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それでも無価値な復讐を  作者: 今井 初飴
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第6話 水浸しの魔女と洗濯が終わるまでの四十分


 銀幕でもなかなかないような美女にひたと見つめられ、識司はためらいながら、雨さん、と呼んでみた。雨ははい、と答え、恥じらって視線を外し、少し戻して微笑んだ。きれいだ。

 何故この人がここにいるのか未だに不思議でならない。昨夜べろべろに酔って美人と評判の占い師を見に行き、確かにきれいな人だと眺めていたらこんなことになった。

 識司は思う。物事には原因があり、そうなる理由があり、そして結果がある。つまり、この結果になった原因と理由。それが知りたい。納得のいかない幸運は不安で仕方ない。

 この美しい人なら、この程度の偏食やわがままなど玉に瑕ですらない。何が企まれているのか。何故好意があるかの如く振る舞うのか。いつ手のひらを返され、夢が醒めるのか。

 雨がただ美しいだけでなく、可愛らしかったり、ちょっと困った人だったり、あんまり無防備にステンドグラスを見上げていたりするのを見ると、そのたび心が奪われていく。雨が微笑むたび、それを向けられた嬉しさが、心の安全帯をもぎ取っていくようだ。

 ステンドグラスの前に佇む雨はあまりに儚げで、あの時識司は声も掛けられずにただ隣に立った。早く気付いてほしいような、永遠にこのまま2人で立ち尽くしていたいような。

 その奇跡のように美しい人が、自宅で、体温を感じるくらい近くに寄り添い、プリン液をカップに入る倍以上まわりに撒き散らしているのが信じられない。識司は嘆息する。4つ作るつもりが、ひとつ分あるかどうか。こんなに不器用なことってあるだろうか。

 雨はプリンがたまごと牛乳と砂糖、砂糖を焦がしたカラメルで作れることに驚いていた。どこかから収穫してきたプリンをカップに入れて封入したとでも思っていたらしい。たまごを割って見せると興味深そうな顔をしていた。煮詰めた砂糖が茶色く色づくのを驚いて見ていた。そしてたまごと温めた甘い牛乳を混ぜ、バニラエッセンスがないから香り付けにラム酒を入れて、金網で漉して、プリン液を作ったのだが。

 プリン液の海に立ち尽くした細い肩が震え、白い髪の隙間から見える耳が真っ赤になっている。雨にもこれはあまりにもひどいことがわかるらしい。

 これだけ、大事に作りましょう。識司は殊更ひとつだけということを強調し、雨がますますしゅんとする姿を楽しんだ。可愛い。絶対おいしいプリンを食べさせる。

 識司は湯煎の支度をし、プリンのカップを大事に入れた。専用の型はないから耐熱ガラスの計量カップだ。いつもより少し弱火で慎重に。雨は念のために着せた割烹着代わりの識司のシャツをプリン液だらけにしてしょんぼりしている。自分でも不器用なことをわかっていて、このくらいならとかって出た役目を果たせなかっただけにショックは大きいようだ。ぶちまけられたプリン液は識司が全て掃除した。

 だって、カップに小分けするためにプリン液を入れた小鍋、返す速さがテニスのサーブの時のラケットのそれだ。初手でプリン液はほぼ床を彩って終わった。思わず2人で声を揃えてあっと叫んだ。床を拭きながら思い出し、識司は笑いが止まらない。雨さんが火傷しなくて良かった。

「足、洗ってきたら?お風呂そっちだよ」

 プリン液だらけのまま雨がぺたぺた移動するので、識司はプリンの足跡を拭きながら追いかけるはめになった。扉が閉まる音に顔をあげると、雨の姿が見えなくなっていた。無事に浴室に続く洗面所に入ったようなので、そこから先は後回しにしよう。

 浴室の折り畳みの扉を開閉する音。識司はプリンがそろそろかと時計を見上げた。その時、浴室から悲鳴が聞こえた。

「何?どうしたの?」

 洗面所の前で声を掛けるが、返事がない。水の音は聞こえている。

「雨さん、大丈夫?雨さん」

「……大丈夫じゃ、ない」

 水の音に負けそうな声が聞こえた。識司は驚いて、しかし扉を開けるのに躊躇した。

「ええと、開けるよ?開けるからね?」

 何度も念を押して、識司は一応目を伏せながら洗面所に入った。人の気配はやはり浴室だ。周囲をちらりと確認したが、脱いだ服はなかった。良かった。また少しずつ視線を向けながら、浴室の磨りガラスの向こうが黒いことも確認する。

「雨さん、大丈夫?開けていい?」

 識司は声を掛けて、少し待った。返事がない。識司は再度声を掛けた。水の音に負ける小声が、早く、と言ったようだった。識司はもう一度開けるよ、と声を掛けて扉を開けた。

 雨は変な中腰で頭からずぶ濡れになっていた。ワンピースの裾をまとめて片手で握り、シャワーヘッドの吐出口を反対の手で押さえて、でもそんなことで水は止まらないからびしょびしょだ。

「……どうしたの」

「水、水が」

 半泣きの雨が悲鳴をあげる。識司はあわてて蛇口に手を伸ばした。水だ。

「ちょっと、ほんとに水じゃないですか!」

「冷たい」

 そりゃ冷たいだろう。識司は急いで蛇口を閉め、バスタオルを取ってくると雨をくるんだ。雨はがたがた震えている。ワンピースが体に張り付くほど濡れてしまった。着替えないと風邪を引きそうだ。

 識司は急いであたたかそうな服を探した。スウェットしかない。やむを得ない。替えのタオルも数枚持って、識司は浴室に戻った。

 雨は浴室で震えながら立ち尽くしていた。濡れた髪も服もそのまま、ショールのようにタオルを巻きつけて恨めしそうに識司を見る。

「タオルはそうじゃないよ、拭いて拭いて」

 識司は慌てて雨をタオルで擦りまくった。女の人だから、なんて躊躇していたらこの人は風邪を引く。もう引いているかもしれない。雨を浴室から引っ張り出し、乾いたタオルに換えてくるみなおす。

「着替えてください、風邪引くから」

 識司は雨にスウェットを渡して洗面所を出た。念のため前で少し待機すると、やはり小さな声がした。

「脱げない……」

 識司はまた開けますよ、と確認して扉を開けた。

 雨は背中のボタンを外そうとしていたが、長い袖が濡れて張り付き、思うようにいかないようだった。手が震えている。

 識司は触りますよ、と声を掛け、張り付いた白い髪を避けた。震えながら雨はおとなしくしている。濡れた白いうなじ。識司はあまり見ないようにしながら、なるべく体に触れないようにボタンを外した。すっかり冷たくなっている。3番目まで外すと下着が見えた。なかなかもういいと言われない。腰まで全て外した。伸縮性のない布のようで、雨はまだ動かない。識司は迷ったが、思い切って目を瞑りワンピースの背中を大きく開いた。

「これで脱げるよ!」

 識司さんは逃げた。

 台所は鍋の焼けるにおいがしていた。識司ははっとした。プリン!忘れてた!

 プリンはすっかり蒸し過ぎになってしまっていた。湯が全て蒸発して鍋が焼け、そのにおいがしたのだ。

 ああ、雨さんがっかりするだろうなあ。

 また作り直そうかと思ったが、もう牛乳がない。どうしようか思案しながら鍋を洗っていると、洗面所が開く音がした。

「雨さん、大丈夫……」

 白い顔をますます青ざめさせ、さえないスウェットを着て、雨が震えている。

「寒いです」

 識司は雨の髪がまだ濡れているので乾いたタオルを出してくるみ、机の前に座らせた。もう今使っている毛布しかないが仕方ない。押入れから出して雨をくるむ。

 雨はまだ寒そうに震えている。もう寒い季節ではないが、水を浴びるには早すぎる。識司は熱いお茶を入れた。

「飲んで、あったまるから」

 ティーバッグの紅茶だがこの際我慢してもらう。識司はカップを雨の目の前に置いた。

「熱いのいやです」

 もこもこと毛布にくるまり、震えながら雨が言い張る。識司はぷいと目を逸らす雨を見下ろし、腰に手を当てた。そして黙ってカップを取ると台所に向かった。

 程なく戻ってきた識司は笑顔でカップを雨の前に戻した。

「少しぬるくなりましたよ。飲んで、風邪引いちゃうから」

 雨は白い顔で不安そうに識司を見上げたが、嫌そうにカップを取って顔を近付けた。取手を摘むようにしていたのが包むような手付きになったから、温かいのがやはり嬉しいようだ。匂いをかいで、ちょっとだけ舌先でなめる。

 香りが甘い。舐めてみるとぴりっと辛いが、甘みが強い。あたたかいが熱くはない。苦いのは紅茶の苦味だろうか。

 雨はひと口飲んで、もう少し飲んで、ほうっと息を吐いた。

 飲んだのを確認して、識司は洗面所をのぞいた。予想通り、濡れたワンピースが脱ぎ捨てられている。おそらく木綿だ、洗濯機で洗えるだろう。もう洗ってしまって持たせよう。識司は洗濯機に一応ネットに入れてワンピースを放り込んだ。タオルも山ほど洗わなければ。それから、床もべたべだだ。

 洗濯機を作動させ掃除を済ませて識司が戻ると、雨は少しあたたまったのか毛布を肩から外していた。スウェットなのに何だか色っぽく見える。髪がまだ湿っているからだろうか。

 ようやく落ち着いた気がして、識司もようやく腰を下ろし、疑問だったことの経緯を尋ねた。

「べたべたの足を洗おうと思って、蛇口をひねったら水が降ってきて、止めようと思って押さえたけど止まらなくて」

 蛇口から水が出ると思ったのにシャワーに切り替わっていたので、上に固定していたシャワーヘッドから水が出たのだ。せめてお湯を出せばいいのに。いや、火傷しかねない。それより、蛇口を開いたんだから逆にひねって止めたらいいのだ。それができたならお湯を出すか。できないからとにかく出口を押さえて悲鳴をあげるというあの状況になったのだ。でも蛇口は閉められるだろう。開けたんだから。識司の思考は同じ場所を巡る。

 雨は話すうちに識司がなかなか助けにこなかったことを思い出したらしい。不機嫌になった。識司は思う。あの状況で、すぐになんか飛び込めるわけがない。最善は尽くした。

「あれっ」

 カップが空だ。

「雨さん、もう飲んじゃったの?」

 識司が驚いて声をあげると、雨は改めて思い出したようににっこりとカップを差し出した。

「あたたまりました、もっと飲みたい」

 おかわりできるようになったのは喜ばしいが、しかし。

 ほんのり染まった目元が妖しい。ごはんの時までの、きっちりと背筋を伸ばし、ぼんやりしていても近寄り難いようだった様子と違い、しどけなく見える。これは。

 酔ってしまっている。

 識司はまずい、と思った。お茶を冷まし体を温めるのにはちょうどいいと、さっきの紅茶に水ではなくラム酒を混ぜたのだ。香りを気にいっていたようだったし、まさかこんな短時間で飲んでしまうと思わなかったから、紅茶と同じくらいの割合で結構、たっぷりと。

 見る間に大きな目が半分になっていく。識司は慌てて雨を呼んだ。もうとろんとして眠たい顔になっている。

「雨さん雨さん、起きて、寝ないで」

「うん……」

 洗濯機がまだ動いている。このまま少し寝かせた方がいいだろうか。雨はもう毛布に埋もれて横になってしまいそうだ。

 雨さん、と識司が隣に移動して肩を揺すると、雨はひどく無邪気な嬉しそうな笑顔になった。そして突然識司の首に手を回した。思わず背中を支えると、雨は迷いなく体を預けて囁いた。

「プリン、できませんでしたね」

 頬に唇が触れてしまいそうな距離で、雨がそんなことを言う。識司の情報処理が追いつかない。

「いやなものはもう食べませんからね」

 雨は耳元でくすくす笑った。識司からは雨の顔が見えない。

 何だこれ、全部作戦なのか?識司は柔らかい雨の体を抱いたまま、無言で混乱していた。

 プリン液をこぼした手付き、やっぱりあんな不器用な人はいるはずがないのだ。その後のあれもこれも、全部、ここに至るための作戦か。つまり、プリンができないから、嫌いなものを出すなと。

 でも何かおかしくないか?やり過ぎだ。だいたい服のままシャワー浴びるか?浴びたとして普通すぐ止めないか?何でわざわざあんな無防備な背中を向けて俺にボタンを外させるんだ。嫌いなものを食べられて嬉しそうだったのに。

 じゃ俺か?手を出したら怖い男が飛び込んでくるとか。身ぐるみ根こそぎ持ってかれるとか。何を?お金?それなら一目でわかる安給料の集団からいちばん稼いでいない俺を選ぶはずがない。身なりのいい人など他にたくさんいる。自分でも知らないものすごい秘密を掴んでいる?そんな訳ない。騙しやすそうだという理由ならそうかも知れないが、俺ならこんな美人をわざわざ用意しなくても騙せるだろう。

 識司が考え込んでいるうちに、雨はいつのまにか向きを変えて、識司に背中を預ける形に落ち着いて眠っていた。見下ろすと、白い髪をすかして幸せそうに眠っている雨の顔が見えた。肩越しに回された識司の手を抱くようにしている。

 この人が騙す?

 識司は吹き出しそうになった。やっぱりありえないし、もしそうだとしても何も構わないじゃないか。そんなことを気にする暇があったら、せっかくこんな状況なんだから、堪能したらいいんだ。

 無駄な考えごとをしてせっかくの時を無駄にした。識司は少しでも取り返すため、腕に少し力を入れて、雨の頭に頬をくっつけた。雨が何か呟いたが起きなかった。

 洗濯の終了を知らせるブザーが鳴った。

 識司はそれでもしばらくそのまま動かなかった。

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