第7話 魔女の棲家とキス
「プリンできませんでしたよ」
識司に掴まってふらふら歩きながら、雨はまだ言い張っている。識司は雨を支え、逆の手にはビニール袋に入った雨の濡れた服を持って、うんうんと適当に答えた。
「でも雨さんが邪魔しなかったらできたんだよ」
「そんな条件つけてないもん」
子供みたいな言い方で雨がぷいと横を向く。髪がまだ乾かないので、寒くないようにスウェットの上にパーカを着せて、フードを被せている。だから識司から雨の表情はあまり見えないが、手に取るように浮かぶ。きっと不服そうな顔をして、でも識司が構うのをちょっと待っているのだ。可愛い。
だか、雨が何と言おうと、識司の中であのプリンの約束は今回はノーカウントだ。そういうことになった。だから、雨の要求も聞かない。
「今度から無理には食べさせませんよ。何が入ってるか雨さんが聞いて、俺が答えたら、必ずひと口食べるって約束してくれたら。食べておいしくなかったらそれで終わりにしていいし、どうしても食べたくなかったら何を使ってるか聞かなきゃいいんですよ」
そしたら食べられるかどうかわからないです、と雨は不満そうに言った。識司はうんうんと適当に答えた。
遅くなったので雨の家まで送るところだ。住所を聞いたらそんなに遠くなさそうなので、歩いて帰ることにした。雨は少し目は覚めたようだがまだ足元がふらつくので、自然と腕を組むような形で歩くことになった。時々識司が確認するとあっちだとかこっちだとか答えるが、言葉も少しふわふわしている。そして思い出したようにプリンのことを話す。かなり根に持っている。
識司はこのあやふやな雨を利用して新しい約束をすることにした。さっき提示した、使っているものを聞いたら必ずひと口食べる、という約束だ。
「いろいろ食べられるようになったら、一緒に駅前のお店に行けますよ」
識司は赤と黄色の看板が目立つ、外資系の飲食店名をあげた。色々な所でよく宣伝をしている。雨も興味があったらしく、少し考え込んだ。しかし、すぐ腕に頭をぎゅうぎゅう押し付けてきた。
「妹さんと一緒にしないで!」
識司はごめんごめん、と笑った。妹もそこに行きたがり、挽肉を食べるようになったのだ。でもやっぱり行ってみたいんだな。
「私は妹になりたいんじゃないんです」
雨はふくれている。これはもしかして、ちょっとやきもち?
「雨さんは妹じゃないよ。その、ええと」
肝心なところで識司は恥ずかしくなって言葉を詰まらせた。雨は足を止めてじっと識司を見た。少しとろんとした、しかし大きな瞳。
「ええと」
識司はますます緊張してしまう。雨は視線を外さない。識司はうつむき、小さな声で、彼女、と呟いた。雨が嬉しそうに抱きつく。識司は人目を気にして慌てた。駅前が近いので、人通りはまだ多い。
「ああ、そこです」
雨は突然目の前の建物にひょいと入った。識司の安アパートとは違う、オートロックのマンションだ。
「識司さん、せっかくですから少しお茶でもいかがですか」
識司が気後れして立ち止まると、雨がまた腕に掴まってきた。そう言えばお互いの話がまだあまりできていない。
でももう遅いし、ご家族が、と識司が躊躇すると、雨は人は私ひとりですから、と尚も誘った。ひとりなら尚更女性の部屋にこの時間には、と識司は思ったが、好奇心が勝った。
「少しだけ、いいですか」
「どうぞ」
雨は嬉しそうに識司の手を引いた。
玄関の扉も高級そうだな、と識司は思いながら雨が鍵を開けるのを見ていた。雨は扉を開け、先に暗い部屋に入った。続いて識司も入ると、ぱちっとスイッチを押す音がして明かりがついた。
その瞬間、かさっ、と、何かの気配がした。そして、何か、草というか、川原のようなにおいがした。
識司は不穏な感じがして思わず周囲を見回した。何のことはない、玄関前の廊下なのだが。
ただ、女性の部屋にしては少し殺風景な気がした。妹は自分のスペースどころか家中好き勝手にぬいぐるみやら雑貨やらを置いていた。この家には雑貨ひとつない。
雨がすたすた歩いていくので、識司も慌てて靴を脱いだ。雨は靴はきちんと揃えていた。意外だ。
「今お茶淹れます。癒しの効果が期待できるハーブティーです」
「雨さん、それよりワンピース干さないと皺になるよ」
識司が袋を見せると、雨は少し首を傾げた。
「明日クリーニングに出します」
「……洗ってあるよ」
「服はクリーニングしてもらうものではないの?」
識司は無言になった。
部屋に通された。椅子と小さな机がひとつずつ、タンスやクローゼットはなさそうで、窓際の壁に黒いワンピースが数着掛けてあった。その下にはいくつかの箱と、小さな台の上にタオルを畳んだものが数枚。少し離れたところに本が数冊散らばって床に落ちている。反対側の壁際に、服の下の箱より小さな箱が数個。この部屋にはそれだけだった。生活感がないと言うか、とにかく物がない。
早く干さないと、と部屋を見回すが、服を掛けられそうなのは窓際のワンピースのところくらいしかない。同じ所に干したら他の服が湿気てしまそうだ。
「かまいませんよ」
雨に確認すると、雨は隣の部屋からお茶のカップをひとつだけ持ってきて言った。わかっていないような気がするが、かまわないならいいことにする。余っていたハンガーを借りて、なるべく離して端に干した。
「服も家で洗えるんですね」
雨が感心したように言う。今までどうやって生活していたんだろう。識司は不安というか、心配になった。
雨はカップを机に置き、笑顔でどうぞ、と勧めて、自分は当然のように床に座った。
「あの、俺だけ椅子だと、何だか悪いよ」
「でも、椅子はひとつしかないんです」
「お茶も」
「ごめんなさい、カップもひとつしかなくて」
雨は困ったように答えて、うつむいた。
「ごめんなさい、お招きする支度もできていないのに」
識司はあわててそうじゃなくて、と雨の横に座った。雨は顔をあげて嬉しそうに微笑んだ。
「不思議な匂いのお茶だね」
「疲れが取れて、気持ちが穏やかになる組み合わせです」
多分雨好みのぬるいハーブティーは、どこか甘く、清涼感があった。確かに落ち着く気がする。
雨はずっと識司を見ている。家の中だからパーカは脱いでいいのに、フードを取っただけで羽織ったままだ。
何となく話すことが途切れた。識司はカップを床に置いた。ことり、と音がして、
またどこかでかさっと音がした。
「……」
雨は全く気にしていない様子だ。しかしかさかさする音は玄関より確実に近くで聞こえた。
例えば、あの、壁際の小さな箱の辺りで。
箱を凝視する識司に気付いて、雨が笑顔で説明した。
「ああ、あれは蜘蛛です」
「く」
「申し遅れました、私は魔女です。あの蜘蛛は薬の材料で」
スウェットの魔女が笑顔のまま話を続ける。識司にはもう何も入ってこない。
雨は不思議そうに識司を見ていたが、ふと立ち上がってワンピースの下の箱を開け、ごそごそしてから手帳のようなものを持ってきた。雨が箱を探る音に合わせるように反対側の箱もかさかさ鳴る。
「身分証です。お見せするのが遅くなってごめんなさい」
パスポートのようなそれを開くと、顔写真の貼り付けてあるページのいちばん上に、魔女登録証、と表示されていた。他のページは同じ内容を多国語で書いてあるようだ。本籍は隣の県のかまくらが有名なところだった。
そして、年が、妹より下だった。酒に慣れていない訳だ。識司は何だかショックを受けた。
お茶の残りを一気に飲み干す。動くと小さな箱がかさかさ鳴る。絶対1匹とか2匹とか、そういう数ではない。全く落ち着かない。
固まる識司をどう気遣ったつもりなのか、雨は蜘蛛はお好きですか、ご覧になりますか、と言い出した。
「もしご希望なら、その箱は」
雨は少し離して置いてある蜘蛛の箱の横の小箱を指し、
「蠱毒の真似事をしています。たくさんの生き物が入っていましたが、もう3日目なのでムカデが蛇あたりが生き残っているかもしれません。本当は開けてはいけないのですけれど、少しなら」
「開けないでください」
識司はようやく言った。雨は残念そうだ。
「では蜘蛛にしましょうか。いつもは乾燥したものを使うのですが、今回のご依頼は特別によく効くものとのことでしたので、生にしてみました」
「依頼……」
「私、お店は持っていないので、頼まれて薬を作ることが多いんです」
「どんな薬ですか?」
「今回は精力剤です」
「せ」
「他にも、媚薬や相手を支配しやすくする薬などもよく作ります。あ」
雨がそうだ、と言わんばかりの顔で識司を見た。薬を使うつもりか。蜘蛛の。識司は無言で首を横に振り、拒否を示した。雨は残念そうだ。
「識司さんの分なら、もちろんお金はいただきませんよ」
「雨さんの薬って、いくらくらいなんですか」
識司が興味本位で尋ねる。
「そうですね、魔法や材料でも色々違いますが、今回の精力剤は特別製なので」
1個十万、十個で百万円。
識司は唖然とした。そんなことにそんなにお金をかける人間がいるのか。
「俺、ひと月働いても3個買えないよ……」
「識司さんが必要なら、十個でも百個でも差し上げますよ」
雨は目を輝かせた。役に立てることが嬉しいようだ。識司の給料が安いことは見逃してくれるらしい。でも、本当はお金がよくわかっていないのかもしれない。しかしそんな特別製の精力剤が百個も必要な男が恋人でも彼女は構わないのだろうか。やっぱりよくわかっていないのかもしれない。
「薬草は隣の部屋にあるんです。少しだけならすぐですから、蜘蛛ひとすくい分だけ搾りましょうか」
雨が流れるように立ちあがろうとするので、識司はスウェットの端を必死に掴んだ。
「やめてやめて、俺は必要ないです」
雨はまた残念そうに座り直した。識司は改めて雨に正対し、尋ねる。
「雨さんは、魔女で、蜘蛛を飼ってる……?」
「飼ってはいません。無精で何でもすぐに枯らしてしまうんです、生き物なんてとても」
恥ずかしそうに雨は言った。
「本当は今日処理してしまうつもりでしたが、あなたに、会えることになったから」
かなり酔いが覚めた雨が美しく微笑む。蜘蛛がかさかさ騒がしい。いや、これは蠱毒の箱の方か。識司も改めて何かが醒める思いがした。
いや、こんなことで怯んで何が田舎の出か。こんな時に田舎の優位性を示せずどうする。実家の猫もテレビの裏に目を疑う程セミを溜め込んでいたではないか。
「蜘蛛、好きです」
識司は言ってのけた。実家でアシダカグモがその辺を通り掛かったことなど数え切れないほどある。ジョロウグモは害虫の番人だ。他にも蜘蛛の巣は年末になると何故か家の中にいくらでもあった。蛇もムカデもカエルもトカゲも共生していた。全てはこの日のために。
雨はそうですか、と笑顔になり、しかし逡巡して、ごめんなさい、と苦笑した。
「私、本当は蜘蛛はそんなに得意じゃないんです。逃げたのを踏んでも勿体ないし、鍋に移すときこぼれるとちょっと嫌で、魔法で箱に封じているんでしす。鍋で潰す時も、中身が」
「ごめんなさい、嘘つきました、本当にやめてください」
識司は降参した。想像したくもない。
「魔女は、嫌いですか?」
強い拒否を感じたのだろう、雨は小さく呟いた。あちこちかさかさし、スウェットを洗って返してもらったら撥水加工してありそうだし、他にも色々ありそうだけど、でも。
「好きです。あなたなら」
識司は言い切った。雨は識司を見た。識司は雨を見つめ、手を取った。今だ。
「キス、いいですか」
雨は目を丸くした。困ったように目を伏せ、戸惑っていたが、答える。
「はい」
識司は正座した。雨も真っ赤になった頬に両手を当ててうつむいていたが、姿勢を正した。
それでは、いざ。識司が息を整えて雨の両肩に手を添えようとした途端、
羽のように軽やかな感触が通り過ぎた。
雨が真っ赤になってもとの位置に戻り、うつむいている。識司は思わず雨の柔らかな唇が触れていった右の頬に手をやった。
そこじゃないんだけど。
でも、まあ、いいか。
識司は笑って、雨の頭を撫でた。雨も顔を上げ、恥ずかしそうに、でも幸せそうに笑った。その雨の頬に識司もそっとキスした。
焦らなくていいんだ。これからゆっくり。
スウェットはやはり識司が洗うことにして、雨には着替えてもらった。もちろん識司は廊下に出ていた。黒いワンピースの雨は、また一段と美しかった。ずっとこうしていたいけれど、明日もあるんだ。
別れ際、雨は少し寂しそうだった。識司も離れ難いのは同じだ。
「帰ったら電話します」
「あ……私、電話持ってません」
識司が驚いて、不便じゃない?と尋ねると、手紙か烏を使います、と雨は答えた。烏。
「明日は俺、仕事が多分遅くなるけど、会いたい」
雨は私も、と答え、一緒にごはんも食べたい、と言った。識司は少し考えた。クリームシチューなら雨も好きなのではないだろうか。聞くと、食べたことがないと言う。材料を説明しようとしたら拒否された。約束を覚えているらしい。
でも識司の時間が、会社に行ってみないとどうなるかわからない。待ち合わせをどうしようか迷っていると、雨は烏に伝えてください、と言った。
「魔女の雨に、識司さんからって」
「伝わるかな?」
「電話よりは時間がかかりますが、手紙より速いですよ」
当たり前のように雨が言う。雨がそう言うならそうなのだろう。
もう一度ずつお互いの頬にキスした。
「おやすみ」
「おやすみなさい。また明日」