第1話 小遣い稼ぎと魔女の到着
俺がようやくその駅に着いたのは、午前中とはいえだいぶ日も高くなった頃だった。
身体中が痛い。何せ俺が自宅の安アパートを出たのは昨日の夜だ。地元の駅から在来線で三十分、乗り換える駅に至る。そこから夜行列車で8時間、終点の5つ前の駅で下りて再び乗り換え、列車通過の待ち合わせを含めて2時間。
遠かった。ほぼ夜だから何も見えなかったし。殆ど寝てたけど。
俺は大きく体を伸ばして辺りを見回した。雪、山、田んぼ、以上。思った以上に何もない。いや、俺の自宅付近ではもうとっくに消えた雪はある。山はもちろん、田んぼも所々解け始めたくらいでほぼ白い。春はまだ遠そうだ。そういえば寒い。
俺は荷物から上着を出してもう1枚羽織った。持ってきて良かった。寒い。列車の中は暖かかったんだな。
この駅で降りたのは俺を含めて3人だけだった。地元の人らしいおばあちゃんと、細い杖をついた黒い服の女性と、俺。こんなところに何の用があるのかと思う。
ホームから降りる階段の所に置かれたポストのような箱に切符を入れ、俺は駅を出た。駅舎も改札もない。
そうか、ということはタクシーもいないのか!
突然普通の道路に立たされて、俺は唖然とした。どうしよう、目的地までタクシーを使うつもりだったのに。歩くには遠過ぎる。
頭を抱えていると、目の前に人の気配が近付いた。はっとして顔を上げると、勢いに押されたようにその人は一歩退いた。さっき一緒に降りた女性だ。
「……」
女性は小さな声で何か言った。
「……」
女性が更に何か言った。さっぱり聞こえないが、きっとこの人もタクシーがいなくて困っているのだろう。黒い外套を頭からすっぽり被って襟元にふわふわの布を巻いているから、顔も見えないし声もますます聞こえない。
「あの……こんにちは」
俺はとりあえず笑顔で挨拶してみた。女性は戸惑ったように大きめのカバンの持ち手を握り締め、立ち尽くした。そのカバン、やっぱり旅行者かな。
「俺も旅行で来たんですけど、この辺タクシーこないみたいですね。どうしましょうね」
なるべく笑顔で話しかけたのに、女性はうつむいてしまった。そんなに変な返答してしまったかな。だって聞こえないんだもん。
女性はうつむいたまま、杖を持たない方の手袋の手をすっとあげて俺の背後を指差した。熊でも出たかと思ったら、俺の背後には公衆電話があった。問題は解決だ。
俺はスキップしたいような気持ちで電話に向かい、はたと気付いた。タクシーで困っていたのでないなら、この女性は俺に何の用だろう?
「すみません、さっき、ちょっと聞き取れなくって。何ですか?」
女性はカバンを抱きしめてうろたえていたが、意を決したようにフードを取り、襟元の布を押し下げて、言った。
「あの、私の婚約者になってくださいませんか」
きれいな人だった。
フードからこぼれる髪が白かったので老人かと思ったが、若い女性だ。しかし髪も肌も白くて雪のようだ。目が大きい。そんなに大きな泣き出しそうな目で見つめられると、吸い込まれそうになる。
「本当でなくていいんです。あの、ここにいる間だけ、どうか……」
俺が答えないので、女性が必死に訴える。見とれていただけの俺は慌てて言葉の意味を考えた。
「ええと、婚約者」
「はい」
「俺が、あなたの」
「はい、どうか」
「あなたは誰ですか?」
女性は一瞬考え、ああ、と言って徐ろにカバンのファスナーを開けた。手を離した杖が倒れ、張りのある布製の四角いカバンの口が大きく開く。その中を、女性は身を乗り出すようにして覗き込んだ。あんまり傾けるから、反対側から着替えらしき布がはみ出して落っこちそうになっている。拾った杖をいつ渡そうかと思っているとこんな様子で、ハラハラしていると、女性ははっと思い付いたようにカバンを開けたまま体を探り出した。外套の裏表、ボタンを外して中のワンピースの腰の辺り。手袋を外してカバンに突っ込むとまたもう一度服を裏返してポケットを探り、またカバンを覗き込む。はみ出た布が限界を超えて重力に引かれたので、俺は布をカバンに戻した。
「あっ、すみません、身分証が見つからなくて」
女性が白い頬を赤くして、ますます泣きそうな顔でカバンをかき回す。意外とうっかりなのだろうか。俺はまたカバンを傾ける女性を止めて、自己紹介をした。
「俺は渋久黒栖、旅行と仕事でこの町に来ました。しばらく滞在しようと思っています。あなたは?」
女性は今初めて気付いたような顔で、開けっ放しのカバンを胸の前から下ろした。
「私は蓮野雨、人を止めに……人に会いに来ました」
蓮野さんはぺこりと頭を下げた。彼女が動くたび、カバンが気になる。
「ごめんなさい、初めにそう言えば良かったんですね。私、慌ててしまって」
「俺は時間あります。あなたも大丈夫なら、まずカバン閉めましょう」
あんまり気になったので俺が指摘すると、彼女はあたふたとファスナーを閉めた。頬が真っ赤だ。もしかしたら寒いのだろうか。
喫茶店でもあればいいけれど、見渡す限り田んぼとたまに畑。遠くに民家があるだけなので、俺は蓮野さんに服も直すように言った。カバンを持つことにする。蓮野さんはフードを被り直し、首のふわふわの布を引き上げて、手袋を探しはじめた。俺はカバンと杖を渡した。蓮野さんはカバンを受け取ってもポケットを探そうとしていた。俺が手袋はカバンの中ですよ、と教えると、驚いたようだった。さっきしまうのを見たばかりだ。
蓮野さんは手袋をつけ、初めて見た時のようにすっかり肌を覆い隠してしまうと、改めて話し出した。
「私、人に会いに来たんです。でも、その方は奥様がいらっしゃるので、私ひとりで伺うのは良くないと思って、誤解があってはいけませんから、だから」
さっきより距離を詰めることができたので、小さな声も何とか聞き取れた。蓮野さんはたどたどしくしかし懸命に話した。
「その人は、もし良ければ、どんな人か教えてもらえますか?」
「優しい人です」
即座に答え、蓮野さんは求められた回答がそれでないことに気付いてまたカバンを開けた。今度は程なく目的のものが見つかった。
「この人、です」
そこだけ何度も開かれて癖のついた雑誌。その開かれたページには、小さな囲み記事があった。
有澤酒造、瑞露白鷹山、純米酒部門準グランプリ受賞。
モノクロのざらついた写真に、賞状を間にして背広の男性と法被を着た男性が写っている。
「おじいちゃん……お父さん?」
俺は蓮野さんの年から見積もって、失礼がないようだいぶ若めに値踏んだ。外れたようだ。蓮野さんは手袋の手で写真の後ろの方、多分揃いの法被を着ている、顔も定かでない人影を示した。
「……」
やっぱりお父さんかな、くらいの年齢の男性だった。多分だけど。そのくらい不鮮明で、何となくの写真。
「昔の……恋人です」
蓮野さんが迷って選んだらしい言葉は少し意外だった。蓮野さんに比べて、不鮮明な写真の男性はそれでもかなり年上に見えた。そりゃ奥さんくらいいるよな、くらいの。
「有澤酒造の今の社長です。し……いえ、あ、有澤識司さんです。お会いできたら、十数年ぶりになります」
そんなに昔の。俺で言ったら、初恋の相手がそれより最近だ。蓮野さんはもしかして俺より年上なのだろうか。
「会いたいんです。話したいんです。それができないならせめて誰かに、あの人に伝えてほしいんです」
蓮野さんは必死に俺に言った。
「誰も死なせないで、あなたを大切にして、って」
不穏な言葉に俺は少したじろいだ。
「殺人予告でも届いたんですか」
冗談半分で聞いたが、蓮野さんは至って真面目だ。言葉が不十分だっただろうか、と不安そうな顔をしている。だが額面通りに受け取るのも難儀な話だ。ちょっと唐突過ぎる。
蓮野さんはまたカバンを探った。今度もすぐに白い封筒が出てきた。おお、本当に殺人予告か?
「手紙をもらったんです。別れてから初めて。内容は、あの頃が懐かしいとか、そんなことだけなんですけど」
「見せていただけますか」
蓮野さんは少し迷って手紙を俺に渡した。宛名はあるが、差出人の名前はない。中に入っていた白い便箋には、少し癖のある綺麗な字が並んでいた。
蓮野雨様
ご無沙汰しています。怪我の経過はいかがですか。お元気にお過ごしでしょうか。
突然このようなものを送ってしまい、大変申し訳ありません。驚かれたでしょう。
特に何かあったということではありません。年のせいか、昔あったことを懐かしく思うことが多くなりました。そんなところがあった、と思い出し、笑って済ませていただければ幸いです。
雨さん。あなたといたあの頃は俺の全てです。あなたは俺に幸せを教えてくれました。今でも感謝しています。
俺はあれからずっと日記をつけています。思うことを書けばあなたのことばかりになるから、日付と天気と気温だけ。それでも雨、と書けると幸せです。明日も雨が降りますように、と毎日祈ってしまいます。毎日雨と書きたい。
筆が過ぎました。昔のままでお恥ずかしいです。
あなたの住所は昔のものしか知りません。記録も捨ててしまったので、俺の頭の中にしかありません。あなたが引っ越していても、俺が間違えても、この手紙は届かない。でもそれならその方がいいのだと思います。きっと今ではお名前も変わっているでしょう。あなたが選んだ方はきっと優しい方でしょうね。
なおさらこの手紙が届かない方がいいような気がしてきました。でも、俺の気が済むので、投函はすることにします。
長くなってしまいました。この手紙はお読みくださったら捨ててください。懐かしむあまり、ひどい内容になってしまいました。ご迷惑になりませんように。
それでは雨さん、末永くお元気で。お幸せに。
中身にも差出人の名前はなかった。既婚者と言っていたから、よほど嫁が怖いのだろうか。それにしても少々情熱的だ。嫁に虐げられて昔の女が懐かしくなったにしては分別がない。しかし別に死にそうだとか殺しそうだとかは書かれていない。
「あなたに未練があるみたいだけど、十何年も手紙ひとつ寄越さなかったんでしょう?嫁さんとケンカして甘えてきただけですよ。仲直りすればまた何とかやってくんだろうから、あなたがそんなに心配しなくても」
手紙を返しながら取りなすように言うと、蓮野さんはうつむいた。手紙をカバンに大切そうにしまい、後ずさる。
「わかりました。ごめんなさい。他を当たります」
怒らせてしまったか。しかし他を当たると言っても他に人はいない。それに、有澤酒造なら、また会うことになる。
「すみません、怒らないでください。俺もこれから有澤酒造に行くつもりなんです」
蓮野さんがえっ、と小さく声をあげた。俺は自分のカバンから同じ雑誌を取り出した。
「俺は旅行の行き先や行った先で楽しむものなんかを企画して、旅行会社にプランを提案するのを仕事にしています。今回この辺りで企画を立てるように依頼されたので来たんです」
「私、そんなお仕事があること、存じませんでした」
蓮野さんは驚いたように言った。俺は曖昧に笑った。そちらが当たりだ。俺はそれだけで食えているわけではない。これが仕事になればいいんだけど、とてもとてもそこまでは稼げない。だからいろいろバイトを掛け持ちながら、旅行したくてそんなこともして小遣い稼ぎをしている、と言うだけだ。
今回も有澤酒造の関係者から受賞を機に旅行会社に売り込んでほしい、と大学の先輩を通じて依頼を受けた。依頼料は往復の交通費。特急料金は含まれていない。実費以下だ。でも何もないよりはましである。
ともかく目的地は同じだ。
「向こうに着いたらまた俺と会いますよ」
「……」
蓮野さんが立ち尽くす。
「蓮野さん、婚約者役、俺で良かったらやります。代わりに、俺にも協力してもらえませんか。女性の意見も聞きたいし」
社長の昔の恋人を連れて行ったら、色々便宜を図ってもらえそうだ。いや、あの手紙の感じでは男がついて行ったら逆に嫌われるだろうか。まあそれならそれで、俺は違うところを見て回ればいい。
こんなきれいな人と、今だけとはいえ、婚約者役なんて嬉しいじゃないか。
「私、あまり旅行したことないのですが、何かできるでしょうか」
「俺が聞いたことに答えてもらったり、女の人がいないと入りにくい店に一緒に行ってもらったり、色々ありますよ」
適当に答えると、蓮野さんはそうですか、それなら、とやる気になったようだった。まあこのあたりに店らしいものはなさそうだが。
「俺の先輩から有澤酒造さんには連絡してもらっていますから、一緒に行きましょう」
真っ黒なもこもこは、はい、と小さく答えた。
公衆電話でタクシーを呼んで、2人で乗り込む。
「旅行ですか」
気さくそうな運転手さんに話しかけられた。蓮野さんはおろおろしている。俺は代わりにはい、と答え、尋ねた。
「有澤酒造さんのお酒を見に行くんですけど、他にこの辺りで観光できそうなところってありますか」
運転手さんはそうですねえ、と考え、答えた。あとひと月もすれば桜が咲きます、古木が多くて見事ですよ。
それは俺も知っていた。町の観光案内の小冊子に書いてあった。問題はその名物の古木が町の端と端、距離にして数十キロ離れていることだ。
酒蔵から歩いて行けそうなところは何かないでしょうか。重ねて尋ねると、運転手さんはしばらくうなり、無言になって、あっ、そうだ、と叫んだ。
夏は紅花がきれいに咲きますよ。
「……」
絞り出した答えがあと数ヶ月先だ。車内が無言になる。
「ああ、でも」
しばらくしてまた運転手さんが思いついたように声を上げた。
「今週末は祭りなんですよ。たいした祭りじゃないんですが、それでも町の女の子たちが晴れ着を着て繰り出したりするんで、それなりに華やかなもんです。しばらく逗留なさるんなら是非見て行ってくださいよ」
そう言う素朴なのはいいかもしれない。俺は祭りの由来やご利益などを聞いて、そうこうするうちタクシーは有澤酒造に到着した。