第10話 俺の大切な魔女(1)
識司はせっかくの2人の時間を昔の面白くない話に費やすのは惜しかったが、雨が不安そうなので説明しなくてはならなかった。
とにかくあの人は何でもないこと、雨だけを愛していることは何度も強調した。
中学2年の夏休み前、突然識司は美術室前に呼び出された。そこは校舎の端で人があまり来ず、つまり生徒の間では絶好の告白スポットとして有名な場所だった。
識司が戸惑いながら行くと、誉茉子がいて驚いた。識司はその頃まだ背も小さく今と同じくらい冴えなかったから、いつもクラスの端にいた。それなのに目の前にクラスの真ん中で笑っている美少女がいる。告白スポットと名高いこの場所で。
ますます戸惑っていると、誉茉子から切り出された。
「清水君、私、清水君のことが好き。清水君は私のこと好き?」
頭が真っ白になった。何度も言葉の意味を考え、理解すると顔が真っ赤になった。
「す、好き」
震える声で答えると、突然美術室の扉が開いて数人の生徒が飛び出してきた。識司は驚いて後ずさり、壁にぶつかった。生徒たちがそれを見て大笑いする。同じクラスの、誉茉子といつも一緒にいる真ん中の子たちだ。
「好きだって、良かったね誉茉ちゃん!」
「やめてよ、もうこんな罰ゲーム信じられない!」
一番大きな声で笑った誉茉子が隣の男子の背中をたたいた。
「という訳で罰ゲームでした!清水、お疲れ!」
「でも誉茉ちゃんみたいな可愛い子に好きって言われるなんて一生ないから、宝物になるわよ!」
男子も女子も楽しそうに去っていく。誉茉子を中心にして。誉茉子は一度も振り返らなかった。識司は生徒たちとは反対に走り、校舎の裏で下校時間まで泣いた。
夏休みまでの何日かを腹痛を堪えながら過ごし、夏休みはとにかく部活に明け暮れた。罰ゲームのことはクラス中に知れ渡り、しかし部活の友だちだけは普通に接してくれて、それがなければ識司は学校に行けなくなっていただろう。
卒業するまで識司は女子が怖くてたまらなかった。高校は女子が少ない工業高校だったから良かった。就職して色々な年代の女性と関わり、ようやく恐怖心を払拭できた。だが今でも同年代の女性は少し苦手だ。
「その人が今こっちにいて、久しぶりだから声を掛けられたんだよ。でも、もう会いたくないから、しばらくあそこで待ち合わせするのはやめよう」
雨はうなずいた。
「識司さん、あと、あの……」
雨が大きな目で識司を見上げる。
「私を、婚約者って」
「そうだ、今日はその話がしたかったんだ」
識司は頭をくしゃくしゃとかきまわした。
「勝手に言ってしまってごめん。あの、話せば長いんだけど、ええと、つまり、俺と結婚を前提に一緒に暮らしませんか」
考えがまとまらなくてぐちゃぐちゃのまま言ってしまった。いつもの識司の部屋の机の前、普段着のままで。帰りに花でも買おうかと思っていたことを今思い出した。雨がきょとんとしている。識司は言葉を継ごうとしてうまくいかず、諦めた。
「ごめん、もう一回やり直していい?」
雨が笑い出す。
「プロポーズをやり直すんですか?」
「それはそうじゃなくて、そもそも今のはプロポーズじゃなくて、その予告というか、プロポーズはするんだけど、こんなじゃなくてもっとちゃんとしたいから、今のはその」
ますますぐちゃぐちゃになる識司の言葉を遮るように、雨が唇を重ねた。
「嬉しい。でも、私でいいんですか」
不安そうな雨に識司もキスをした。
「あなたなら最高です」
もっとたくさんこれからの話をしたかったのに、半分もできなかった。しかしたくさんキスをした。
識司と雨は新しい待ち合わせ場所を決めた。
「おやすみ、また明日」
別れ際も名残惜しくキスをして、いつもの言葉で別れる。でもこれもあともう少しだ。
慣れた雨の家からの帰り道を歩きながら、識司は雨のことを考えた。いくらでも考えられた。
雨が好きだ。雨のためなら、何でもできる。
識司は心からそう思った。
識司は婚約の話をまずは親代わりの社長に話した。今はちょっと地元まで連れていける状況ではないのだが、それを改善するためにも一緒に暮らそうと思う、と。結婚前の同棲に社長は少し渋い顔をしたが、識司が真面目なこともわかっているし、雨も一度紹介しているから、お前なら大丈夫だろうと言ってくれた。
会社の人に冷やかされながら不動産屋のことなどを聞き、帰りに前を通ってみたりして休みの日に相談しに行く店を何件か決め、雨に必要な部屋数や設備などを確認する。とにかく早く一緒に住みたかったから、識司の会社から少し遠くなることは覚悟したが、幸いちょうどいいところが見つかった。来月から借りられることになった。
親にも報告するため、識司だけ一度実家に帰った。昔気質の両親はやはりそういうことはちゃんとしてからにしろとか、まずは連れて来いとかうるさかったが、それでも社長が電話してくれていたおかげで一通りの説教ですんだ。
しかし帰り際、母親が妙なことを言った。
「あんた、誉茉子ちゃんはどうすんの。こっちの付き合いもあるんだから、ちゃんとしなさいよ」
「何もないよ。この前駅でたまたま会ったくらいで」
「そう?誉茉子ちゃん、あんたがまだ誉茉子ちゃんのことが好きで、あっちでよく会ってるって言ってたけど」
識司は嫌な気持ちで、全然会ってない、会いたくない、と否定した。
「俺の相手は雨さん。写真、見せただろ」
「すごい美人よね!あんたがよくこんな美人を捕まえられたわって、お父さんとも話したのよ」
それは目の前で聞いてたよ、もう帰るから。識司は話の止まらない母を振り切り、駅に向かった。
何かと忙しい時期もやり過ごし、引っ越しの準備はお互いそれほど大変でもなさそうだから、識司と雨は久しぶりにゆっくりして外食することにした。
なじみになった洋食屋でまたオムライスとプリンを食べ、街を歩く。新しい住まいはここからそう遠くはないから、また来られるね、と雨は嬉しそうに言った。新しく借りる部屋はこの前2人で見に行ってきた。雨も気に入ってくれたようだった。
帰り道の駅を通りかかり、ステンドグラスを遠く見る。ちょっと来ないとひどく懐かしく感じる。雨もそう思ったのか、足を止めた。でもまた変な人に絡まれたくないからしばらく近寄らないでおく。
もう少しで、2人で暮らせる。
そんなある日、突然誉茉子は識司の会社を訪ねてきた。社長に呼び出されて驚いた。
「なかなか会えないから来ちゃった」
「困ります。帰ってください」
「だってこの前、ちゃんと話できなかったから」
「迷惑です」
識司が思わずきつい言葉になるのを、傍らにいた社長がたしなめる。そして、厳しい顔で識司に尋ねた。
「お前、蓮野さんと二股かけてたって本当か」
「嘘です」
識司は即答した。何となくそんな話かと予想はしていたから。社長は本当か、と再度確認し、識司が同じ回答をすると、そうか、とうなずいた。
「ならお嬢さんの勘違いだな。俺もこいつがそんなに器用なことができるとは思えません。清水、仕事に戻っていいぞ。こちらももうお帰りだ」
識司は社長に頭を下げて仕事に戻った。
しばらくして識司の持ち場まで来てくれた社長は、あれは誰かと尋ねた。識司は地元の酒造会社の娘で、中学の時の同級生だと説明した。
「お前と同い年であれか。甘やかされてんなあ」
誉茉子は識司の実家から勤め先を聞き出して来たのだという。識司は図面の束を殴りたくなった。もっと口止めしておけば良かった。
しかし両親の立場もわからなくはない。地元の名士の娘だ。無下にもできないだろう。だが、それでも。
社長が少し気をつけた方がいいかもしれない、と識司の肩をたたいた。
「ああいう女は、思い通りにならないととんでもないことをしでかすもんだ。引っ越しが決まってて良かったよ」
もう俺が媒酌人してやるから早く結婚してしまえ、と社長が肩をまたたたく。識司も本気でそうしようかと考え始めた。