その3
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二人は昨日の大鷲の残りを朝食に、早朝から街道を進み、昼前に依頼が発生したウォーウルフのいる森の中にへやってきた。
森を抜けるよう作られた街道は、山脈の谷間を抜け隣国へと繋がっている。たまに夜盗や山賊が道行く商団の馬車や冒険者を襲うらしいが、今はウォーウルフの群れの噂が流れているのか、人が潜伏している様子はない。
この国と隣国を繋ぐ道は二つ。
北の街道からぐるりと山脈を迂回するルートと、この谷間の森を抜けるルートだけ。
「重要な依頼だったんだな」
「ああ、だから俺一人じゃ受けられなくてさ」
体のいい断り文句だったのでは? と、頭に浮かんだが、ユージーンは言わなかった。そんなことならEランクの依頼として出さなければいい。
「ウォーウルフの数は?」
「そこそこ」
「……貸してみろ」
依頼書を受け取って確認すれば、本当にそこそこと書いてあった。
ここのギルドはどうなっているんだ。冒険者になる場所を間違えたか? と不安に襲われていると、ハイリッシュが笑った。
「この辺りのウォーウルフってさ、メスがアルファなんだよ」
「メスが?」
「そ。だからメスを倒せば終わり」
雄同士では群れを維持できないから散っていき、結局他のモンスターに食われておしまい。そう言われると確かに難易度は低そうだが、それはリーダーを見分け効率よく倒せる者の言い分で、雑兵すべてがオスの方が手間取るのではないだろうか。
「なぁ、ハイリッシュ。ウォーウルフのオスとメスを見分ける方法はあるのか?」
「デカいのがメス。中くらいがオス」
「……そうか」
適当だった。せめて文法的に、小さい方がオスだと言ってほしかった。
とりあえず、群れを見つけよう。
意見が一致した二人は、街道から続く森の道を歩いた。けれど群れは見つからず、もう少し奥まったところにいるのでは? という話になって、道から逸れ、森の中を歩くことになった。
ユージーンは森の中を行きながら、頭の中の地図に大剣を振るえる場所に印をつけて歩いた。隣を歩くハイリッシュはどこか楽観的で、木々に隠れた精霊を見つけると、ユージーンの袖を引いた。
「ほら、どこにでもいるだろ?」
「そうだな」
言いつつも、ユージーンの心は他にあった。
そんな緊張を隠さないユージーンに、ハイリッシュがため息を吐く。
「お前の殺気で出てくるもんもいなくなるって」
「でてくるー?」
「なになにー?」
「ウォーウルフだよ。お前ら知ってるか?」
何の気なしに聞いているが、ユージーンは奇跡を見るように目を細めた。
「いるよー」
「ここからあっちー」
「めすがりーだーのやつー」
三匹ともが指(精霊には指が無いので、正確には腕ごと)指した方向へ進むと、少しずつ森が深くなっていった。先陣はユージーンがきった。彼は両手で生い茂る草をかき分け、道なき道を進んでいく。ハイリッシュはその後ろで若干怖気づいていた。
「大丈夫か?」
「な、なんてことねぇよ!」
人の手の入らない森に、人間の居場所など無い。ましてやそこが魔物の住む森であればなおさらだ。ハイリッシュたちは今、確実に餌として森の中にあった。
「止まれ……なにか聞こえる」
「え? マジで?」
立ち止まるユージーンの脇の下から覗きこんだ前景に、ウォーウルフはいなかった。ただ、確かに気味の悪い視線のようなものを感じる。
「な、なぁ。お前の剣ってここでも振るえんだよな?」
「わからん」
「わからんって……」
「走れっ!」
ウォオオオオオオオオ……ン。
ユージーンが叫ぶと同時に、遠吠えが聞こえた。
あまりに間近で聞こえたそれは、音だけでなく空気の振るえすらユージーンたちに届けた。鼓膜を劈く咆哮が止むと、二人の背中を悪寒が駆けた。静寂が肌を刺す。ピンと張った緊張が意味するのは、死が二人を追い立てているという事実だった。
「ゆ、ユージーン!」
「いいから走れ!」
ユージーンの大剣が振るえる場所に戻るため、走った。そこまで戻れば勝機はある。彼は前方で転びそうになったハイリッシュを担ぎ上げると、更に速く駆けた。
馬がいれば。
騎士の時代の名残がチラリと過る。けれどすぐにこんな森を歩かせるわけにはいかないと、己の考えを一笑した。
「広場にでたら反撃する!」
「わ、わかった!」
藪の中の小さな枝が、肌を切り刻んでいくのも意に介さず、ユージーンは森を駆け抜けていく。
ただ、本来なら人の足などすぐに追いつかれてしまうというのに、ウォーウルフはまったく姿を見せなかった。おかしい。そう考えられるようになる頃には、二人はすでに彼らの罠にはまっていた。
幸か不幸か、ユージーンの脳内マップに印していた、広い所に出た。近くの藪から獰猛な唸り声が聞こえた。それが四方からだったので、ユージーンは担いでいた大剣に手をかけ、ハイリッシュを投げ捨てた。
「巻き込まれるなよ!」
「ぶへっ!」
思いっきり後ろへ放り投げられたハイリッシュが「なにすんだ!」と叫ぼうと大きな口を開けた。瞬間だった。
ウォオオオオオオオオオオオンッ!
「――っ!」
ザザザッ! と、藪を抜けてきたウォーウルフが一斉に襲い掛かる。他方から飛び込んできた影は五つ。そのどれもが同じくらいの個体。恐らくオスだ。
(多いっ!)
ユージーンは素早く剣を抜くと、一拍早く飛び込んできた中央のウォーウルフの牙を受け止めて凌いだ。だが、他のウォーウルフは止まらない。
「くそっ!」
受け止めていたウォーウルフの力を利用して、その体を後ろへ吹っ飛ばし、後方へ仰け反った体を器用に畳むと、前へ転がり攻撃を避けた。ビリッと服が破れる音がしたが、そんなことに気を取られてはいられない。
「はぁっ!」
体勢を立て直したユージーンは、片膝をついたまま剣を構え、囁くように詠唱し始める。体中を流れる魔力を左手に集めると、手のひらが燃えるように熱くなった。
魔法。
この世界に生きる者の身体を流れ、言霊を介し、己が求める姿へ構築していく唯一の力。
「燃えろ……」
手のひらに集めた魔力が爆炎となり、火の粉を散らし立ち昇っていく。ユージーンの鈍色の髪がし赫灼に輝く。柘榴のような彼の瞳に閃光が走った。
「『轟爆一閃』ッ!」
ユージーンが振り切った大剣の軌跡を、赤い光が追いかけていく。その光は、まるで意思があるようにウォーウルフの前で収束し、小さな球になった途端、途方もない爆発をみせた。
「うわぁっ!」
あまりの熱に肌を焼かれ、ハイリッシュは堪らず両手で顔を覆う。キャイン! と、ウォーウルフの鳴き声が爆発にかき消された。
「す、すげぇ……!」
粉塵が収まったのを見計らい顔を上げれば、先ほど襲ってきたウォーウルフの影すら無くなっていた。
「やったか!」
「まだリーダーがいる」
大剣を鞘に戻し担ぎなおすと、ユージーンは森の先のある一点を見つめた。
「そっちにいるのか?」
「わからんが、さっきのウォーウルフと戦ってる最中、一瞬だけこちらから殺気を受けた」
ハイリッシュに答えながら、ユージーンは迷わずそちらへ歩いていく。焦げ付いた地面を大股で抜けると、微かに気配がした。
「迎え撃つんだろ?」
「そうなればいいが」
連携を取る頭があるのなら、こちらの動きを想定し狭い場所に潜むかもしれない。仇討ちする絆がなければ、ウォーウルフのリーダーは逃げるだろう。
「リーダーは逃げるだろうか?」
「どうだろ?」
「いるぞ」
ハイリッシュのカバンから、あの精霊が出てきた。ピロピロ飛びながら指さす方向は、やはりユージーンと同じ。
「来るか?」
「はくじょうなリーダーはもてないからな」
「違いない」
人間と一緒なのかと笑ってしまえば、少し緊張がほぐれた。
「俺も戦うからな!」
「……ああ」
宣言するハイリッシュから精霊に視線をやれば、プリズムカラーの体がどぎつい色で煌めいていた。
精霊の指示に従いユージーンたちは再び森の中を歩いた。
最初の一撃で多少血を被ったユージーンは、ハイリッシュに少し離れて着いてこいと言った。だが、彼は聞かない。
「俺だってやれる!」
「無理はするなよ」
頑張らなければという気持ちは嬉しいが、何かあったときの精霊が怖い。彼らは好きなものにはデレデレだが、嫌いなものには死をもたらす。
「いいか。けっして無理はするな。できるだけ俺に任せろ」
「なんだよ俺だって冒険者だぞっ!」
キィ! と言い返されるも、ユージーンは聞く耳を持たない。
「絶対にケガをするな」
「オカンかよっ!」
そう思われてもいいと思えるほどに、精霊の恨みが恐ろしかった。ユージーンは世界が終焉するような爆弾を抱えて依頼をこなす羽目になった、己の不運さをちょっとだけ呪った。
「おい、いるぞ」
「どこだ」
ユージーンの前を飛んでいた精霊が指したのは、崖の下に掘られた小さな穴だった。巣にしているのか、風に乗って中から獣の臭いがする。
「中に何匹いるか分かるか?」
「まて……にひきだ」
少ない。
「周りには?」
「……いる。まて、くる!」
ヴォアアアアアアアッ!
最初は影だった。
精霊の一言にユージーンが見上げれば、晴天の中に大きな影が一つ。崖の上から飛んできた巨躯が、彼らの真上でもう一度吠えた。
この隙を狙っていただろうウォーウルフのリーダーは、ユージーン目がけて牙を剥く。咄嗟に剣を抜こうとしたが、枝が邪魔でほんの刹那、隙ができた。
「しま――っ!」
咄嗟に顔の前に左手を出し、防ぐ。
「ユージーンッ!」
後ろにいたハイリッシュが、彼の名を叫んだ。
グッ――。
アアアアアアアアアアア……ッ!?
ウォーウルフはユージーンの手に噛み付こうと大口を開けたまま、彼の目の前を、水平に吹っ飛んでいった。
「……っ!」
一瞬の出来事だったが、たしかに。
たしかにあの顔が見えた。
自分より大きな二頭身のらくがき顔が、空中でウォーウルフの顔にシャイニングウィザードをキメながら、一緒に滑るように飛んでいった。
ドガァ! と、打ち付けた体で木々をへし折りながら、ウォーウルフが飛んでいく。舞い上がる砂埃で詳細は見えないが、見たくない気持ちが強かった。
「………………」
まだ終わっていないというのに、緊張に強張った体を、抗えない虚脱が襲う。
一瞬だったし、そもそも精霊が肉弾戦などするか。魔力の塊のような生き物がなぜ肉弾戦を選ぶ。そう思うのに。
「おらっ、おらっ」
吹っ飛んでいった方向からゴッ、ゴッ、という音とともに低い声が聞こえてくる。何をしているのか、容易に想像できたが、信じたくなかった。
「……ハイリッシュ」
「え? なに?」
襲われる瞬間目を瞑っていたらしいハイリッシュは、疲れた表情のユージーンの真意に気づいたりはしない。
「その、精霊の攻撃は、……いや、なんでもない」
「なんだよ! 言えよ!」
ハイリッシュが額を押さえて首を振るユージーンのマントを引っ張るも、彼はどんより顔を向けるだけで、続きを話そうとはしなかった。
「おい」
しばらくユージーンが立ち直れないでいると、ハイリッシュの相棒の精霊が、彼を呼んだ。振り向けば彼はまたあの洞穴を指していた。
そういえば、精霊はあの中にウォーウルフが二匹いると言っていた。
「見てこよう」
気を取り直したユージーンが洞穴の中に入ると、キュゥンキュゥンと鼻を鳴らす、二匹の子どものウォーウルフがいた。二匹はユージーンを見つけると唸り声をあげ、耳を水平に小さな牙を剥く。
「……悪いな」
ウォーウルフの群れの討伐には、この小さな命も含まれた。
ユージーンは大剣を掴むと、ウォーウルフが苦しまないよう音も無く剣を振るった。
「終わったか?」
「ああ、小さいのがいた」
「そっか」
お疲れ、と。ハイリッシュがユージーンを労うと、ガサガサと音がしてウォーウルフと共に飛んでいったあの大きな精霊が現れた。
「返り血が……」
ぐいと顔をぬぐう精霊は、確実に殺っていた。倒したのかと聞く前に結果がわかることを、ユージーンは複雑に思った。
「汚れてんぞ」
ハイリッシュはカバンの中からマントを取り出し、精霊の顔をグイグイ拭いた。こそばゆい気持ちらしい精霊が、戸惑いながらも嬉しそうになすがままにされている。
「もうウォーウルフはいねぇかな」
「たぶんむれはおわり」
「そっか。リーダーを倒すなんてすごいな!」
褒められた精霊の顔がパァと輝く。よくよく見れば、このシャイニングウィザードをきめた精霊は、昨日見張りを変わってくれた精霊だった。
「どうして、その……肉弾戦なんだ?」
「いちゃもんか?」
「違う」
絶対に避けなければならない誤解に首を振れば、まぁそうだよな、と。なぜかハイリッシュが頷いている。
「俺もさぁバーンって魔法使う方がかっこいいと思うんだけど。あ、そういやユージーンの魔法、すっごいかっこよかったな!」
「そうか」
こうシュッとしてバーンッて感じ! など言って身振り手振りで真似をするハイリッシュに多少気恥ずかしさはあるものの、悪くはない。
「……ぼくらもできるよ」
「え?」
「しゅっとしてばーんでしょ」
キュィイイイイイと何かを溜める音がした。見れば、あの大きな精霊が両手に魔力を溜めていた。顏よりも大きな魔力の球の破壊力は、どう見てもシュッとしてバーンでは済まないだろう。
「ちょ……」
「ほら」
ピィイイインと、弾ける音とともに目に見えない速さで球体が飛んでいった。音速をも超える速さの魔力の塊は、森を挟む左側の山脈にぶち当たると、世界の終わりを告げるような轟音とともに目を焼くほどの光を発し、山の中腹を丸く抉った。
形を保てなかった山が、地鳴りとともに崩れ始めると、木々で憩う鳥たちが一斉に飛び立ち、沢山の動物が四方八方へ逃げていく。
遠くの山が吹っ飛んだというのに、彼らの所まで揺れは訪れ、爆風に仰がれた木々の葉がペシペシ顔に当たっては遠方へ飛んでいく。ようやく揺れと爆風が収まると、どや顔の精霊がフンフンと胸を張っていた。
厄災を思わせるその破壊力。
ユージーンはその恐ろしさとやっかまれた事実に、ひっそりと気配を消す。
「なんなんだよこれ!」
「しゅっとしてばーん」
きゃっきゃと笑う精霊たちは、はたしてどこまで本気なのだろう。
「いや、お前らのそれはちょっと違うわ」
あれだけの威力に首を振っても恨まれないこの少年は、なんなのか。
「……帰るぞ」
とりあえずこれ以上の破壊は許されない。
ユージーンは首をかしげる精霊に、ジェスチャーであーだこーだ伝えようとするハイリッシュを止めると、そそくさと森を後にした。
*
ギルドに帰り報告を入れると、すぐに依頼達成を認めらた。
たった一度の討伐で、ユージーンはEランクに、ハイリッシュはDランクに上がった。
「本当はDランク相当の依頼だったんですけど、人手が足りなくて」
苦笑する受付嬢に無言で頭を下げ、二人はギルドの外へ出る。
最後にあの爆発のことも聞かれたが、ユージーンは知らぬ存ぜぬを貫いた。
「これ依頼料。半分な」
ん、と差し出された小袋を受け取ると、チャリという音とともに確かな重みを感じた。考えれば、ハイリッシュはなにもしていないような気がしたが、精霊がいなければもっと時間がかかっただろう。
「世話になった」
「俺がだよ。ありがとな!」
もしかしたらこの少年の才能は、こうして素直に感謝できることではないだろうか。笑顔のハイリッシュを見下ろしたユージーンには、それが正解のように思えた。
「ハイリッシュはこれから都市を目指すのか?」
「おお! 今度こそセイレイシって認められてやるぜ!」
「そうか」
本当は、ならない方がいいような気がした。
ハイリッシュの性格は、何かとうるさい貴族や官職とはきっと合わないだろう。だが、彼をこのまま自由にしていいのか、ユージーンには分からなかった。
「……ハイリッシュは、セイレイシになってどうしたいんだ?」
「ん? そうだな……」
とにかく認められなくて、嘘だと言われてムキになっていたのだろう少年は、ユージーンの問いかけに少しばかり考える。
「セイレイシになってやりたいことはわかんねぇ。でもさ、俺の職業ってセイレイシ以外には無いだろ?」
だからしょうがない。
そういうハイリッシュの顏は少し困っていて、不思議とユージーンは、彼をこのまま自由にしておきたい気になった。だから彼は珍しく、余計なことを言うことにした。
「別になんの職でも、お前はお前だろう」
「……でもさ」
「俺は騎士になって、騎士として振る舞うことの窮屈さを知った。精霊士も同じだ。きっと、認められればお前も精霊士として振る舞わなければならなくなる」
できないとは思わない。
だが、失うものも多いことを知ってもらいたかった。
「俺に、セイレイシになるなってことか?」
「そうではない。けれど、一度なればもう戻れないということは、覚えていろ」
「……わかった」
素直に頷いたハイリッシュの頭を、ユージーンはその大きな手のひらで撫でてやった。末っ子の彼がこんなことをしたのは、きっと兄の影響だろう。
急に家族が恋しくなった自分に苦笑すると、今まで黙っていた精霊がピロピロと彼の前に浮かぶ。
「おまえ、わるくなかったな」
「それは良かった」
どうやらハイリッシュのパートナーとして、及第点を貰えたらしい。息を吐くついでに笑ってやれば、「いちどかえれ」とユージーンにだけ聞こえるよう囁かれた。
「もう少し寄り道してからな」
「きをつけろよ」
「お前たちもな」
まさか最後にこんな会話をすると思わず、苦笑する。ユージーンにとって彼らは一生忘れられない思い出だ。
「もう行くのか?」
「ああ、いい経験をさせてもらった」
少し寂しそうなハイリッシュに礼を言うと、彼は右手を差し出した。ユージーンも黙って右手を差し出し握手を交わす。
「もし、「アインライト」に来ることがあれば、寄っていけ」
「お前はどこにいるんだよ」
「そんなの、精霊に聞けばいいだろう」
知らずとも教えてくれる存在が、彼にはいる。
とりあえずあの山を破壊したことが大事になる前に出ていこう。
ユージーンは笑顔で手を振るハイリッシュを一度だけ振り返り、同じように手を振ると、わき目もふらず街を出た。
のちに「最初の気まぐれ」と評されるこの出来事は、何も知らない元騎士と、嘘だと言われ隠匿された百二十四番目の精霊士、そして二人目の精霊司の出会いとして、長く語り継がれることになる。
精霊司、ハイリッシュ。
彼と共にいた精霊は、のちに新しき五番目の王としてこの世の理に鎮座する、精霊が自らの意思で作りあげた、生まれたての自我だった。
彼こそがハイリッシュを友に選び、精霊全てのよき友として彼の存在を全ての精霊に受け入れさせた張本人(精霊なので人ではないが)であり、ハイリッシュが常世へ行くまで、ずっと彼の側にいたという。
ユージーンは数年経たず、アインライトへ戻った。
うっかり精霊に気に入られた彼は、彼を追放した貴族や騎士たちが精霊にどんな仕打ちを受けたのかしらない。だが、王家騎士団が直々に迎えに来たことを鑑みれば、なんとなく想像はできるだろう。
彼は結局噂の相手であった王女と結婚し、生涯王家の騎士として大剣を振るった。
アインライトの英雄となる彼の噂が、女好きから女運のない男に変わるまで、もう少し。
二人の道行は一度別れ、次に会う時にはきっと、またとんでもない物語が待っている……の、かもしれない。
おしまい