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アルマ

 「じゃあ、あなたはギターをなくしたんじゃなくて、宇宙ロケットと一緒に飛ばしたんだ」私は、彼女にそう尋ねた。

 「あるいは。そうかもしれない。失敗して粉々になって戻ってくる可能性だって、たくさんあった。でも私のギターは、大気圏を突き抜けて、重力を漂って、また戻ってきた。生還したんだ」

 「で、いまあなたは、そのギターで誰かを幸せにしている」

 「それでいいんだ。あのときのギターも悪くないけど、いまこのギターがたまらなくいいんだ」彼女は、宇宙の神秘に最も近いギタリストなのだ。

 今や彼女のメンタルは、失ったものをどうにかして取り戻せないかと何度も考えてしまうときを通り過ぎた。それは大抵、他人にとってはときにその秘密を共有してほしいほどに、理由がなくとも重要だ。しかし失ってしまったサヤが言うには、何にも変え難い、とても大事なものの秘密を解き明かしてくれるストーリーが必要だと言う。これを聞き入れる準備が出来ているかが重要だと言う。そしてこれにはちゃんと訳がある。

 心の部屋の鍵となった、宇宙ロケット開発の小さな旅の記録、彼女が好きだと話していたスパイスカレーや快適な気分をもたらす、新しいスウィング。本当に困ったときに力を貸してくれた医師たちや音楽仲間やファンや、私のような関係者(面と向かって聞くと恥ずかしいが、事実だ)、愛するギターを撫でるための優しく、ときに力強く、奉仕するような指先、愛する歌を口ずさむと聞こえてくる新しい音楽の記憶、それはかつて忘れたことを思い出すようなものだが、全ては新しい時間へと変化を遂げていく。身体的なものと心理的なものは、自分でも理解できないほどに、分かち難く、複雑に絡んでいた。今だってそうだろうとさえ思う。

 だからいったい何が原因だったのか、実は今でもよくわからない。でもその結果が、彼女だった。その姿を書き残しておくことで、新しく炎を灯せるならと思う。

 彼女のギターは、遠い宇宙の大気圏から無事に生還し、彼女の手に戻ってきた。しかしその姿は、以前とは違っている。主人公は生まれ変わり、宇宙飛行士はそのストーリーを語る。

 かつてはいた自分や自分に置き換えた他の誰かがどこかで聞いていると感じながら。

 解消された彼女の当時の不安は、春の訪れと共に雪溶けていった。また季節が巡ればそれについて思い巡らせるし、どこかで不安は過ぎるだろう。しかしそのための準備を怠らず、また火を熾せる自分を知っているだけで十分だった。自分で自分を励ますのは、難しい。が、その熾された火は、誰かがくべてくれるのだ。そう思う。彼女は安心したし、その緩やかな炎の中で、彼女はギターを弾いた。

 彼女の中で育まれた火種は、火花に成長した。彼女が局所性ジストニアから復帰して最初のミニアルバム「アルマ」が配信スタートされた。四月四日。春の風がとても強く吹く頃合いだった。そのアルバムは、バイラルチャートで配信して二十四時間内には、軒並み上位に食い込むようになった。

 彼女はツイッターでその奇跡(サヤは、ほとんど奇跡というものを信じない人だ)を公表した。その収録に関わったスタジオミュージシャン、エンジニア、プロデューサー、マネージャー、私、リスナー、レコード会社のスタッフ、彼女の家族(母と妹ヒナ)、彼女の数多くの友人たち、あるいはまだ出会っていないリスナーたち。

 彼ら彼女らのほとんどは、そのアルバムが出る意味を理解していた。彼女が症状を患い出してからというもの、サヤの現在と未来は、遺灰にまみれていた。全ての音楽を焼却しかねない、その最悪の未来、音楽を奏でるための手がダメになったなどと誰が認められるだろう。それは出来ない相談だった。最悪の状況は常に彼女のそばで控えていた。そしてその最悪な状況が生み出した(それは彼女自身が生み出した一つの切迫した心理的闇と言うべき忌むべきものが作り出した)言葉の風が、彼女の小さな炎をさらに小さな炎に変えていった。本来ならば、風は上手く仰げば、炎を大きくする。しかしその時期はそうではなかった。

 そんな姿を間近で見ていた彼ら彼女らは、その風が大きく方向転換し、アプローチを変えたときを垣間見た。それはサヤの術後から少しずつ見られた。宇宙ロケットのエピソード、バンドミュージシャンとの演奏、一人での演奏、私と作った洋風ビーフカレー(きざみマッシュルーム入り)。好きなアーティストのライブ(自らのインスピレーションに密接に結びつくほど素晴らしい一夜)一つ一つは、以前からあった彼女の生活の一部である。しかし彼女が手術前には全て失ってしまったかのように思われていた。サヤはほとんどゼロのような状況から、かつて失われてしまったものを一つ一つを取り戻し、新しいギターの奏法さえもその手に収めていった。

 それまでサヤは自分が人間じゃないみたいだと感じていた。好きだったもの、得意なものを失った自分は、何よりも自分の心理的闇に恐怖を抱いて、心を閉ざしていた。だが、それも一変していった。小さな火は、秋の落ち葉の残りと収穫されよく乾燥した薪によって一冬を乗り越えた。春になり、その火が暖炉に収まる程度ほどの形に胸の中で育った後は、その小さな松明に火を移し、少しずつ新しい場所へとくべられていった。それは自身の病気に関係しないものにも向けて書き記してほしいと彼女は言った。私がその役目だった。

 サヤはその活きた火が生み出す、優しい柑橘色と木々と火の匂いの痕跡を残した。その道筋は、今ようやく私が文章にして残し、多くの読者に届けばと願うばかりだ。

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