第5話 偏食のたまご好き魔女(2)
蓮野はスーパーに行くのは初めてだった。入ってみたかったが、品数や人の多さに気圧されて入れなかった。
自然と腕に掴まりながら大きな目を輝かせる蓮野を、識司は嬉しそうに見た。
たまごとケチャップ、他にもいくつか識司の明日からのごはんのための野菜や肉をかごに入れていく。
「飲み物はどうしますか?」
識司に尋ねられ、蓮野は悩んだ。冷蔵できる明るい棚に並ぶ極彩色の紙パック、瓶、その隣の棚の缶。あまりわからない。キョロキョロして見つけたのは向かいの棚。直方体の紙パック、白地に赤と緑の水玉の乳酸飲料だ。プロ野球の球団を持つ飲料メーカーの社名にもなる看板商品、ではない方。これは飲んだことがある。おいしかった。
「これがいいの?飲めるんですか」
蓮野ははい、とうなずいた。見つけて、買う。おいしいを想像しながらかごに入れて、お金を払って、ここではない素敵な場所に持ち帰る。
買い物って楽しい!
蓮野は嬉しくなって、掴んでいた識司の腕をぎゅっと抱きしめた。識司は少し恥ずかしそうにしていたが、ふいとその手を振り解いた。
えっ、と蓮野が識司を見ると、識司はここでちょっと待ってて、と言った。
「買い忘れたものがあったから、少し探してくる。すぐ戻るよ」
楽しい気持ちから急転直下、ひとり残されて、蓮野は泣きそうになった。幸い識司は蓮野の涙がこぼれる前に戻ってきた。
「ごめんね、お会計しよう」
蓮野はレジの婦人の巧みな指さばきに目を奪われ、滞りなく処理されるたくさんの品物に圧倒され、薄いビニール袋に入れるものと入れないものの何が違うのか考えているうちに会計は終わった。札と小銭を組み合わせて支払うとお釣りがジャラジャラにならないことを初めて知った。硬貨はどうしていいのか今までわからなかった。蓮野は部屋の隅の箱に無闇につっこんである硬貨を思った。あれは少しずつ持ち出して、こうして組み合わせたら良かったんだ。
識司が買ったものを白いビニールの袋に納めてしまうと、町でよく見る買い物帰りの人の姿になった。蓮野はそれを持ってみたくて、持たせてもらったら意外と重いのですぐやめた。識司が苦笑する。
識司の住まいはそこからすぐの、二階建てのアパートだった。鍵を開けるとすぐ台所と洗濯機。引き戸の向こうに小さなテレビと机があった。識司は荷物を片付けながら、蓮野を机の前に置いて、買ってきたばかりの紙パック飲料を渡した。蓮野は識司の顔と紙パック飲料を見比べ、もう一度見比べて、嬉々としてストローの袋を破ろうとして失敗して苦闘するところに識司が手を出す。ストローをさして渡すと蓮野は嬉しそうに飲み始めた。
蓮野は何となしに部屋の中を見た。狭いひと部屋の家具は最低限と思えるほど少ない。しかし小さいながら本棚があり、金属加工の専門書らしい本が並んでいた。家でも勉強しているらしい。贅沢でない生活ぶりが伺えた。
「ごめん、やっぱりスーツだと窮屈だから着替えるね」
冷蔵庫を開け閉めしていた識司が、突然部屋に戻るなり、ストローをくわえた蓮野の目の前で上衣を脱ぎだした。ネクタイを解いて、ベルトを外す。声に驚いてそちらを見た蓮野は仰天した。下を脱ぐまでには何とか背中を向けることに成功した。
「こんなところで着替えないで!」
蓮野が思わず叫ぶと、識司はパンツ姿でしばらくきょとんとして、真っ赤になった。
「ご、ごめん!つい癖で」
そう言いながらも着替える音がする。ひと部屋しかないし、この部屋にタンス代わりのプラケースが置いてあるのだから仕方ない。それはわかるが、それが初めて女性を自宅に招いた男性のすることだろうか。
初めてではないのかも。私はたくさんの候補の中のひとりに過ぎないのかも。会社の人はいないようなことを言っていたけれど、全部見ている訳ではない。決まった人がいないだけかも。だってこんな素敵な人、誰も放ってはおかないだろう。世間にはたくさんきれいな女の人がいる。私みたいな、陰気な白髪の女なんて。
布のばさばさという音がしなくなってもそちらに背中を向けたまま、蓮野は思った。
台所の方で色々な音がする。蓮野はやっと向き直って、開けっ放しの引き戸から見え隠れする識司の背中を見つめた。作業台の高さが合わないようだ。細長い背中を丸めて少し窮屈そうに見えた。くたくたのシャツの長袖を捲り上げている。普段はこういう服装なのだろう。スーツ姿もいいけれど、こちらの方が似合うと思う。急いでいるようには見えないが、よどみない動きは慣れを感じさせた。
「蓮野さん、退屈じゃない?テレビつける?」
しばらくして、識司が声を掛けに来てくれた。
「退屈はしていません。あなたを見ているから」
蓮野が言うと、識司はちょっと戸惑って、赤くなった。そして何か言おうとして言いあぐね、口籠もっていると、台所から香ばしい匂いがしてきた。
「あっ!焦げてる!ごめん、後で!」
識司は慌てて台所に戻って行った。
その後識司はちらちら背後を気にしてやりにくそうにしていたが、ついに煙がいくからとか何とか理由をつけて引き戸を閉めてしまった。
蓮野は部屋に残され、台所の音を聞いていた。退屈はしていない。何もしないことには慣れているし、この扉の向こうにあの人がいるだけで心が浮き立ち、嬉しさで苦しいくらいだ。
「お待たせ。できたよ」
しばらくそうしていると、識司が引き戸を開けて皿を持ってきてくれた。蓮野はわあ、と顔を輝かせて皿を覗き込み、
「……何ですか、これ」
不思議そうに識司を見上げた。識司は笑いをこらえている。皿の上には、小さな一口大の丸い黄色いお団子が3つ、ころんと置かれている。
「オムライスだよ。ケチャップごはんとたまごだけの」
思っていたのと違う。蓮野は躊躇した。いつもなら食べないのだが、今日は識司が作ってくれたから食べないといけない。でも。
「形が違うから嫌なんでしょ?」
識司が笑い出した。蓮野は戸惑った。わかってくれている、なのに何故。
「うちの妹が昔言ってた、食べたくない理由と同じだから」
識司には3つ下の妹がいて、仕事で忙しい親に代わってごはんの世話などをしていた。妹は小さい時偏食がひどく、ごはんと肉とお菓子しか食べなかった。それも、ごはんは決まったふりかけがなければいけないし、肉も薄切りならいいが挽肉は食べない。お菓子は銘柄もサイズもいつも同じもの。
「食べたくないんだもの、無理しなくてもいいじゃないですか」
蓮野が抗議すると、識司は笑って言った。
「子供はそうはいかないし、大人はもう仕方ないけど、でも、同じものを一緒に食べられると楽しいよ」
蓮野はお団子オムライスを見た。箸でつまみ、恐る恐る、渋々口に入れる。
「……おいしい」
思っていたよりおいしかった。ケチャップがしっかり効いている、甘いたまごのオムライスは大好きだ。しかもスプーンですくうよりこっちの方が食べやすい。一口で簡単だし、必ずたまごとごはんがちょうど良く食べられる。蓮野が食べたのを見て識司が嬉しそうに笑顔になったので、蓮野も嬉しくなった。残りの2つも全部食べた。
「ごちそうさま、おいしかった」
「もっと食べる?まだあるよ」
識司はまたお団子を3つ持ってきてくれた。
「これはさっきと同じもの、これとこれはちょっとずつ違うもの」
「違うの?」
「これはニンジン入り」
識司は真ん中のお団子を示した。蓮野はあからさまに身を退いた。識司が苦笑する。
「こっちはニンジンとタマネギと鶏肉入り」
「食べたくない」
いいよ、と識司は皿を蓮野から遠ざけた。
「……ごめんなさい」
「無理しなくていいよ。でも、ニンジンの味は大丈夫だと思うよ」
識司はにこにこしたままけろりと言った。
「え、私、ニンジン嫌いです」
「でもそれ、ニンジンの味すごくするよ」
識司は蓮野の目の前の紙パックを指差した。蓮野はえっと叫んで後ろの成分表示を確認した。
「にんじんジュース……!」
蓮野は絶句した。
「ね、だからこっちもきっと嫌いじゃないよ」
識司は常に柔らかい笑顔なのに、思いの外押しが強い。蓮野はうう、と唸った。
「いや」
「一口でいいから食べてほしいな」
お団子はもともと一口サイズだ。識司は笑顔で蓮野を見ている。食べざるを得ない感じになってきた。
「……じゃ、食べたらプリンくれますか」
プリン?と識司が繰り返した。プリンは買ってきていないはずだ。蓮野は無理を言って諦めさせるつもりだった。しかし識司は難なく答えた。
「いいよ。食べてくれたら作るよ」
「作る?」
蓮野は驚いた。プリンって作れるものなの?
目を白黒させる蓮野を識司はおかしそうに見た。
「後で一緒に作ろう。ね、食べてみて」
「プリンできなかったら、もういやなもの食べてって言わないでくださいね」
根負けして蓮野はニンジン入りを口に放り込んだ。
甘い。よく噛んでも、ニンジンはあまり気にならない。甘いたまごとケチャップの味付けでニンジン味はよくわからないが、ごはんだけより、もしかしたら、少し、おいしいかもしれない。
「食べられましたか?」
見ればわかるのに識司に質問されて、蓮野はおいしいと言うのも癪で黙ってうなずいた。識司は声を我慢して笑っている。きっと妹が同じような反応をしたのを思い出しているのだろう。思ったより意地悪だ、と蓮野はますます腹を立てた。
「……あなたは食べないの?」
蓮野はふと気付いて尋ねた。識司は困ったように言った。
「俺結構たくさん食べる方だから、一緒だとその、気持ち悪いかと思って」
蓮野は識司を見た。一緒に食べたら楽しいかな。
「一緒に食べたい」
識司はいやなら言ってね、と何度も言って、台所から大きな皿に乗った黄色い塊を持ってきた。蓮野ははじめ識司が黄色い帽子でも持ってきたのかと思った。その塊が識司の分のオムライスらしい。蓮野のお団子の十倍以上ありそうだ。
「じゃ、いただきます」
識司は手を合わせて軽く頭を下げると、食べ始めた。一度にスプーンですくう量がもうお団子より大きい。蓮野はどんどん減るオムライスをぽかんと見つめた。
「大丈夫ですか?これもニンジンとタマネギと鶏肉入ってるんです。気持ち悪くないですか?」
蓮野は圧倒されながら首を横に振った。オムライスはもう半分になった。こんなに食べる人初めて見た。そして、食べ物がこんなにたくさんあっても、ちっとも気持ち悪くならないのも初めてだ。
識司はあんまり見ないでください、と恥ずかしそうに言いながら、ぱくぱく食べている。
「おいしい……?」
蓮野が尋ねると、識司はにっこりしてうなずいた。本当においしそうだ。
蓮野は皿に残ったニンジンとタマネギと鶏肉入りのお団子を見つめた。同じものを一緒に食べたら楽しいのかな。私が食べたら、嬉しいかな。
蓮野がためらっているうちに、識司のオムライスはみるみる減ってしまった。早くしないと、一緒に食べられなくなってしまう。
「待って、私も一緒に食べます」
識司がもぐもぐしながらびっくりしたようにスプーンを止めた。蓮野は意を決した。ニンジン入りはおいしかった。大丈夫、食べられる。
お団子はすっかり冷めているが、蓮野は熱いのが苦手なので食べ頃だ。
同じごはん。楽しくごはん。あなたと。
お団子を口に入れ、よく噛み、味わう。いつもと同じ味、違う味、感触、作ってくれた人の存在感。
「……おいしい」
蓮野はほっとして笑った。
「おいしい。もっと食べたい」
識司も嬉しそうに笑った。そしてスプーンを放り出して立ち上がり、黄色いお団子を山盛り持って戻ってきた。蓮野は引いた。
「違う違う、これだと一緒に食べられるから。好きなだけ食べてください。残りは全部俺が食べます」
「でも、そのオムライス……」
「これは今片付けます」
識司は残りをすごい早さで飲み込み、皿を片付け、箸を持って戻ってきた。あの量の次に、この量。蓮野はやっぱり引いた。
お団子のオムライスは、広げたラップの上に薄焼きたまごを敷いて、その上にスプーンでごはんを置き、ラップごと丸める。手間がかかり、冷めやすいのが難点だ。しかしコロコロと可愛く楽しげで、何より好きなだけつまめる。
「蓮野さんも、これなら好きな量を食べられるかなと思って」
あんなに好き嫌いを言ったのに、そんな風に思ってくれた。
ひょいひょいとお団子をつまんでは食べながら話す識司を、蓮野はいくらでも見ていられると思った。お団子が減っていくのが惜しいくらいに。
まるで前の皿のことはなかったかのような調子で進む識司の箸を、蓮野はそっと制した。
「私を恋人にしてもいいって思ってくださるなら、名前で……雨、って呼んで。識司さん」