表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それでも無価値な復讐を  作者: 今井 初飴
3/36

第2話 酒造と魔女(1)


 有澤酒造は造り酒屋らしい大きな建物だった。木の門に濃い紺色の暖簾が下げられ、「純米鮎享 有澤酒造」と主力の酒の名前と屋号が白く染め抜かれている。

 暖簾の奥を覗き込んでいると、タクシーの運転手さんが帰る窓を開けて事務所は向こうだよ、と塀の向こうを指して教えてくれた。

 事務所は普通の会社のような小さいけれど二階建てのコンクリートの建物で、入り口もガラス張りでわかりやすかった。新しそうな建物なのに、入り口に燕の巣と、その下に板を敷いたりして格闘したあとがある。燕の巣がある店はお客が多いと言われていた気がする。繁盛しているのかな。俺はインターホンを押した。

 女性の声で応答がある。

「こんにちは、渋久と申します」

「ああ、坂部さんが言っていた方ですね」

 話は通っているようだ。ここで話が通じていないと、俺の立場はなかなか説明が面倒だから助かる。

 お待ちください、今参りますから、と女性の声が言い、俺と蓮野さんはそこでしばらく待った。

 蓮野さんは表情はわからないが、ひどく緊張しているようだった。しきりに周りを気にしている。 

「大丈夫ですか?」

 俺が小声で尋ねるのとほぼ同時に、奥の扉が開いた。

 女の人かと思ったら作業服の男性だった。こんにちは、お待たせして、なんて言いながらにこやかに歩いてきたが、蓮野さんに気付くとはっと足を止めた。

 ああ、この人が社長か。

 写真の面影がある。背の高い人だった。少し猫背気味で、細長いのにあまり大きく見えない。白髪混じりで、やはり蓮野さんよりはかなり年上のようだ。

 そして、俺の後ろで固まっている黒いもこもこを一目で蓮野さんと認識したようだった。

 俺は好奇心で社長の表情を見ていた。走り出して抱きしめるとか、映画のようなシーンをちょっと期待したが、特に大きな動きはなかった。足を止め、少し立ち尽くしたあと、少しうつむき、息を吐いた。そして、間もなく顔を上げた時はまた穏やかな笑顔になっていた。落ち着いた足取りでこちらに向かってくるのは、確かに社長と呼ばれる人の貫禄だ。あれ程のラブレターを送るような浮わついた人には見えない。

「こんにちは。よくいらっしゃいました。有澤識司です。よろしくお願いします」

 有澤社長は落ち着いた声で先に名乗り、俺に丁寧に頭を下げた。十歳以上年下の、何の何でもない俺に。それから有澤社長は名刺を差し出した。ぼんやり待っていないで、名刺くらい出しておけば良かった。いや、背広の一つも着てきたら良かった。後悔しながら慌ててこちらも何の肩書きもない名刺を出し、遅ればせながら名乗る。

 その間、有澤社長は一度も蓮野さんを見なかった。

「俺がどれだけこちらのお力になれるかはわかりませんが、しばらく色々見せていただきたいと思っています。どうかよろしくお願いします」

「はい、何でもおっしゃってください。お時間はあると伺っていますが、週末には祭りもあるんです。そのくらいはご滞在になれるんでしょう?」

 俺は財布の中身を計算した。隣市のビジネスホテルに泊まって、タクシーでここまで通ったら。

「もし良かったらうちにお泊まりになりませんか」

 俺の頭の中を見たかのように、有澤社長が声をかける。

「うちは古い酒屋ですから、仕込みの最盛期は泊まり込みで作業する職人もいます。そのための部屋がいくつかあるんです。今年はもう仕込みが済みましたので、部屋は空いています。町まで行って泊まるのも大変でしょうから」

 是非。

 有澤社長はまたすっと頭を下げた。あんまり自然で困ってしまう。こんなに年長者に頭を下げられたことはない。が、俺としては少しでも出費が減るのはありがたい。俺ひとりなら飛び付くのだが。

 俺は後ろを振り返った。先程から石のように固まってしまった蓮野さんは、うつむいたままだ。

「どうですか?」

 俺は小声で尋ねた。蓮野さんの反応はない。

「雨さん」

 有澤社長が初めて蓮野さんに呼びかけた。蓮野さんは弾かれたように顔を上げた。

「久しぶりだね。せっかく来てくれたんだ。どうか、泊まっていってください」

 有澤社長が優しく言った。蓮野さんが小さく震えた。

 俺、婚約者役なんて務まるだろうか。

 あんな手紙を見たから、嫁の家業に甘えたおじさんと思ったのに。

 何かあって離れざるを得なかった恋人同士がようやく再会したのが俺にもわかった。そして、今も抑えて抑えて、この距離を取っていることも。俺がいなかったら、世間がなかったら、2人の距離はきっと今のこれではなかった。

「お世話になろう?ね、その方がいいですよ」

 何か苦しくなって、俺は少しでも2人の距離を近付けたくて、蓮野さんに呼び掛けた。

 蓮野さんは小さくうなずいた。


 俺たちの泊まる場所を案内してくれたのは有澤社長ではなく、若い女の子だった。女の子は理恵さんと言った。

「部屋は幾つかありますけど、その、どうしましょう?」

 有澤社長には説明する間もなかったが、理恵さんには俺たちが婚約者という設定を聞いてもらうことができた。理恵さんは有澤社長と蓮野さんのことを知らないようだった。

「あ、別々にしてください。俺だけ朝早い時もありますから」

 俺は抜け殻のような蓮野さんを支え、理恵さんに言った。蓮野さんはあの後有澤社長が見えなくなると同時に糸が切れたように崩れ落ちそうになり、そのまま今まで支えている。もこもこでぬいぐるみでも抱えているかのようだ。ただそれでも、その芯が驚くほど細く軽いことはわかった。

 理恵さんに用意してもらった部屋に蓮野さんを運び入れて、俺も隣の自分の部屋に荷物を片付ける。俺の自宅に似た、まあ馴染んだ大きさの過ごしやすそうな部屋だ。仕込みの間しか使わないから、最低限のものしかないのだろう。通うには便利だ。有澤家とつながっているし、目の前は事務所だ。窓から蔵も見える。

「あのう、あの人、大丈夫ですか?」

 理恵さんが襖を開ける。鍵がないのは仕方ない。そういうものなのだろう。理恵さんは開けておきながらそのまま蓮野さんの方に行ったようだ。俺も後を追う。

 蓮野さんはさっき運び込んだままの姿勢で固まっていた。心配する理恵さんに、この人疲れるといつもこうなんです、と出まかせを言う。すると理恵さんはぱっと顔を輝かせた。

「なら、うちの甘酒持ってきます!疲れもとれるし、おいしいですよ!」

 理恵さんは返事も聞かず飛び出して行く。弾むゴムボールみたいだ。俺と幾つも違わなそうな理恵さんの行動力をぽかんと見送り、俺は改めて黒いもこもこに向き合った。

 大丈夫ですか、と尋ねるが返事がない。フードをはずしてみると、蓮野さんは泣いていた。

 俺はぎょっとして思わず後ずさった。大きな目から大粒の涙だけが流れている。微動だにせず、無表情に泣いている。俺は人が無意識に人が泣く動作を覚えていることを知った。これはそれから外れている。少し怖く感じた。

 蓮野さん、と呼び掛け肩を揺すると、蓮野さんは初めて気が付いたように俺を見た。

「大丈夫ですか」

 再度尋ねると、蓮野さんは濡れた瞳を俺に向け、嬉しそうに囁いた。少し表現がずれている。

「あの人が私を呼んでくれました。嬉しい」

 急に人形から人に戻ったように、蓮野さんは美しく微笑んだ。そして、噛み締めるように、嬉しい、ともう一度小さく呟いた。俺は蓮野さんのまだ濡れている目を見つめた。

「蓮野さん、あなたたちに何があったのか、俺にも教えてもらえますか?何があったか知らないと、婚約者なんて嘘だって、すぐにバレそうだ」

 蓮野さんは少しの間目を伏せた。そして、何か話し始めようとしたとき、軽やかだが派手な足音が近付いてきた。

「甘酒です!あったまりますよ!」

 理恵さんが飛び込んできたとき、俺と蓮野さんは何もなかったかのように例の雑誌を広げていた。理恵さんがあ!と大きな声を上げる。

「これ、私も買いました!結城さんと社長が受賞式に行ったんですよ」

 嬉しそうに割り込んでくる。甘酒は当たり前のように三つある。

「このお酒飲みました?まだ?私持ってますよ!でもお昼前からじゃまだ早いかあー。って、うわあ、蓮野さん美人ですね!モデルさんとか?」

 蓮野さんはぼんやりして答えないので、俺はただきれいなだけです、と代わりに答えた。モデルはしていないと思う。

 理恵さんは賑やかだ。甘酒を飲みながら件の酒の話をしてくれた。杜氏の結城さんがどんなに一生懸命仕込んだか、まるでその場にいたかのようにわかった。夕食の時に出してくれることになった。

 理恵さんは家政婦として主に母屋の家事を受け持っているが、繁忙期は泊まり込む職人たちの食事も作るのだそうだ。ようやくそれも終わって、暇らしい。

 話好きそうな理恵さんはトイレやミニキッチンなどの施設の説明をした後、飲み干した甘酒の湯呑みが冷え切るまでおしゃべりをしてようやく引き上げ、程なく昼食を持って再度現れた。もちろん三人分、いつ準備したのか。

「この辺に観光客なんて来るようになりますかねえ。何にもないですよ」

 同意しそうになり、俺は危うく止まった。ないところから作り出すのが腕の見せ所です、と適当に答える。でも何かないかな。

「そう言えば、公開はしてないんですけど、蔵の向こうに礼拝堂あるの知ってます?大旦那さんのお父さんが作ったらしくて、有澤のお家のものなんですけど、ステンドグラスがすっごいんです!」

 ステンドグラスに蓮野さんが反応した。好きなのだろうか。

「そういうのいいですね。社長さんに言うと見せてもらえるのかな」

「そうですね、私頼んでおきますよ!」

 理恵さんはその後も酒蔵のあれこれや職人、社長の家族の話などをして帰っていった。

 もう日が傾いてきた。結局俺は蓮野さんの部屋でずっと理恵さんの相手をしていた。蓮野さんはずっと静かに座っていた。指示されたこと、甘酒を飲んでとかお昼を食べてとか、そんなことをいくつかこなしたきり、殆ど動かなかった。話し掛けても半分も答えない。俺は半分蓮野さんになって色んな出任せを言ってしまった。

 この寮のような場所には大きめの風呂があり、そこは温泉なのだそうだ。繁忙期以外は殆ど誰も使わないが、湯を出したり止めたりするのも面倒だから出しっぱなしにしているので、いつでも入れる。理恵さんもたまに入るという。

「気持ちいいですよ!」

 理恵さんは自慢そうに言っていた。俺はそれならひとっ風呂浴びさせてもらって夕飯まで昼寝でもしたかったのだが、この時間からだと風呂しか間に合わない。

「蓮野さんは風呂どうします?」

 何気なく尋ねると、静かに伏し目がちに座っていた蓮野さんが突然動揺した。

「えっ、私、私は後でいいです、ひとりで入ります」

 いや、そう誘った訳じゃない。

 赤くなられるとこっちが恥ずかしくなる。俺はじゃあお先に、と早口で言って蓮野さんの部屋を出た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 新着作品を発掘中。 カクヨムとの平行は大変でしょうけど、頑張ってください。 [一言] (…ブクマさせていただきました。よかったら、自分のほうも見ていただけると嬉しいですw)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ