3.sideリラン
『もうすぐ…もうすぐ王都じゃ! 長かった……ずっと、ずっと待っていた…!』
新しい街に入って四日が経った。アミュータという、比較的商業が盛んな街のようで人で賑わっていた。人通りの多い道から一つ脇に入った薄暗い路地の片隅で、さっきから“それ”は興奮した様子で声を押し殺してクツクツ笑っていた。村から出たことのなかった私には王都がどの辺にあって、ここが王都に近いのかよく分からなかったけれど、“それ”が言うには王都のすぐ側まで来ていることは理解した。それと、凄く王都に行きたかったってことも。王都で何をしたいのかは分からないけれど、今までの行いから良くないことっていうのは解る。もしかしたら王都を襲うのかもしれない。これまでしてきたように、たくさんの人を殺して、王都を血の海に変えるつもりなのかもしれない。
そんなの嫌だ。もう見たくない、殺したくない。それに、王都には、彼がいる。ずっと会いたかった。でも今は会いたくない。こんな姿を彼に見られたくない。あんなに会いたかったのに、会うのが凄く怖い。彼に会いたい気持ちと会いたくない気持ちが鬩ぎ合って、胸の辺りがぐるぐるする。反対色の絵の具を筆で乱暴に掻き混ぜているようで、気持ちが悪い。
私がモヤモヤした気持ちに気を取られていると、この口が小さく舌打ちするのが聞こえてハッとする。“それ”は被っているボロボロのフードを更に深く被り直し、建物の陰に隠れる。
『くそ……邪魔者が増えてきたな…』
どうやら街を見回っている騎士か魔術士から身を隠したらしい。誰かこっちを見ないだろうか。ここに人殺しの犯人がいると叫びたい。あんなに殺したし、村や町を壊したのだ。きっと噂…以上になっているだろう。その犯人がここにいるのだ。誰か見つけてほしい。……その場合、私の未来は死へまっしぐらなのだが。死ぬのは嫌だけど、これ以上誰かを傷つけたくない。また気持ちがぐるぐるしてきた。もう嫌だ、いろいろ。
『だが、警備の奴らが増えてきたということは、それだけ妾を警戒しておるということだ。ククク……あの腰抜けどもの怯えている姿が目に見えてくるわ…』
私が独り悶々と考えを巡らせている間にも、“それ”はどこか楽しそうにしている。血に飢えた獣のように“それ”が興奮する様子に、ゾクリと寒気がした。何か良くないことを考えている。そのことがはっきり感じ取れる。私の中で警鐘がガンガン響いている。何をするのか考えたくないけれど、止めなければ。
でもどうやって? 私の身体は言うことを聞かない。過去に抵抗し過ぎたのか、自分でも自覚できないほど精神が疲れ切っているのか、分からないけれど身体の支配権を取り戻すことが難しくなっている。どうしよう。何か策はないのだろうか。もともと頭は良くないのだ。“それ”の計画を阻止するための策なんて考えつかない。私はどうすればいいの。焦る気持ちだけがどんどん増幅する。
『ククククク……そろそろ、始めるかのう…?』
にたりと、“それ”が笑った。
その瞬間、内側の私に掛かる圧が重くなった気がした。私はそれを感じながら、始まってしまったと、また何もできなかったと失望感に苛まれた。ごめんなさい、と、その言葉だけが胸の内に声もなく零れた。
逃げて、という言葉すらもう出てこなくなった。
“それ”を中心に、半径一キロメートルの範囲にあった建造物が魔力破によって崩壊した。窓ガラスが一瞬で破裂し、壁は跡形もなく消し飛んだ。爆風に巻き込まれて倒れ込む者も少なくない。今の一撃で怪我をした人、最悪命を落としてしまった人もいるかもしれない。
突然の出来事に人々は悲鳴を上げて逃げ出し、事態の解決に向けて動き出す騎士と魔術士の連携を図る声で、アミュータの街は混沌の地へと化した。
『クハハハハ! さあ、祭りの始まりじゃ! 叫べ! 叫べ叫べ叫べぇ! それが貴様らの最期の言葉じゃ!』
狂ったように叫ぶ“それ”。いや、狂ったようにではなく、もう完全に狂っている。魔術を使って空中へ飛び出し、逃げ惑う人々の姿を見て笑う。恐怖に支配された街の中で、“それ”だけが、独り嗤っている。“それ”だけが、この状況を愉しんでいる。これを「狂っている」と言わずして、なんと言う。
「住人を逃がせ! 早くしろ!」
「手の空いている奴はこっちに回れ!」
「配置に付け! 急げ!」
「これ以上、被害を広げるな!」
「結界魔術を張ります!」
「誰か団長に知らせろ!」
「俺が行く!」
「任せたぞ!」
騎士と魔術士の怒声が響く。街の住人を守ろうと奔走する彼らの姿を見ながら、“それ”はフードの下でクスクスと笑っている。無駄なことをしていると、嘲るように。必死になっている姿が、滑稽だというように。薄気味悪く笑っている。そんな“それ”に私は嫌悪を感じ、笑っている身体が自分のものであることに悔しさを覚えた。人が頑張っている様を笑うなんて、許せない。
やっぱり、“それ”の企みを止めなくちゃ。私がやれれば一番だけど、一人でできる自信がない。それができなかった場合の保証を請け負ってくれる誰かが欲しい。誰か、“それ”を止めてくれる誰かが…───。
「団長!」
騎士の一人が叫んだその言葉にハッとする。同時に、私は一縷の希望を見つけたと思った。団長、と呼ばれる人物ならば、きっと強いに違いない。もし私が止められなかったその時は、この団長さんが止めてくれるのではないか。そんな思いが沸き起こってきた。
騎士の声が“それ”にも聞こえたのだろう。そして、団長と呼ばれるその人に興味を持ったのかもしれない。ゆっくりと、その人物の方へ視線を向ける。
「おう! 待たせたな! 住人の避難誘導、よくやった!」
「はっ!」
「それで、襲撃者はどこだ!?」
「あそこです!」
“それ”に対峙している騎士や魔術士たちの後ろから、新たな騎士たちを引き連れて来た体格の良い男が、視界に入る。騎士が敬礼を向けていることから、彼が団長であることは容易に理解できた。如何にも幾つもの戦場を乗り越えてきましたといった風貌のその姿を見て、私の期待が膨らむ。彼ならば、きっと…。
私の気持ちとは別に、“それ”はニヤリと口角を上げた。いい獲物を見つけたとでも言うように。
『ほう……妾を楽しませてくれそうな奴が出てきたようじゃのう…?』
こちらを指差す騎士に倣い、団長の瞳がこの身を捉える。僅かに眉を寄せたのは、フードで顔が見えないからだろうか。笑っている口元しか明瞭に把握できていないはずだ。だから、余計に印象を悪くする。それが狙いでもあるだろうが。相手に得体の知れないものへの、無意識の恐怖を煽るために。
「あいつか…?」
「はい、あの者からかなりの魔力を感じます。それも禍々しいものを」
魔術士の一人が緊張気味な声で、団長の呟きに答える。その言葉に、表情を険しくする団長。
『ククク…その者は優秀な魔術士なんだのう? 妾の魔力を捉えるなどと…大したものじゃ』
艶めかしい声色で、賞賛の言葉を発する。ただし、そこに純粋な称えは存在していない。望んでもいない“それ”からの賞賛をもらった魔術士は、ビクリと肩を強ばらせた。だけどそれも一瞬のこと。すぐに臨戦態勢に戻る。
上空から自分たちを見下ろす姿は、気持ちの良いものではないだろう。こちらを睨みつける目には、怒りと憎しみの色が宿っている。この中には、恐らく今までの“それ”の所業によって親しい者を殺された人もいるのだろう。故郷を壊された人もいるのだろう。
“それ”がやってきたことは、許されないどころか憎まれることだ。それは当然理解しているし、私自身も自分の身体を使われたことに怒りを感じている。彼らの気持ちを理解できるからこそ、“それ”に向けられる憎悪の感情が、私に向けられているように感じて辛い。
でも、だから、贖罪じゃないけれど、私がここで“それ”の計画を阻止できたならば。少しはこの苦しみから逃れられることができるだろうか。この辛さを多少は小さくすることができるだろうか。
『だが、まだまだじゃ。まだまだ足りぬよ。妾を止めることはできはせぬ。お前も、その団長という奴にもなぁ!』
その瞬間、“それ”が魔術を弾き出した。黒い刃が自分を囲う人たちを襲う。突然の攻撃に反応できた騎士は、そう多くはなかった。魔術士たちもなんのモーションもなしに魔術が使えるとは思わなかったのか、警戒していたにもかかわらず反応が遅れ、仲間の騎士どころか自分自身への防御もままならなかった。たった一撃で、多くの戦士が負傷した。団長や一部の騎士は攻撃を免れたが、負傷する者の多さと“それ”の魔術操作の力量に驚きを隠せないらしい。彼らの間に動揺が走る。
お願い、怯まないで。私が失敗した時に、頼れるのは貴方たちしかいないから。私が“それ”に負けた時、この国の人たちを、貴方たちの大切な人たちを守れるのは、誇り高き王宮仕えの貴方たちしかいないから。災いを蹴散らせる最後の砦は、貴方たちなのだから。
“それ”を止めるために、どうか。
心を挫けさせないで。
「怯むな! 陣形を整えろ!」
動揺から一早く戻ったのは、さすがと言うべきか、団長だった。彼の声を浴びた部下たちは、ハッと我に返るとすぐに剣を構えた。魔術士の者たちは“それ”の一挙一動を見逃すまいと、いつでも魔術を使えるように構える。私にはそれがとても頼もしく思えた。まだ彼らは諦めないでいてくれる。絶望せずにいてくれている。
『はっ…! 無駄なことを! 貴様らでは妾に敵うはずがなかろう!』
叫び、右腕を振り上げる。すると、それに従うように地面が隆起し騎士や魔術士を飲み込もうと襲い掛かる。彼らはバランスを崩しながらも体勢を整え、各々の武器を携え掲げながらこちらに向かって来る。敵意を剥き出しにしながら幾人もの騎士たちが剣を振り翳し、魔術士たちが拘束しようと魔術を操る。連携の取れた戦術を駆使して、敵を倒そうと戦う。
それでも。“それ”は、まるで踊っているかのように魔術士たちの拘束魔術から逃れ、騎士たちの剣術を躱す。ゆらりゆらりと、空中を蝶のように舞い、隙あらば攻撃を仕掛け相手を薙ぎ払う。たった一人の敵に、この国屈指の戦闘員たちが翻弄される。一太刀どころか掠り傷すらも付けられない。彼らの表情から、身体的にも精神的にも疲労が蓄積されていくのが見られる。
彼らが頑張っている。これ以上被害を出さないためにも、帰るべき場所を壊されないようにするためにも。そして、誰かの大切な人を亡くさないためにも。誇りを懸けて、自分の命を削ってまで、守るために戦っている。
だから、私も。彼らばかりに負担は掛けられない。彼らに頼り切ってはいられない。他力本願のままではいられない。私も、やらなきゃ。
たとえ、この身がどうなろうとも。
たとえ、それで私が死んだとしても。
『ハハハッ! いいぞ! 足掻け! 生にしがみ付け! そうして妾に殺されろ! 守りたいものを目の前で壊されながら死んでいけぇ!』
街を壊しながら、彼らを傷つけながら、尚も“それ”は魔術を巧みに放つ。たった一人で数十人を相手に取り、それでも疲れは一切感じられなかった。
私は“それ”の魔力を“中”から探した。前にやった時は上手く入り込めずに終わってしまったけれど、今回は悟られないよう慎重に探す。探し出し、少しずつ私の支配下に置けるように試す。身体の支配権を取り戻すことよりも魔術の方をどうにかした方が、被害は抑えられるんじゃないかと、そう考えて。
今、私がこうして“それ”の魔力に干渉しようとしている間にも、騎士や魔術士の人たちは傷ついている。血を流している。そのことに罪悪感と焦燥感が募るが、今はそれに気を取られる訳にはいかない。“それ”は目の前の敵に注意を向けていて、“中”で私が抗おうとしていることなんて思ってもいないはずだ。だから集中しろ。魔力を探し出すことだけに意識を向けろ。ここで終わりにするんだ。もう私の身体で街を襲わせない。人を殺させない。守りたいもののために戦う彼らを、これ以上傷つけさせない。私が、終わらせてみせる。
そう決心した時。蜘蛛の糸を掴むように、私は漸く“それ”の魔力を捕らえた。
『虫けらどもが、妾の前に立ち塞がることは許されぬ! 妾を恐れよ、妾に従え! さすれば、王を殺し、王族を滅ぼし、妾が新たに作る国に仕えさせてやろう!』
ブワリと、“それ”の魔力が膨れ上がるのを感じた。対峙する魔術士はおろか騎士の人たちも、“中”にいる私でさえ驚愕するほどの魔力を感じた。やばい、と本能的に思った。まだ“それ”の魔力の端を掴んだだけで、干渉し切れていない。このままだとみんな死んでしまう。また大勢の命を奪ってしまう。そんなのは嫌だ。でもこの魔力の流れは止められない。あと少しなのに。あとちょっとなのに…!
私を含め、そこにいる全員がこの後に起こるであろう惨劇を覚悟した。命の危機を感じ取った。
その時。
「誰が! お前なんかに仕えるか!」
叫び声と共に、魔術の砲撃が空気を裂かんばかりにこちらに走って来る。攻撃に使うために高められた“それ”の魔力が防御に回り、霧散する。“それ”は高揚していた気分から一転、無感情のまま邪魔をしてきた魔術の使い手の方に目を向ける。
そこには魔術士団の団員が着る制服に身を包み、深緑色の短髪の若い青年の姿があった。
「副団長!」
魔術士の一人が彼の役職名を呼ぶ。声音に安堵が薄っすらと含まれていた。
「役名で呼ぶな阿呆!」
先ほどまで疲れを滲ませていた魔術士たちのその表情が、縋る先を見つけたかのように明るくなる。副団長、と呼ばれた青年は、希望を含んだ声の主に怒鳴りつつも、“それ”から視線も意識も離さない。鋭くこちらを見据えている。
『……誰じゃ、貴様は』
不機嫌さを隠さず、苛立つままに突然現れた彼へ向けて“それ”は問う。
「王宮仕え魔術士団副団長、サネルガ・アーチスだ」
『ほう…副団長殿か。若いのに大したものじゃな』
「お褒めに預かり光栄だ、魔女殿」
皮肉に歪んだ口から発せられた賞賛の言葉に、青年副団長は皮肉で返す。ピクリと“それ”が反応する。
『…その名で呼ぶな、小童が』
「はっ! あんたはこれから、その小童にやられるんだぜ」
『笑止。貴様如きに妾が倒せるというのか? 寝言は寝て言え』
“それ”──魔女は、再び魔力を練り始める。私は慌てて魔力干渉に意識を戻す。あの青年は魔力を練っていない。このまま魔女が魔力を放出すれば、彼は確実に死ぬ。彼の部下も彼を守るために魔術を行使しようとするが、如何せん今までの戦いで魔力を使い過ぎた。その速度は魔女の十分の一にも満たない。騎士たちの間にも緊張が走っている。
しかし、攻撃の対象となっている青年は、余裕の笑みを浮かべている。
「まさか。俺があんたを倒すなんてひと言も言ってないだろう?」
『何…?』
訝し気に青年を見た、その直後。
「俺がお前を倒す」
地獄の底から吐き出したような声と共に、背後から凄まじい殺気を纏った一人の剣術士が剣を振り下ろしてきた。
寸でのところで斬撃を躱したが、しかし、ローブは切り裂かれ肩には切り傷が付けられた。ジワリと滲んでくる血を視界の端に捉え、魔女は俯きながら唇を噛み締める。
「引導を渡すのは、俺だ」
ローブが外れたことで外界との隔たりが消え、フードの下に仕舞われていた髪が風に煽られる。ジクジクと痛み出す傷口を押さえ、魔女は怒りを露にする。ゆっくりと視線を持ち上げ、自身に傷を付けたその相手を睨み付けた。
だけど、私はそれどころじゃなかった。
その声の主を、私は知っていた。
記憶の中の声よりも低くはなっているけれど、間違えるはずはない。だって何度も聞いていた。すぐ近くで、何度も聞いていたのだ。その、彼の声を。
クリアになった視界の中心で、剣を構えて彼は立っていた。記憶の中にある十歳の頃の彼より随分と成長し、青年になった彼。肩まで伸びた青い髪を一つに結び、もともと整っていた顔は更に精巧になり、相手を真っ直ぐ見つめる瞳は、変わっていなかった。
あぁ、彼だ。ずっと、ずっと会いたかった彼が目の前にいる。優しくて、強くて、私の大好きな彼が、すぐそこにいるのだ。
嬉しかった。また会えて、嬉しかった。駆け出して、彼の名前を呼んで、抱きつきたい衝動にかられそうになるくらい嬉しかった。
だけど、それと同時に。
こんな再会は、望んでなかった。
一番会いたかった人に、一番会いたくなかった形で会ってしまうなんて。
一番会いたかった人に、一番見られたくない姿を見られてしまうなんて。
なんで。どうして。疑問の言葉ばかりが頭の中に浮かんでは消えていく。
目の前に立つ彼から、視線が逸らせなかった。
歓喜と絶望が同時に湧き上がり、私の中でごちゃ混ぜになった。この感情をなんと呼べばいい。この感情をどう表せばいい。この感情を、どう処理すればいいの。
私は泣き叫んだ。心の中で、泣き叫んだ。胸が引き裂かれそうに痛くて、どうしようもない感情で溢れていて。どうにもならない、どうにもできない状況を理解したくなくて。
やめて、と。見ないで、と。身体の支配権を取り戻せない私は、心の内側で声にならない声を上げて泣き叫んでいた。
ねぇ、神様。一体私が何をしたというの。私の何がいけなかったの。何が神様の怒りに触れたの。たとえ私が悪かったのだとしても、それでも、こんな仕打ちはあんまりだ。
私は、ピシリと自分の心にヒビが入る音を、聞いた気がした。