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月への歩き方

 サヤが手術のために、入院したのは九月のことだった。先生は、もしかしたら手術は年明けになるかもしれないと告げた。つまりスケジュール上、さらにそこから数ヶ月待たなければいけなかった。彼女は出来るだけ早くこの病気を治したかった。やや遠方だが、地方の病院へ先生が通っているし、そこでなら三ヶ月先にはできると聞いた。六月七日だった。彼女は、九月でいいと答えた。

 サヤは妹のヒナと共に病院へ訪れ、入院の準備をした。ようやく数日後に、自分の人生を切り替える重要なポイントに辿り着けるのだ。期待もあったし、それと同じ数だけの不安も荷物に紛れ込み、心にも紛れ込んでいた。これから手術をするのに体力が必要だった。しかし緊張のせいか、サヤは寝付けなかった。

 手術当日にかけた手術時の固定用フレームを頭につけ、麻酔をかけたときが、彼女にとって病気よりも痛い瞬間だった。フレームを固定するため、頭にネジのようなものをぎりぎりとねじ込めた。頭蓋骨が軋んでメリメリといった。何か大掛かりなサプライズを誰かに仕掛けるみたいな、そんな感じだったと彼女はいう。その姿を見たとき、私はちょっと笑ってしまった。失礼にも。しかし彼女ですらこの仕掛けを撮影したヒナと一緒にあとで大笑いしたという。

 それからサヤは看護師に呼ばれ、二つのギター(愛と宇宙のフェンダーとアコギ60ギブソン)を誰かに預けたらしい。らしい、というのはこの辺りの時間の記憶が曖昧だったから、彼女の妹との証言を照らし合わせるとそうなる。

 手術室でのMRI、CTでサヤの視床下部のポイントを正確に視座する。そのための固定用フレームが、ポイントを抑えていた。担当医の春日部先生は、彼女を落ち着かせるために何か他愛もない話や冗談を入れてくる。サヤはそれがなんだったかすら、今でも覚えていなかった。でも何度か彼らの話に和んで、安心して手術を受けられたと話した。

 手術台でサヤは、脳を切り開かれた。なんだか変な気分だと彼女はいった。このほんの何分かは、自分を落ち着かせるために心地良い話をしてくれた(しかもそんな気分は何ヶ月も感じていなかった)にもかかわらず、次の瞬間にはその人たちは彼女の髪を剃り上げ、メスで切開し、手回しドリルで頭に穴を開けているのだ。これからワカサギでも釣るみたいに、コリコリと分厚い氷を開ける要領で。そのせいで彼女の不安が高まったのは言うまでもない。

 今おそらく春日部先生は、彼女の脳味噌を覗いている。覗かれているとか、自分が考えている全てが見られているようで、それはそれで冷静ではいられなかった。

 それからサヤの頭に、電気針を入れて、彼女にギターを弾くように指示していく。彼女はカッティングを取るも、反り返りが弾んでいる。そのあとサヤは文字通り痺れてしまう。今まで静電気ぐらいしか痺れる経験がない彼女にとって、それは衝撃が走った。春日部先生は通電し、凝固巣のポイントを探っているのだ。何かゲームみたく、雷が落ちて痺れるガイコツを思い浮かべた。本当に自分がそんな姿になり、死に行くのかなとさえ彼女は考えた。しかしそれすら先生はまじまじと見ているのだ。怖くないわけがない。しかし治療のため、彼女はギターのカッティングを続けた。

 「そこ、弾いて、弾いて」春日部先生は語気を荒げていると勘違いするくらい強く言った。

 それから次の瞬間、サヤの右手にあった反り返り、あらゆる違和感はなくなった。不思議な感覚があった。その症状が治った途端、サヤは何も考えられない瞬間を迎えた。

 手術が終わると、再びMRIを撮影した。春日部先生は症状はないが、脳を高温で焼いた部分の火傷があるので、しばらく様々な症状が出ると告げた。しかしそれらは一時的なもので、安心してくださいと言った。全てが終わったわけではない。だが、最悪の瞬間は過ぎ去ったのだ。

 それからサヤは二十四時間絶対安静の時間を過ごした。手術の興奮と絶食の空腹から寝付くことはなかった。そのあと彼女は点滴とギターを持ちながら、楽器の弾ける場所を病院内に探した。緑道のように開けた場所のベンチで彼女はギターを弾くことにした。

 彼女は淡い期待をもって、ギターに込められた希望や小さな夢を弾こうとした。しかしどちらのギターからも、その希望や小さな夢を見つけることはできなかった。単純に、弾けなかったのだ。

 サヤは、それまでの自分のギタリストの記憶(演奏という運動の記憶)が、自分から全て抜け落ちてしまったと感じた。誰よりも自分や周りの人たちを幸せにできる方法をうしなってしまったと感じた。

 「あれが最悪かと思ったら、そうじゃなかった。術後が音楽家としてのキャリアの終わりを感じたんだ」サヤは常にそう話した。世界の終わりをまたさらに一歩進んだような敗北感、喪失感、絶望の瞬間。それらは手に取るようにそこにあった。だから何か別のことを彼女は考えぜるを得なかった。たとえば全くギターとは関係ない、小さな夢があったことを彼女は考え直した。そこからスタートすればいいと思った。一度ギターから離れてみるのも、必要ではないかと考え直したのだ。その一歩を彼女は踏み出した。それは宇宙への第一歩だった。あるいは月への歩き方と言えるかもしれない。そうして彼女は宇宙ロケットについて調べ始めた。

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