傘がない
いつも読んでくださってありがとうございます。
高校時代の友人である春樹が、交通事故に遭って入院した。
「もう何日も意識が戻らない」
見舞いに行った病室で、春樹の家族からそう聞いた。彼の家族は瞼を腫らしながら、最悪の事態も覚悟しなくてはならないと俺に語った。
――こいつが死ぬ……?ほんの数ヶ月前まで一緒に高校で授業を受けていたのに?
大学生になってからあまり連絡をとっていなかったので、本当に寝耳に水といった感覚だった。穏やかな顔で目を閉じる友人の顔を見ていても、まだ受け入れることができない。
彼の家族が用事で帰った後も、俺はずっと春樹の手を握って話しかけていた。ほとんどは高校時代の思い出とか、そういった昔話ばかりしていたと思う。
「こんにちは。春樹のご友人の方ですか?」
しばらくして、後ろから声をかけられた。春樹に話しかけることに夢中だった俺は、誰かが病室に入ってきたことに気がつかなかった。
「はい、彼の高校時代の友人です」
そう言いながら後ろを振り返った俺は、思わずはっと息を呑む。
とても綺麗な女性だった。染められた明るい茶髪に、すっと筋の通った鼻。形の良い唇。一瞬、春樹を迎えに来た天使か何かなのではないか、とさえ思った。それほどに美しい女性が、俺の後ろに立っていた。
「そうなんですね」
彼女はそう言ってふっと微笑んだ。
薄暗かった病室に、すっと陽光が差し込んだような気がした。
「私は春樹の恋人の、橘優香と言います」
そう言って丁寧に頭を下げる彼女。しばらく見惚れて、俺も慌てて頭を下げた。
「すみません、名乗りもせずに。僕は原田淳と言います」
「いえいえ」
ゆっくりと首を横に振って、彼女は優しく微笑む。彼女は春樹を優しい目で見つめながら、俺の隣の椅子に腰掛けた。
「よろしければ、春樹の高校時代の話を聞かせていただけませんか?」
そう言って優香さんは透き通った目で首を傾げた。俺は彼女を喜ばせようと、春樹との高校時代のエピソードを面白おかしく語った。俺が何か話すたびに楽しそうにくすくす笑う優香さん。春樹は幸せ者だなぁ、などと考えながら、俺は優香さんの笑顔と春樹の寝顔を交互に眺めていた。
「あ、私もういかないと」
気がつけば1時間近く談笑していた。優香さんが思い出したように立ち上がって、そのまま俺に頭を下げる。
「原田さん、今日は話せてよかったです。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。僕も橘さんと話せてよかったです。春樹をよろしくお願いします」
俺も頭を下げ返す。そんな俺に、優香さんはまた微笑んでくれた。
「春樹、また来るね」
最後に愛おしそうに春樹を見つめてから、優香さんは病室を出て行った。彼女が去ってからしばらく経っても、俺の脳から彼女の笑顔は消えてくれなかった。
俺はその日から、毎日春樹の入院している病室に通った。病室でたまに優香さんに会えると嬉しかった。しかし、春樹の意識が戻らないのに喜んでいる自分に、ちくりと胸が痛むこともあった。
優香さんと春樹は大学で出会ったらしい。同じ学部の同級生。授業で同じ班になった時に連絡先を交換し合った2人は、お互いにメッセージのやりとりをするようになり、少しずつ惹かれあっていったらしい。数回のデートを経て、春樹から告白したとの話だった。あいつ、告白する時に運命論なんて持ち出したらしい。
「初めて会った時から運命を感じてた、って言ってくれたんです。本当に嬉しかった」
そう言って恥ずかしそうに、でもそれ以上に嬉しそうに顔を赤らめる彼女。俺と話している時には、浮かべたことのない表情だった。
俺も彼女と同じ大学に通っていたら、いつか彼女に告白をしていたのだろうか。春樹のことを羨ましく思いながら、俺は彼女の笑顔を見つめていた。
俺たちは本当にいろいろな話をした。
彼女がどれくらい春樹のことを好きなのか聞かされて、敵わないなと思わされたこともあった。
俺の悩みを聞いてもらって、励ましてもらったりもした。
傘を忘れた彼女を、家の近くまで車で送ったこともあったな。その時に彼女は初めて涙を流した。
彼女は絶対に、春樹の前で彼が心配だとは言わなかった。口には出さなかったが、目で、表情で、彼女が心から春樹を愛しんでいるのがわかった。瞼を腫らして病院に来ていたことも1度や2度ではない。それでも、まるで春樹に自分の不安を聞かれるのを恐れるかのように、彼の前では笑顔で振る舞っていた。
俺は、あわよくば俺が彼女の傘になりたいと思った。春樹のことを心配して1人で涙を流す、彼女の心の傘に。
――春樹、絶対目を覚ませよ。こんな素敵な彼女を泣かせたら承知しないからな。絶対にまた一緒に遊びに行くんだ。
そう思う自分と、
――もし春樹がこのまま亡くなったら、俺が優香さんに告白してしまおうか。
そう考える汚い自分。いけないなあ、と思いながらも、彼女と話すことをやめられない自分に嫌気がさした。
彼女はひたすら純粋なのに。おそらく俺は、そんな彼女だからこそ一目惚れしてしまったのだろう。
俺は迷ったり悩んだりしながら、それでも春樹の見舞いに通い続けた。もう優香さんに告白してしまおうか、と考えたり、春樹が死んでも俺が絶対に優香さんを幸せにする、と考えたりした。どうせ振られるに決まっているのに、もう気持ちが爆発しそうだった。春樹に死んで欲しかったわけではない。むしろ心から春樹の目が覚めるように祈っていた。友達だから。優香さんが悲しむ顔を見たくなかったから。
そんな日々が2ヶ月ほど続いただろうか。たまたま用事が忙しくて、3日連続で春樹の見舞いに行けていなかったある日。俺のスマホに春樹からメッセージが届いた。
「ありがとう。毎日見舞いに来てくれてたんだってな。おかげさまで目を覚ませた」
時が止まる。俺は、しばらくスマホを持って固まっていた。
……そうか、目を覚ましたか。
ゆっくりと見上げた空は、暗い曇り空だった。
「よかったなぁ、春樹。……よかったなぁ……優香さん……」
優香さんの笑った顔が、脳裏をチラついた。泣きそうな顔で春樹の手を握りしめる顔。愛おしそうに春樹を見つめる顔。全部全部、脳裏に焼き付いている。
「……ああ、本当によかった……」
こんなに嬉しいのに。ホッとして、胸が暖かくなっていくのを感じるのに。
どうして俺は涙を流しているんだろう。
わかっていたじゃないか。俺に敵う余地はないと。彼女が幸せなら、それでいいじゃないか。汚い俺が入り込む余地など、最初からなかった。それだけの話だ。
考えれば考えるほど、涙が止まらなくなった。
ああ、本当に。
「本当に、告白しなくて、よかった……」
さようなら、優香さん。俺が呟いた一言は、降り出した雨の音に静かにかき消された。
最後まで読んでくださってありがとうございました。