約束は破るためにある。
フラウの蟇蛙。と呼ばれる令嬢が居る。その姿、まこと見るに堪えず、醜悪。ぶよぶよと醜い脂肪を纏い、皮膚は弛み段を重ね、常に汗を掻き、目は虚ろ。汗で張り付いた髪は風に攫われることもなく、てらてらと鈍く光を反射する。自ら歩くことすらままならず、常に車輪をつけた椅子を従者に押させている。
「では、契約を確認致します。
一つ、夫婦は白い結婚である。互いに干渉せず、求めず、自由であること。
一つ、お互いパートナーが現れた際は、これを認め、第二夫人、愛人とする。
一つ、第二夫人との子を跡継ぎとする。
一つ、サリア様は内政、ないしは領内のあらゆる権限をゲルド様へ譲渡する。
一つ、それにあたり、ゲルド様はサリア様から求められた金銭その他生活を保証する。
以上でよろしいですね?」
明るく輝くテラス。美しく整えられた庭。今日を祝福するような快晴。そして、呪われたような目の前の女。今日、俺はこの醜い蟇蛙と結婚する。式は挙げない。書類だけの結婚。この醜い女は、王家に次ぐ権力を持った公爵家の娘。俺は、その娘を国王様から押しつけられた。眩暈がした。国の為に尽くしてきた。命をかけて戦ったことも、数え切れないほどある。それなのに、この仕打ちか。騎士団長としての俺と、目の前の女は同格だと。ああ、本当に。
「勿論。」
「…構わない。」
逆らえない国王様への抵抗として論えた、契約。それを送りつけて尚、更にこちらに利がある条件を添えられ、結婚は決まってしまった。ただ一言発することすら出来ないのか、指を動かし、控えている従者が応える始末。その間も、本人は大量の汗を掻き、肩で息をしている。
「では、これにて、夫婦と相成りました。おめでとうございます。」
棒読みで言祝がれ、書類は神官の手で神殿へ運ばれていった。残されたのは、夫婦になった俺達と、互いの従者。
「やった…ついにやった…。」
何を言うべきか、これからの生活を思うと、既に億劫になっている。そんな俺の耳に、聞いたことの無い女の声がした。…誰だ?ここには男しかいない。サリア嬢は、声帯が病気により潰れていて声が出ないはずだ。
「いいいいいやっほおおおおお!!!!」
ガタン!と音を立てて倒れる椅子と、勢い良く立ち上がったのは、サリア嬢。驚き、呆然と見つめてしまう。た、立てるのか?歩けないのでは?そもそも、今喋ったか?
「ほら見ろジェイス!だから言った通りだったろ!どんな不良債権だろうと、金と権力が欲しい奴はいるんだよ!買い手がつく市場で我を通すなんざ朝飯前!」
令嬢とは思えない口の悪さで、鈴を転がすような笑い声がする。見た目と声の差について行けない。
「ちっ、仕方がありませんね。賭けはお嬢様の勝ちです。」
「ふふーん!じゃあ、三日後の建国祭はジェイスのおごり!」
「了解しました。」
唖然としている俺に、ぐるんっと勢い良くサリア嬢が振り返る。そのまま指を鳴らすと、蟇蛙がかき消えた。
「じゃあ、旦那様。後はよろしくお願いします。私は離れに住みますので、お構いなく。」
現れたのは、黒く艶のある髪を靡かせ、アメジストの瞳を輝かせて笑う、女。ジェイスと呼ばれた従者すら、霧のようにかき消え、身なりの良い侍女になってしまった。
「はっ、え?」
「ひゃほーっ!自由だぁあ!独身貴族を謳歌できないと知った時は泣きそうだったけど、諦めなくて偉かった私っ!魔法様々!わーいっ!」
「お嬢様、そろそろ下町のパンが焼き上がる時間です。急がねば。」
「はっ!売り切れる!旦那様、いってきます!」
嵐のように輝く笑顔を振りまきながら、サリア嬢とジェイスは走り出して。
「ゲルド様、一つ、よろしいでしょうか。」
「…なんだ。」
「初恋は叶わないモノらしいですよ。」
「…うるせぇ。」
じわじわと熱の集まる顔に、手を当てて空を仰ぐ。ああ、くそっ。とりあえず、今出たばかりの神官を捕まえて、書類を破棄させるところからだ。