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忘れられない冬の朝

 失ったものをどうにかして取り戻せないかと何度も考えてしまうときがある。それは大抵、他人にとってはどうでもよく、人々から忘れ去られてしまうものだ。だが、失ってしまった本人からすれば、それは何にも変え難い、とても大事なもの。忘れることなど、とてもできないものだ。

 その忘れられない冬の朝が訪れたとき、サヤは自分の手が凍えてしまっただけなのだと思い込んだ。その思い込みがあらゆる間違いを招いた始まりとは露知らずの顔で、彼女はコーヒーで両手を温めた。雛鳥を孵すように、両手でマグカップを覆った。体は温まったが、問題は解決しなかった。ギターを弾くときの彼女の手が反り返ってしまう癖の名残りが、まだあった。実はすでにその症状は自分でもおかしいと感じるほど進行していて、内心認めたくはなかったが、ここまで来るともう認めざるを得なかった。

 それは彼女、サヤ(本田彩)のギターを弾く右手の運指、あるいは彼女の指先から生まれるもの全てがそうだった。音楽。それが彼女の生み出す全てのものだった。彼女の指先に取り憑いていた、たとえばジョー・パスやジミ・ヘンドリクスの魂の痕跡は、右手の違和感が現れると共に薄れていき、その症状が極まったとき、全て消え失せていた。

 彼女の最初の対処が、さらなる過ちを生んだ。喪失の第一歩が進むと、そのあと第二歩の喪失や、第三歩の喪失が生まれていった。筋肉のごわつきのようなものから、ギターを弾く際の右手が反り返る感覚は日に日に酷くなっていった。ギターが彼女の元から遠ざかっていった。冬の真っ暗中に彼女だけが取り残された。

 「瞬く間に体内に感染していったんだ。インフルエンザみたいなね」サヤは私にそう言った。

そして彼女の活動は大きく制限されていった。その指先から生まれる新しい音楽、ライブでのジミ・ヘンドリクスにとてもよく似たサウンドパフォーマンス、ジョー・パスと全く同じシャッフルの処理、彼女の得意なカッティング、リフ、奏法、ミュート、あらゆるものがその一歩ごとに失われていった。

 身体的なものと心理的なものは、本人でも理解できないほどに分かち難く、複雑に絡んでいる。はじめから彼女の指先で起こった事態は、自分の理解とは異なる領域で育まれていた。

 問題の冬の朝が訪れる以前に、彼女はこの身体的な問題の克服を試みていた。ギターの練習という基本課題をクリアし、右手の経験を取り戻せば、解消するだろうと思い込んでいた。今自分に起きているのは、ちょっとした気のせいで生じたものかもしれないと考えた。

 サヤ本人は、そうしたささいなことでは落ち込んだりはしない。しかしこれがこの問題では重要だった。まさにそう考えた彼女の脳味噌が、その事態の発症だった。原因は彼女の右手にはなく、脳にあった。そして彼女は次の間違いの一歩を踏み出していた。

 だからサヤは、その違和感に対して、常に誤った方法を取っていたのだ。ピックの握り方を変え、練習量を増やし、手首のスナップの角度の調節、ただの気のせいかもしれないが、ギターの奏法さえ修正すれば、問題を解決できる。彼女はそう考えた。しかし問題は一向に解決しない。今でこそ理解出来るが、そこからさらに間違った奏法が生まれ、彼女の脳はその奏法を学習しはじめていった。サヤの音楽に関する速習能力、ギタリストとしての才能は仇となり、彼女を寒くて暗い闇に誘い込んだ。彼女は一度足を止めた。というのは、暗闇に一歩踏み込んでも、音楽を失う一歩に繋がっていたからだ。

 その最初の一歩が、右手の違和感やぎこちなさを生み、次の一歩がまた別の違和感やぎこちなさを生み、とうとう心理的な領域にまで侵食してきた。そのツケが回ってきたとき、サヤの身体も心もボロボロになっていた。

彼女の心の部屋の鍵は打ち壊され、快適な睡眠は不眠症にとって代わり、快適な気分は、不快極まりない焦りや不安、苛立ちを生んだ。さらに追い討ちをかけるように、家族や友人への親切心や、愛するものを撫でる優しい指、それと同じくらい愛する音楽やギターを奏でるための心構えやほとんどスピリチュアルにも近い音楽への信仰心すら、明日、また明日、そしてまた明日と、一日一日、小刻みな足取りで這いずってゆき、自分自身から遠のいていった。症状は依然、治癒へと進まない。それどころか日に日に、彼女はその歴史の最後の端まで近づいてきていた。仲間のミュージシャンやスタッフたちはその違和感には気づいているし、思いやってくれている。観客は彼女のプレイに何にも変え難い高揚感を得ている。しかし彼女は、自分の愛する世界から遠のいていくと感じていた。彼女はギターに触れるのが、怖くなってきていた。ギターに拒絶されているのではないかとすら感じたからだ。

 だからより彼女は治療に専念した。この問題を真剣に克服しなければと思い立っていた。ほとんど執念と呼ぶべき時期だった。針や灸治療、整体、あらゆる施術を試した。時間さえあれば外科にも通いつめ、レントゲンや注射を打ち、回復を掴みにかかった。何度か、病名が浮かぶときがあった。しかし担当医からは否定された。まあ専門家が言うなら、そうかもしれないと彼女は言った。別の病気で使う薬を処方され、すがる思いで試してみた。だがどれも効果はなかった。彼女は、肉体的にも精神的に叩きのめされていった。今や身体と心を治す行為が、逆に自分を追い詰めていった。

 そのあと彼女はどうなるか?

 それは彼女だって、想像もしたくないだろう。しかしその日は訪れた。

 年明けの冬の時点では、サヤの指はステージはおろか、日常生活にも支障をきたす程、症状が進行していた。彼女はいくつかの全国ツアーに同行したが、自分がギターを弾けないのではないかという不安も一緒についてきた。サヤの右手は、食事や着替え、髪を洗うときやおそらく眠っている間も、常に動かせない側へと反り返った。

 その年の三月の夜に、サヤは別のアーティストの全国ツアー参加を諦めた。その右手の反り返りが生む様々な障害が、とうとう彼女から音楽を奪い去ってしまったからだ。彼女が音楽を奪われると、全ての季節もまた奪われていくように感じた。十二月の冬の空に浮かぶ黄金の月の下で運ぶギターケースとコーヒー、冬の終わりにレコーディングしようとした新しいトラック、近づいてきた春の匂いと桜の蕾によく似たラブソング。春の嵐が生み出す、彼女の新しい音楽。それら全てを部屋に残して、彼女は手術を決意した。


 私は彼女が連載しているコラムの担当だった。

 なぜ自分が彼女にそこまで心を注力していたのか。ただ音楽が好きだった。きっと彼女とは別の理由で、同じ色の涙を流した日々があったから。そう、失ったものと同様、ひどく心惹かれたものや手に入れたもの、夢中になったものですら、そこに大きな理由などないのだ。

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