じ込めた色が見えた。黒に塗り潰されそうになりながらも、弱々しく、でも確かにその光を灯している。
「なんだ……? 魔女の魔力とは違う、別の魔力が存在している…?」
サネルガが隣で何か呟いていたが、俺には目の前の存在にしか意識に入っていなかった。
「リランだよな? お前、どうして…」
「アヴィスト……」
俺の言葉を遮るように、リランが名前を呼ぶ。そして、苦しそうにしながらも俺の方を真っ直ぐ見つめ、口を開く。
「……殺して………」
一瞬、何を言っているのか解らなかった。
「え…?」
「私を…殺、し…て」
二回発せられた同じ言葉に聞き間違いではないことを知った。自分を殺せと。死を願うその言葉は、俺の耳に張り付いた。
「お前…何、言って…」
「お願……私が、押さえてる…間に…っく!」
「リラン!」
リランが一際強く苦しんだかと思うと、
『くそ…まだ消えていなかったのか…!』
苦渋の中に悔しさを含んだ声音で、リランの声で、リランとは別の者が話す。
『早う消えよ…! お前は、必要ないのだ…!』
暴言を吐くその姿は、俺たちに向けているのではなく、自分の中に言っているように思えた。
何がなんだか意味が解らない。先ほどまで話していたのは、確かにリランだった。俺の名前もちゃんと呼んだ。だけど、同じ声なのに今目の前で吐き捨てているのは“魔女”だった。魔女はリランなのか? リランが魔女なのか? でもそれなら、何故俺に自分を殺せと言ってきた? それに、リランの言葉と、今魔女が口にした言葉は…?
彼女の突然の変容に、彼女以外の者が困惑する。
彼女は俺たちのことを忘れているようで、独りで言葉を発し続ける。
「させ…ない…! あんた、なんかに…!」
『黙れ…! お前は要らないのだ! 消え失せよ…!』
「嫌、よ…!」
『この…っ!』
彼女の瞳が、黒と春色に明滅している。全てを飲み込む色に、リランの色が必死に抗っている。そして、一際強く春を彩る色が光を放つ。
「もう、これ以上……殺させない…!」
胸元を握り締めながら、彼女は言う。痛みに耐えながら、口を動かす。
「私の身体で…人を…」
ギリリと唇を噛み締め、俺を見る。その表情が、泣き出しそうに見えて。
「彼を、殺させない…っ!」
そう言った瞬間、彼女の口から夥しい量の血が吐き出された。ゴポリと溢れ出た赤を見て、一気に血の気が引いた。
「リラン!」
「待て、アヴィスト!」
駆け寄ろうとした俺をサネルガが引き留める。
「放せサネルガ! リランが…っ!」
「落ち着けよ! 無闇に近づくなって!」
「だけど…!」
サネルガの拘束を振り切ろうとしていると、俺たちの前に一つの影が覆った。次いで、剣で何かを弾く音が聞こえた。
「何してんだ、お前らは」
「団長…」
振り向いたのは団長だった。どうやら俺たちに攻撃の手が迫っていたらしい。
「状況を把握できずに今まで反応できなかった俺が言うのもあれだが、敵から目を離すなよ」
「すみません……ですが」
彼女は敵じゃない、と言おうとしたその時。空を劈くように叫び出された女の声が、耳を貫いた。
『この身体は妾のものじゃ…! もうお前のものではない!!』
振り上げられた右腕の先に、巨大な魔力の塊が形成されていく。血を吐きながらも鬼気迫る表情で未だ俺たちを殺そうとしてくるその瞳は、黒だった。その魔力は妙に形が整っておらず、掻き乱されているように感じた。まるで、二つの相反するもの同士が対立しているかのようで…。
「全員防御態勢! 攻撃に備えろ!」
団長が叫ぶ。俺も反射的にその指示には従うが、心の中では素直に従えなかった。リランがそんなことするはずがないと、ずっと主張する自分がいる。彼女は優しい人だから。誰かを傷つけるなんて行為は、できるはずがない。
魔力の集合体は、やはり荒れ狂ったままその大きさだけを拡大させていく。このままそれが放たれれば、俺たちはおろかこの街全てが消されるだろう。団長や騎士たちは覚悟を決めた表情で彼女と魔力の塊を見つめる。魔術士たちが必死に対抗すべく、できる限りの防御魔術を組み立てていく。俺だけが、他の仲間たちと違うことを思っている。
サネルガも、防御の魔術を組み立てているのだろうと思い、チラリと隣に目をやる。
「…なあ、アヴィスト。あの子、お前の知り合いなんだよな?」
「は…? 何を…」
「いいから。答えろよ」
「…そうだ」
真剣な瞳で彼女を見つめる彼は、どうにも他の魔術士たちとは違う魔術を組み立てているようだ。ただの勘違いかもしれないが。
サネルガの言いたいことが解らず、困惑する。一体何が言いたいのか?
「お前、あの子を助けたいか?」
その問いの意味は、よく解らなかった。だけど俺は迷わずに答えた。
「ああ。もちろんだ」
俺の答えに満足したのか、サネルガはニッと口角を上げて笑うと彼女に向けて魔術を放つ。周囲の騎士や魔術士たち、団長でさえも彼の行為に目を瞠った。魔力を集結させているところに魔術を当てると、どんな現象が起こるか予測がつかないからだ。仮に接触してしまえば、大爆発を引き起こしてしまうかもしれない。そんな危険が伴った行為を、魔術士団のナンバー2に就いている彼が知らないはずもない。これは彼が、そんな危険はないと確信を持って行ったものだと言える。
現に大爆発は怒らなかった。あれだけ狂っていた魔力の奔流が、サネルガの放った魔術によって収束され消滅した。
魔力を相殺されたことで、彼女の身体から禍々しい圧が消えた。サネルガを睨み付けるその瞳は、再び明滅する。リランが戻ってきた。
「アヴィスト、彼女の名前を呼べ!」
「サネルガ?」
「早く!」
サネルガに言われるまま、俺は彼女に視線を向け、その名前を呼ぶ。
「リラン!」
「ア…ヴィス…、早く…」
『くそ…っ』
「早く…私をっ…」
「リラン…!」
俺は泣きたくなった。彼女が、自分を殺せと言ってくる。そのことが言葉に表せないくらいに悲しくて。なんでそんなことを言うんだと。なんで、死ぬことを望むのかと。
二年前に村が襲われて。それを知って最初に思ったのが、リランのことだった。リランは無事なのか。怪我はしていないか。幼い頃から一緒だった彼女のことが心配で、逸る気持ちのままに馬を走らせた。変わり果てた故郷の姿に絶句したが、それでも彼女の無事を知りたくて村中を駆け回った。でも、そこに彼女の姿も遺体もなくて。それから二年間、消息の分からない彼女がきっとどこかで生き延びていると自分に言い聞かせてきた。村を襲ったのが魔女の可能性が高くて、その魔女が最近国を騒がせていて。奴を捕まえればリランの生死が分かると思った。捕まえて、リランのことを聞き出して、その後に殺せばみんなの仇が討てると、そう信じて過ごしてきた。なのに。
目の前に現れた魔女が、リランの姿をしていて。ずっと探していたのに。生きていると信じて、いつか会えればと思っていたのに。こんな、思いもよらない形で彼女と再会するなんて。それだけじゃなくて、彼女は死ぬことを、俺に殺されることを望んでいて。
──こんな最悪な再会の仕方は、望んでなかった。
思わず言葉が詰まり、唇を噛み締める俺に叱咤の声が落ちる。
「呼べよアヴィスト! 呼び続けろ! もうすぐ魔術が完成するから! お前の大事な彼女を引き出せ!」
「何をする気だ…?」
「彼女を戻すんだよ! たぶん、彼女の中に魔女がいるんだ。その魔女を彼女の中から追い出す!」
「!?」
「そのためには彼女の人格を保っていることが必要だ! だから、呼べ!」
サネルガの言葉に背中を押されるように、俺は彼女に向ってその名を叫んだ。
「リラン! しっかりしろ!」
「アヴィスト…っ」
「そうだ! 俺だ! リラン!」
「ア、ヴィス…ト…っ!」
「負けるなよ、リラン!」
『だ…まれ…! 虫けらの、分際で……がはっ!』
ボタボタと新たな血が吐き出される。ヒューヒューと乾いた呼吸音が聞こえる。眉を寄せ、歯を食い縛り、俺を睨む瞳は依然として黒と春が順番に現れる。リランが、戦っていることが見て解る。
サネルガはまだなのかと、焦りが気持ちを支配する。必死になってリランの名前を呼び続け、彼女を引き出す。俺はここだと。お前が呼んでくれる限り、俺はそれに答える。だから、負けるな。
「準備、完了! みんな退いてろ!」
額に汗を浮かべたサネルガが、両手を前に突き出す。すると彼女の周りに何重もの光の輪が現れ、その身を拘束する。四肢の自由を奪われ動きを封じられたその姿は空中に磔にされたようで。拘束から逃れようともがくたびに、その身体に幾つもの傷を作っていく。ピシリ、ピシリと皮膚が裂ける音がする。
やめろ、と。それ以上、彼女の身体を傷つけるな、と。俺の心がそう叫んでいる。ただでさえ、たくさん血を吐き出したんだ。これ以上彼女の身体から命を零さないでくれ。彼女の身体を赤く染めないでくれ。
これ以上、彼女を苦しめないでくれ。
暴れ出す彼女を封じる俺の友は、突き出した両手を横に持っていき、ゆっくりと一つ息を吐いた。肩が上下に動いているところを見ると、相当な魔術を行使しようとしているらしい。
「待たせたな。さっさと彼女の身体から出て行け、魔女よ」
ニヤリと白い歯を見せて笑うと同時に、彼女の足元の地面に巨大な魔術陣が浮かび上がった。陣は光を帯び、その強さが段々と強まってくると、彼女がこれまでにないくらいに苦しみ出した。
『やめろ! 放せ! それを使うな!』
「うるせえな! お前はさっさと消えろ!」
『これは妾のものじゃ!』
「っ、ふざけるな! お前のものじゃない! その身体はリランのものだ!」
最後の悪足搔きとでもいうように、魔女はより一層激しく抵抗する。それによって生み出される傷に怒りを覚え、俺は激高した。何がお前のものだ。それはずっとリランのものだ。誰も奪ってはならない、この世に生まれた時からリランただ独りのものだ。
早く返せ。
リランを、返せ。
『やめろ…っ! くそ! 覚えておれ小童が!』
血を撒き散らしながら、魔女は叫ぶ。憎しみを込めた表情で、怒りを込めた瞳で、俺たちを睨みつける。
『妾は消えぬ! 妾は必ず戻って来るぞ! 長年の望みを叶えに、貴様らの前に戻って来る! そして必ず殺してくれるわ! 貴様らの腕を千切り、足を捥ぎ、首を刎ね、内臓を抉り出してやる! あらゆる苦痛を味わわせ、許しを乞いたくなるほどに痛めつけてやる! 覚えておれ、この屈辱は晴らさせてもらうからな!』
リランの身体から、黒い靄のようなものが引き摺り出される。そして、置き土産だとでもいうように、リランの顔でにたりと気味の悪い笑い方をすると、最後に言い放った。
『その時まで、せいぜい腕を磨いておくことじゃなぁ!』
リランに纏わり付いていた靄が、一瞬にして消え去った。そこに残されたのは、ダラリと力の抜けた身体を拘束されたままのリランだった。
「リラン!」
俺は彼女に駆け寄った。そのタイミングでサネルガが拘束の魔術を解除する。支えのなくなった身体は重力に従って落下するが、俺はそれを受け止める。目を閉じて意識を失ってはいるが、息をしていることが確認できた。そのことにホッとするも、受け止めた際に分かったその軽さに、そっと抱き締めて分かったその小ささに何とも言えない感情が沸き上がった。こんなにも、今にも消えてしまいそうなほど彼女は儚かっただろうか。かつて、村で俺の腕を引っ張ってくれた彼女の手は、こんなにも細くて頼りないものだっただろうか。
顔に付いた血をそっと拭い、彼女の血ごとこの手を握り締める。
何が騎士団の一員だ。幼馴染み一人救えずに、何が騎士だ。俺は、この目の前で消えようとした彼女を守るために、剣術の腕を磨いたんじゃないのか。それなのに、彼女がこんなになるまで何もできずに、殺せと願ってしまうほど追い詰められてしまうまで見つけることができずに、俺は今まで何をしていたんだ。
「アヴィスト、聞きたいことは山ほどあるが、取り敢えずその子を診てもらおう。そのままだと死んじまうかもしれねえ」
自分の不甲斐無さに歯を食い縛っていると、後ろから団長の声が聞こえた。
「……はい」
「よし。ついでにサネルガの野郎も連れて行け。あんな大技、一人でやるからぶっ倒れるんだよ…全く」
団長の言葉に振り返ってみると、地面に仰向けに倒れているサネルガと、彼を心配して集まった魔術士団員たちの姿が見られた。サネルガが片手をヒラヒラと振っているところを目にすれば、意識を失っていないことも命の危険もないことも確認できる。ただ魔力の枯渇と疲労で立っていられないようだ。
奴には感謝しかない。リランを救ってくれた。あのままだと俺たちが死ぬか、魔女に乗っ取られたままリランが死ぬかしか選択肢はなかった。リランの中から魔女を追い出し彼女を取り戻すことができたのは、サネルガの機転のおかげで。終わった後に倒れてしまうほどの魔力を使ってまでして、俺の大事な幼馴染みを助けてくれた。本当に、感謝の言葉だけでは物足りないくらいだ。
俺はリランをそっと抱えて立ち上がり、サネルガの許へと向かった。
こうして、国を騒がせた一連の事件はほんの少しの間だけ、なりを潜めた。