第9話 魔女の婚約者
ステンドグラス前の待ち合わせも回数を重ね、雨は待ち合わせ場所のちょっとした名物になっているようだった。雨は特徴的な容姿だし、美人だ。識司は会社の人にそれを聞いて、場所を変えようかと相談もしたのだが、雨はあまり気にしていないようだった。
識司は雨に部屋の合鍵を渡し、いつでも入っていいと言っておいた。そのため、時々朝起きると一緒に布団に寝ていたりする。だが、雨は帰り道の買い物や、並んで町を歩くのが好きなようで、待ち合わせをすると嬉しそうだった。識司もステンドグラス前の雨が好きだったので、待ち合わせは続いた。
初めて雨と外食に行ったのは、会社の人に紹介してもらった小さな洋食屋だった。事前に少なめにと頼んでおいたので、雨も小さなオムライスを残さず食べた。
落ち着いた店で、雨は初め緊張しているようだったが、食べ終わった頃にはだいぶくつろいで、興味深そうに店内を見回していた。デザートのプリンも、識司が作るのとは違って果物やクリーム、アイスが乗っているものだったが、嫌がらずぺろりと食べていた。この頃にはだいぶ雨の偏食もなくなり、食べられる量も多くなっていた。
雨はこれで自信がついたようで、しばらくあちこち外食に行きたがった。初めてのものもかなり食べるようになり、それでもいやだったり、食べきれない時は識司に頼むと言う技を覚えてからは、もうすっかり外食を楽しめるようになった。食べ物もたくさん覚えた。やはり一番はオムライスだが、たまごサンドやパンケーキもよく食べる。そういえば少しふっくらしてきたようだ。以前は痩せ過ぎだった。
恋人ができて仕事が疎かになったと思われてはいけないから、識司は資格を取るため勉強することにした。雨は構わなくてもそばにいれば嬉しいようで、そんな時は隣で静かに本を読んでいた。合格した時は一緒にケーキで祝った。給料もほんの少し上がった。
識司はいずれ実家の工場を継ごうと思っていることを話した。その時が識司にとっては一番覚悟が要った。人も雇っている工場とはいえ、田舎の零細企業だ。苦労の方が多い。今より雨を構えなくなるかもしれないし、お金の苦労も、もしかしたらさせてしまうかもしれない。そうならないように今頑張っているけれど、先のことはわからない。でも、その時が来たら、ついてきてほしい。
話すまで何日も悩んだが、打ち明けられた雨は即答した。
「はい。連れて行ってください」
悩み事や将来の事など、大切な話を話すのは2人で川原を散歩している時が多かった。そう決めた訳ではないが、人のまばらな夕暮れ時に少し離れた川原の遊歩道を歩く時、2人で同じ方向を見て歩いている時は、言いにくいことも切り出し易い気がした。
雨が子供を授かれないと打ち明けたのも川原でだった。識司が実家の話をして何日か後だった。会えない日が続き、久しぶりに会った日に散歩しながら、雨は震える声で、昔体を壊した時にそう診断されたと告げた。言い出せなくてごめんなさい、と雨は泣いた。雨の涙がおさまるまで、ふたりで遊歩道から少し離れて川の音を聞いていた。識司はつないだ手を離さなかった。
識司は改めて雨に好きだと言った。
「俺には雨さんが必要です。雨さんがいいんです。それは何があっても、ずっと変わらない。好きです」
雨の返事は待たなかった。
その日初めて唇にキスした。
識司が休みの日は、よく川原で薬草を探したり鳥を見たりした。識司の知る草や鳥の名前が方言、地域だけでの呼び名だということがわかって驚いた。あの鳥はアリョウではなく椋鳥というらしい。
雨は生き物が好きだった。全てに名前があることを理解したときはすごい勢いで百科事典をめくっていた。雨は一度見た本は全て覚えてしまうそうだ。資格試験で苦労した識司は羨ましく思った。あれなら試験前に本を読んだら済んだのに。
冬になり、鴨が飛来してくるようになると雨はわくわくと鴨を眺めた。渡鳥が好きらしい。この時期は烏も渡ってくるようで、雨は渡り烏には伝言しないように、伝わりませんからと言ってきたが、識司には区別もつかない。でもこの頃には烏の顔もほんの少し見分けられるようになっていたから、待ち合わせの時間はいつもの烏にお願いした。地元の烏は何となく地元の顔をしているし、お互い顔見知りになった気がする。今度何かお礼でもしたい。
そう思って雨に烏の好きなものを尋ねたら、白髪で眼鏡のおじさんのフライドチキンを薦められた。野生のものに油過ぎるし、鳥だし、と躊躇うと、雨はこともなげに烏は雑食ですから鳥も食べますし、油好きですよ、と返した。お礼だと言っておきます、喜びますよ。雨が言うように休みの前日バケツ型のフライドチキンを買ってきて会社の目立ちにくいところに置いておくと、月曜日にはきれいに紙の箱だけ残されていた。お礼ができて識司は少しほっとした。
翌年識司はひとつ上の試験にも合格できた。勤続年数のおかげですぐ受験できて良かった。今の会社では何もなりはしないが、ともかく国のお墨付きをもらえたのは嬉しかった。雨も喜んでくれた。
この頃は識司と雨もだいぶ恋人らしくなっていた。それなりに恋人らしいことも越えてきた。ケンカも何度かしたし、仲直りもしたし、唇に触れるだけではないキスもしたし、他にも色々。雨の偏食は以前ほど目覚ましく改善はしなかったが、献立に気を使わなくて済むくらいには食べるようになり、たまの外食はふたりの楽しみだった。
雨は相変わらず魔女の仕事は続けていて、満月や新月の日は会えないことが多かった。それ以外にも注文が立て込んだりすると外出できなくなるようだった。
魔女の雨の評判はその頃日を追って高まっていた。薬や護符の注文は直接受けるものの他に、雨が修業してきた恐山の姉弟子から来るものもあった。師匠の妹で、師匠が亡くなった今は北方の魔女を総括しているらしい。この頃の雨は疲れていることが多く、識司といても眠ってばかりいた。識司は雨の体を心配した。ごはんをたくさん食べられるようになって、かなり元気にはなったが、もともと丈夫な方ではない。雨も限界を感じたようで、姉弟子に事情を話し、受注を減らしたいと相談した。雨の半世紀年上だという姉弟子はそれを了解し、雨の薬の値段を倍にした。しかし受注量は半分にはならなかった。雨の薬や護符の評判はひどく良かった。加えて、街角での占いの派生で出張で占いも受けていた。こちらも姉弟子を通して破格の値段を設定したが、思ったより減らなかった。
会えない時が長引くと、雨は少し不安定になるようになった。同じひとりでも、ただのひとりと、会いたい人がいるのを我慢しているときのひとりは違う。識司はなるべく会いに行くようにはしたが、どうしても時間が合わない時、雨は突然仕事を投げ出して勤務中の識司に会いに来たりした。社長には識司の雨との馴れ初めや経緯を説明していたから良かったけれど、それより雨の仕事の納期に支障を来たしはしないかと識司は心配だった。
雨は魔女でなければ自分の存在価値はないと思っている節があった。識司と会って、雨という価値に少しは気付いたようだけれど、それでも魔女の力がなければ世間に必要としてもらえず、識司にも迷惑をかけると信じているようだった。
識司は何度も魔女は少し休んでも、辛いならやめてもかまわないと話したが、子供も持てず、仕事でも役に立てないなら私はいない方がましだと雨は泣いた。そんなことはないと識司がいくら言っても雨を納得させることができなかった。雨は雨の価値を理解できなかった。
その日、識司は久しぶりに雨と待ち合わせてステンドグラスの前に立っていた。今日は識司が先に着いた。少し心を落ち着けたくて早めに来たのだ。
識司は雨に一緒に暮らさないかと聞いてみるつもりだった。会えない日が続くのは識司も辛かったし、疲れた雨を支えられないのが何より堪える。
同じ家にいられたら少しでも顔が見られる。一緒には食べられなくても、同じごはんを食べたら相手を感じられる。眠っている相手の隣で眠れる。
こんな時だから、結婚を申し込んだら雨をますます追い詰めてしまうかもしれない。だから、そのつもりだけどそれはもう少し落ち着いてからにする。まずは結婚を申し込むことを前提として、今を乗り越えるために一緒に暮らそう。そう、相談しよう。
もし雨が今すぐ結婚したいと言えば、識司はそうするつもりだった。雨のことは親に話してあるが、まだ会わせてはいない。結婚するとなれば挨拶や顔合わせや、雨の苦手なことが増えるから、しっかり雨を支えたい。
指輪を買えるくらいの貯金はある。雨の収入に比べたら微々たるものだが、約束の指輪を贈れば雨はきっと喜ぶだろう。識司はどれがいいかなんてわからないから、一緒に雨に似合う指輪を買いに行こう。
雨の細い指を早く握りたい。
「あら、清水君じゃない?」
突然声を掛けられて識司は驚いた。振り返ると、派手なパーマの女性がにっこり笑いかけていた。派手な化粧、派手な服。同い年くらいだろうか、それにしたらスカートが短過ぎるし、連れらしい男性も年の割に若作りで甘えた感じで、こんな往来でべたべたして少し気持ち悪い。
合わない。直感的に識司はそう思った。
「何よ、わからない?私よ、誉茉子よ。有澤誉茉子。中学の時同じクラスだったじゃない」
「ああ」
識司は曖昧に笑った。合わない訳だ。
彼女は初めて告白された相手であり、初めて告白した相手であり、雨に出会うまで識司が女性に苦手意識というかむしろ恐怖感を持つ原因となった人だ。そして取り巻きは地元の同級生の平野と、下級生の原田と小西だ。この地方一番の都市で、あの町の面々と出会うとは。
こんな時に。
識司は話をしたくなかったが、誉茉子は暇らしく聞きたくもない現状の報告を始めた。こちらの大学を卒業し、花嫁修業中だという。平野が、遊びたいだけだろう、何人の花嫁になるつもりだよ、と茶々を入れた。
「清水君は実家継がないの?いいわね、清水君のところくらいだと気楽で。私のところはそうもいかないでしょう。まさか私の代で廃業はできないもの」
識司は黙っていた。もう用事があるふりをして移動し、どこかで時間を潰そうか。しかしそろそろ待ち合わせの時間だ。
「でも今日も魔女いないすね。やっぱり都市伝説なんじゃねえの」
原田がまわりを見回した。識司はぎょっとした。
「いるよ、俺この前みたもん。誉茉ちゃんなんか目じゃない美人だったぜ」
小西がむきになって答える。そうか、誉茉子たちは雨を見にきたのだ。
誉茉子は2クラスしかない田舎の中学校のマドンナだった。あの中では可愛くて、家も裕福だから持ち物なども垢抜けていて、男の子はみんな彼女に憧れた。
しかしこちらの大都市にくると誉茉子くらいの女性はごろごろいる。誉茉子はしかしまだ田舎のマドンナのままなのだろう。識司がまだ彼女を好きだと言った時のままだと信じて疑わず、自分がいちばんきれいなはずだから美人と評判の雨と比べにきたのだ。
「ごめん、俺ちょっと用事があるから」
識司は慌てて誉茉子に言ってその場を離れようとした。雨と会わせなくなかった。いつも雨が来る方へ向かおうとして、識司は足を止めた。
まわりの視線を一身に浴びて、長い白い髪を揺らし、黒いワンピースをはためかせるほど早足で、その美しい人は真っ直ぐ識司に向かってきた。
「識司さん」
美しい顔をなお幸せに輝かせて、雨は識司の手を握り、名前を呼んだ。
「お待たせしました。行きましょう」
「誰よ、その女!」
誉茉子がすごい声で叫んだ。駅が一瞬静まるほど。驚いて識司に掴まる雨をかばうように立ち、識司は静かに言った。
「俺の婚約者だよ。行こう」
識司は雨を連れて誉茉子を残したまま雑踏にまぎれた。