第3話 酒造と魔女(2)
風呂はとても気持ち良かった。当然だが俺の自宅のものよりずっと広く、手足を伸ばして余裕があった。水道とは別のパイプから、絶えず湯がちょろちょろ流れ出ている。これが温泉か。ちょっと熱めの透明な湯は、水道水を沸かしたものと違って芯からあたたまり、しかも続いた。ずっと冷えていた俺はやっとほっとした。
部屋に戻る途中、蓮野さんの部屋の前で声を掛けたが、返事はなかった。また声もなく泣いているんじゃないといいのだが。気にはなったが襖を開ける言い訳も思いつかず、俺はそのまま部屋に戻った。
少しのんびりして、指定された夕飯の時間に食堂に行くと、理恵さんがちょうど配膳してくれているところだった。蓮野さんは先に来てぼんやりと立っていた。
「渋久さん!」
理恵さんがほっとしたように俺に声を掛ける。
「蓮野さん、話し掛けてもずっと反応なくって、ちょっと怖いです」
配膳を手伝おうと近付くと、理恵さんは小さくない小声で訴えた。蓮野さんは動かない。昔の恋人に会って、少し歯車がずれてしまったようだ。
俺は彼女人見知りで、と適当に答えた。そう言えば蓮野さんと有澤社長のことを聞けていない。
配膳が済むと理恵さんは小ぶりな緑色のビンをテーブルの真ん中に置いた。
「おおっ、これですか」
ラベルがないが、理恵さんの顔を見るに、これが準グランプリの白鷹山なのだろう。自分の分を小分けにして用意してくれたようだ。
ガラスの小さな猪口に注いでもらう。香りが強い。なのに飲んでしまうとキリリと引き締まった日本酒の味はすぐに消え、後口は水の味のようにさっぱりしていた。俺は日本酒はあまり飲み慣れていないが、すぐ次が飲みたくなる酒だ。
「おいしいですね」
そうでしょう、と理恵さんは胸を張った。蓮野さんも少しずつ飲んでいる。あまり強くないのか、もう頬が少し赤くなってきた。
「では、私は帰りますので終わった食器はそこの棚に下げておいてください。明日洗いますからそのままでいいですよ」
理恵さんは夕飯までが仕事なのだそうだ。あとは帰宅するのだという。
「何しろ主人が待ってますから」
「え、理恵さん結婚してるんですか」
「はい。結婚はいいですよ、渋久さんももうじきでしょう。もっと早くしておけば良かったってなりますよ」
理恵さんは左手の指輪を得意げに見せびらかして、嬉しそうに言った。俺は自分より年下だと思っていた理恵さんが人妻だという現実に少々打ちのめされた。理恵さん、俺は本当は予定も相手もないんだ。
酒が急に少し苦くなった。
理恵さんが帰ってしまったあとは急に静かになった。俺たちはふたりでごはんを食べた。ごはんに野菜たっぷりの味噌汁、焼いた鮭の切り身と漬物が2種類。理恵さんは料理上手のようだ。何ということはない家庭料理がとてもおいしかった。蓮野さんの分には魚と漬物がなく、メインは卵焼きだった。魚は苦手だそうだ。ごはんと味噌汁の量も俺の半分だが、蓮野さんはその量も何とか、と言う感じで食べていた。有澤社長が理恵さんに言ったのだろうか。
そのままでいいと言われたけれど気になるので、俺はこじんまりしたシンクで食器を洗った。当然2人分だ。蓮野さんは食べ終わっても何もせず、ぼんやりと座っていた。なかなか難儀な人だ。
俺は蓮野さんにあとは風呂に入って早く寝てしまうように言った。明日の朝食は6時半と言われている。早起きしなくては。理恵さんならきっと部屋まで来る。
蓮野さんは言われたことはするようで、ふわりと立ち上がった。風呂に行くのだろう。俺は誤解されないように急いで食器を片付け、部屋にこもった。
外は真っ暗になっていた。カーテンを閉め、荷物を少し整理して、布団を広げる。寝転んで今日のルートや旅費、酒の感想などをメモし、地図や観光案内を幾つか確認すると、あとはすることがなくなった。時計を見るとまだ7時だ。いくら昨日あまり眠れていないとはいえ、まだ寝るには早過ぎる。
どうしようか。俺ももう一度風呂に入ろうかな。
逡巡していると、廊下で物音がした。蓮野さんが上がったようだ。
よし、風呂入ろう。でもあんまりすぐだと何だかあれだから、少し時間をずらして行こう。俺はまた町の地図を広げた。
すると、襖がカタカタ揺れた。俺はぎょっとして手を止めた。風はない。息を詰めて襖を見ていると、女性の小さな声がした。
なんだ、蓮野さんか。
俺はほっとして襖を開けた。
湯上がりの蓮野さんは、さっきと同じように黒いワンピースをきっちり着込んでいた。部屋着とか着ないのだろうか。しかし顔は風呂上がりらしくほんのり染まっている。本当にきれいな人だな。
俺より小柄な蓮野さんに間近で見上げられて、俺はどきどきした。蓮野さんが小さな声で言う。
「もし、これからの予定がなかったら、さっきのお話の続き、よろしいでしょうか」
そうだ、それを聞いておかなきゃいけなかった。でも俺の部屋に招き入れるのも気が引けるし、蓮野さんの部屋にも入りにくい。廊下や火を消した食堂では風邪を引きそうだ。
戸惑う俺の横をすり抜けて蓮野さんは俺の部屋に入り、布団の横に当たり前のように座った。ちょっと待ってよ。
俺は焦って敷き布団も掛け布団もまとめて二つ折りにし、少しでも蓮野さんから遠ざけた。何で俺の方がこんなに気を遣わなきゃいけないんだ。婚約者のふりをしてくれって頼んだ方がこういう気を回すべきではないのか。
回せないか。この人は無理だな。
俺は何だか腹を立てながら蓮野さんの前に座った。蓮野さんはそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、静かに頭を下げた。
シャンプーの匂いがした。でも蓮野さんだと特別いい匂いになる気がする。
いやいや、俺は怒ってるんだ。この人は勝手だ。振り回すだけ振り回して。
蓮野さんが頭を上げながらすっと手帳のような物を差し出した。
「遅くなりましたが、私の身分証明書です」
だからそこまでは求めていないのだが。俺はその身分証を開いた。顔写真と名前、生年月日。やはり俺より年上だ。現住所はこの地方で一番大きな隣県の都市、本籍地は北の隣県のこちら寄り。個人情報がよくわかってしまった。他のページはその情報を数ヵ国語で繰り返し書いているようだった。
何の身分証明書だろう?国際旅券ではない。初めて見るものに、俺はやっと疑問を持った。改めて日本語のページを開くと、読み飛ばした最初の行にそれは書いてあった。
「魔女登録証」
声に出して唖然とする。何だこれ。おもちゃか?
「そうです。私、魔女です。よろしくお願いします。それで、ええと、どこからお話したらいいか……」
本物か?こちらこそどこから聞いていいかわからない。
「蓮野雨さん」
「はい」
「あなたは魔女」
「はい」
「……」
蓮野さんは早く話を始めたそうだ。魔女はさほど重要ではないらしい。そうか、それなら、その感じで進めよう。蓮野さんは魔女。俺はバイト兼自由業。それでいい。
「あの……手紙、お見せしましたよね。私と識司さん、すごく昔にお付き合いしていました。別れて、識司さんは結婚なさってしまいましたが……」
決意に満ちた言葉はすぐにトーンダウンした。蓮野さんの方がよほど未練があるらしい。苦悩する伏し目がちな湯上がり美女。絵描きなら筆を取らずにはいられまい。俺は絵は描かないのでただただ眺める。あのおじさんとこの美女。不思議だ。
「別れた原因は、これです」
ぼんやり眺めていたら、蓮野さんが不意に俺を見た。大きな目に映った自分の顔まで見えそうだ。思わず後ずさる。追いかけるように蓮野さんが膝を進める。俺はまた少し下がる。蓮野さんは更に迫ってくる。襟が開いている。鎖骨が見える。色っぽいとはこんな首元のことを言うのだろう、と思いながらもっと下がる。蓮野さんはまたにじり寄り、身を乗り出して俺の手を取った。
「うなあ」
変な声が出た。逃げられない俺の膝に蓮野さんの膝がくっつきそうになる。
蓮野さんは俺の手を軽く引いて、そのまま自分の膝の上、左の太腿の上に置いた。
「……」
息を飲む。心臓が跳ね上がり、血液が沸騰しそうになる。
ワンピースの布越しの、柔らかく温かい肌の感触が俺の手のひらに伝わる。俺の手の甲は蓮野さんの手のひらに包まれたままだ。女の人に触るのは久しぶりだが、前、触ったときはこんなだったろうか。手のひらはこんなに柔らかくて、少し冷たく、でも触れていると温かくなって、優しく包み込むようで。太腿はこんなにしっとりと弾力があって、吸い付くようで、艶めかしくて。
蓮野さんが俺の手を太腿に添わせたまま、膝に向けて動かした。動くとまた感触が違って、どんどん気が遠くなりそうに……
俺ははっとした。感触が変わった。硬い。俺は思わずその辺り、膝から手のひらひとつ分上の辺りをまた撫でた。
「義足です」
蓮野さんが再度俺の手を取り、感触の変わる辺りをもう一度撫でさせた。
「左足が、そこから下ありません。事故でなくしました」
そうだ、手紙の始めに、怪我の具合を心配するような一文があった。このことだったのか。蓮野さんはワンピースの裾を少しめくり、足首の辺りを見せてくれた。巻き付けるような形の靴下のボタンを外すと、中から木製らしい硬くつるりとした表面が現れた。
「私が事故に遭って、識司さんは私を守るために私から離れました。私は識司さんを恨みたかった。けれど、できなかった。だから、諦めました。でも、思うことは私の勝手です。そうして今まで思ってきました」
蓮野さんは靴下のボタンを留め直してワンピースの裾を被せ、少し笑った。軽やかな表情の中に、揺るぎない意志を感じた。
「でも、手紙をもらいました。懐かしくて、嬉しかったけれど、何か怖かった。識司さんが変わってしまいそうな感じがしました。そして、識司さんもそれを怖がっています。識司さんは優しい人です。でも、自分を抑制できる強い人です。その強さが、良くない方に向かってしまったら、きっと識司さん自身にも止められない。だから私に止めてほしくて、手紙をくれたんです」
そこで蓮野さんは俺を見た。俺は信用していない顔をしていただろう。だってあのラブレターから、そこまでの気持ちはわからない。蓮野さんにまだ好意があるということはわかったが。
蓮野さんは困ったようにうつむいた。
「あの当時、私たちがどうしていたら良かったのか、今でもわかりません。けれど、私たちは、2人でいるその時が何よりも大切でした」
後悔を滲ませながら、蓮野さんは義足を覆ったワンピースをさすった。そうしていると全く違和感はない。俺は尋ねた。
「普通なら、そんな大事故に遭った恋人と別れて結婚しちゃうなんてひどいと思うけど、あなたはそうは思わないんですね。どうしてですか?」
蓮野さんは微笑んだ。
「私を守るためだからです。そう、そこをお話ししたらいいんですね」
蓮野さんはふっと遠い目をした。