107. アマネとシグレ (挿絵あり)
「アマネ!」
シグレが叫んだ。
何もない空間から引き出されるように、アマネの身体がにゅるりと現れた。
(うわ! 眩しい!)
急に現実世界に引き戻されて、アマネは目を細めた。
思ったより近くに、シグレの顔がある。
「シグレ兄さ……うぎゃああああ!」
ああ、戻って来た、という感動を噛みしめる暇もなく、アマネは床に顔から落ちた。
それに合わせる様に、ガクッとシグレも両膝を突く。
「痛いです! 酷いです! 普通、美女が空から舞い降りたら受け止めませんか!?」
恨めしそうに悪態をつきながら、アマネが上半身を起こした。目がチカチカする。感動の再会だというのに、鼻血が出ているかもしれない。
真っ先にお礼を言おうと思っていたのに、気まずさのあまり、アマネは両手で顔を覆った。
「すまなかった」
短く、シグレが謝罪する。
助けてもらったのに謝られてしまった。
アマネは情けなくて、ますます顔を隠した。
「ゆ、許します! シグレ兄様が私に冷たいのは分かってますから!」
(違う、そんなんじゃなくて! 頑張るのです、私!)
「で、でも、あんなところに居たのに見つけてくれて、あり、あり、あり……えとっ! 何というか、正直、何で分かったんだろうって、ドン引きというかっ」
(違うだろ!)
「……ありがとうございます!」
(よっしゃ! よく言った! 偉いです、私!)
どうだ、と言わんばかりに、アマネは両手を外してドヤ顔を上げた。
「ひっ!」
シグレの顔が、鼻先5センチの距離にあった。
思わず、全身が硬直する。
「俺の方こそ、感謝する」
僅かに乱れた息でシグレは礼を言うと、アマネの身体に覆いかぶさって来た。アマネの小さな体がシグレの巨体を支え切れるはずもなく、アマネは硬直したまま、シグレの下敷きになった。
「ういいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
変な悲鳴が胃の下の方から湧き上がり、喉から漏れ出た。
「重いです! 痛いです! 苦しいです! こういうのは、まだ早いと思います!! おりて、おりて、おりて!!」
必死で、アマネは叫んだ。
だが、シグレは身じろぎもせず、荒い呼吸を続けている。シグレの息が耳をくすぐり、アマネは全身に鳥肌が立つのを感じた。
また助けてもらえたら、絶対恩返しすると決めていた。
次期頭領を目指すシグレにとって、『鬼姫』であるアマネの推薦を得ることは何よりも意味のあることに思えた。そしてその一番簡単な方法は、伴侶となることだ。
だから、覚悟だけはしていた。
(していたはずなのに……!)
ちょっと……いや、全身がっつりだが……上に乗られているだけなのに、頭が大混乱してしまう。いつもサラやロイのことを笑っていたが、これは全く笑えない……!
アマネは必死で身体をよじって、シグレの身体の下から両腕を捻じり出した。
そして、気付く。
両手が真っ赤に染まっていることに。
シグレの両腕が、根本から無くなっていることに。
「えっ……!?」
アマネの顔から血の気が引いた。
ねっとりとした生暖かい液体がアマネを濡らしていく。むせかえる様な血の匂いが鼻をつく。
「や……何ですか……!? 何ですか!? シグレ兄様っ、腕がっ! やだ、止まって! 止まってよ! ヒール、ヒール! 何でヒール出来ないんですか、私! しっかりして下さい、兄様! 兄様!」
先程まで聞こえていた荒い呼吸音が、今はもう聞こえない。
シグレの体温が急速に下がっていく。
このままでは死んでしまう。
『あの人』を助けたくて飛び込んだ異空間だったのに、肝心の『あの人』は自分を助けるために大怪我を負って死にかけている。
どうしてこうなったのか分からない。
(だって、だって、あの時は無事だったじゃないですか……!)
ふと、アマネの視界に剣を握ったまま転がっている腕が見えた。
その切断面は黒く、一滴の血も流れていない。
(義手……!?)
愕然とした。そして、理解した。
(あああああああ! 私のせいだ!!)
シグレはあの時、右腕を失っていたのだ。なのに、それをずっと隠してアマネを指導してくれた。どれほど辛かっただろう。どれほど悔しかっただろう。
そして今度は、左腕を失った。
(分かっていたはずなのに……!)
腕を失うと分かっていて、アマネを助けてくれた。そんな事とは知らずに後先を考えずに異空間に飛び込んでしまった。死ぬ覚悟もないまま危険な場所に飛び込んで、シグレの気も知らずに助けを求めてしまった。
「馬鹿ですか……! 馬鹿ですか……!!」
自分も。シグレ兄様も。
(誰か助けて! 私の命をあげるから!)
溶けてなくなりそうなほど、涙が溢れる。
小さな時から、ずっと心を偽り、ふざけたふりで誤魔化してきたアマネが流す心からの涙。
「誰でもいい!! 兄様を助けて!!」
心の底からアマネは叫んだ。
(この際、魔物でもいい。兄様を……『あの人』を助けてくれるなら、私は何でもする……!)
アマネが強く願った瞬間、場違いな程明るい声がアマネとシグレに降り注いだ。
「呼ばれて飛び出てボインボイーン! アルシノエの登場でぇす!」
キラキラと光をまき散らしながら現れたのは、エルフの女王アルシノエだった。ある意味、魔物より怖い。
「ダイナマイトババア!」
「ダイナマイトバディみたいに言うな! ……って、シグレ様!? どうなさったの!?」
一瞬動揺を見せたアルシノエだったが、そこは流石に百戦錬磨のピュアエルフである。
すぐさま状況を把握すると、シグレの左腕の付け根を止血し傷口を塞いだ。次いで、落ちていた腕を魔法で引き寄せ、シグレの右腕に押し当てた。
「お願い……! シグレ兄様を助けて!」
「黙っていなさい。そのつもりよ」
アルシノエは軽く目を閉じると短く詠唱した。すると腕の切口同士が淡く光り、僅かに溶けた後、接合部が分からないほど綺麗にくっついた。
「血が足りないわ……回収する」
アルシノエは顔をしかめると、出血したシグレの血液を空中へと集めた。既にほとんどの血液が凝固している。このまま体に戻しては死んでしまう。
「凝固融解、洗浄、転移」
アルシノエは固まった血液の時間を数分前のさらさらの状態に戻した後、洗浄魔法をかけた。それをゆっくりと転移でシグレの血管内に注入する。高い魔力と集中力を必要とする治療だった。
アルシノエの額に、汗が光る。
シグレの呼吸と鼓動と体温がゆっくりと戻ってくるのを、アマネは直に感じていた。
短い両腕をシグレの背中に回し、「治れ、治れ」と必死で祈る。
「……アマネ……苦しい」
「!?」
耳元で、小さな声が聞こえた。
アマネは慌てて両手を外した。
「ふはははは! どうよ、アルシノエ様の治癒魔法は……ぜい、ぜい」
肩で息をしながら、勝ち誇った様にアルシノエがドヤ顔で二人を見下ろしている。
「ああ。凄いな。助かった。礼を言う」
顔だけを上げて、シグレはアルシノエに礼を言った。少し気怠そうな眼差しが、絶妙に色っぽい。
「はあああん! ご褒美っ……げふっ! 思ったより魔力消費したわ。はぁ、はぁ。くそ、次に行かねば」
何やら闘争心に燃えているアルシノエが、二人の周りに軽い結界を張って、怖い顔で去っていった。
一体彼女は何と戦っているのだろう。
二人だけになった空間で、お互いの鼓動だけが響いている。
魔族と一緒にいた男は、とっくに何処かへ転移したようだ。
右腕で身体を支えながら、シグレが身を起こした。立ち上がろうとしたが、フラリと身体が傾き、その場で胡坐をかく。
急に身体が軽くなって、アマネは少し寂しさを感じてしまった。そんな自分に驚く。
「アマネ」
「ななななんですかっ!? ……ぐはっ!」
急に、大きな手で顔を掴まれた。
「もう、二度とあの術は使うな」
「……はい。すみませんでした」
「……いや。俺が魔族に情けなどかけず、さっさと倒しておけばよかった。俺の失態だな」
顔を掴まれているので、シグレの表情は分からない。
だが、きっとアマネが見たことのない顔だと思った。
「シグレ兄様! 手、手をどかしてください!」
「ん? ああ」
視界が開けると、そこにはいつもの仏頂面があった。期待していた顔ではなかったが、「シグレが生きてそこにいる」という実感が湧いてきて、アマネの表情筋がブルブルと震えだした。
「うう……ううううう……う゛うわああああああああああああん!!」
意思とは関係なく、涙が滝のように溢れてくる。シグレの前では絶対に泣かないと決めていたのに、とアマネは再び両手で顔を覆った。
「な、なんだ!?」
急に号泣しだしたアマネに、ビクッ、と、シグレが硬直した。
こんな風に感情を顕わにする弟子を見るのは初めてだった。……正直、どう取り扱うべきか正解が分からない。これがシズやサラなら抱きしめてあやすところなのだが……。
(正解どころか、俺はアマネを知らなすぎる)
ふう、とシグレはため息をついた。
「……アマネ。起きろ。話がある」
「う゛う゛。私も、話が、ありますっ」
ヒクッ、ヒクッと嗚咽を漏らしながら、アマネはゆっくりと起き上がり、シグレの正面に正座した。
そして、そのまま両手を突いて、綺麗な姿勢で頭を下げた。
「わたくしアマネは『鬼姫』としてシグレ兄様を後継者に推挙することを誓います」
震える声で、一息で言いきった。
それは、聞く者が聞けばプロポーズにも等しい宣言だった。
自分の鼓動が、うるさいほど鼓膜を揺さぶる。体中の血液が、頭に集まっているようだった。
「…………………………………………」
しばしの沈黙。シグレは無言のまま返事がない。
「………………? あ、あの……シグレ兄さ……えええええ!? 何ですか!? その絶妙に嫌そうな顔はっ!」
沈黙に耐えかねて顔を上げたアマネの視界に入ったのは、何とも言えない苦い表情のシグレだった。
「いや、俺にも選ぶ権利はあると思って」
「う゛!?」
「何故、女はいつも選択権が自分にあると思っているんだ?」
「うがっ!」
「アマネは俺の好みの真逆なのだが」
「うわああああああああ!」
あまりと言えば、あまりの言いように、アマネは涙目のまま頭を抱えてうずくまった。
「ひ、酷すぎます! 私がどんだけ悩んで、覚悟を決めて、恩返しをしようと頑張ってるか分かってるんですか!? そうじゃなくても、そんなこと乙女に言っちゃ駄目でしょう!? 兄様、馬鹿ですか!? いや、サキュバスと本気で付き合ってた時点で馬鹿なのは分かってましたけど! 私だって、兄様は好みじゃありません! むしろ恐怖です! 私の好みは、ロイみたいな線の細い美青年とか、リーン様やリューク様みたいに、ただでお菓子をくれる優しい殿方です! 兄様なんて、大嫌いです! うわああああん!」
「泣くな。………言い過ぎた。お前との距離感が分からない」
「何ですか、距離感って! どうしてくれるんですか、このモヤモヤと悔しさ! 人としてどうなんですかね、兄様はっ!」
「アマネ、顔を上げなさい」
「何ですか…………………………!?」
アマネが顔を上げると、見たことのない優しい笑顔で、右手を広げるシグレの姿があった。「さあ、この胸に飛び込んで来い」と、字幕が見える。
「うっ」
「どうした? 来ないのか? お前の覚悟とやらはその程度か?」
これが、サラなら………何ならロイでも、迷わず飛び込んでいるところであろうが、アマネの頭は真っ白になった。
「…………………………無理です!!」
きっぱりと拒絶され、シグレは苦笑した。
「やはりな。お前の気持ちは嬉しいが、無理はするな。お前が俺を嫌っているのは知っている。俺は、俺のやり方で頭領になるつもりだ。………お前を犠牲にする気はない」
「でもっ」
「でも、じゃない。焦るな、アマネ。お前は自分をもっと大事にしろ」
シグレは、ぽん、と右手をアマネの頭に乗せた。一瞬身を固くしたアマネだったが、不思議なことにいつもほど嫌な感じはしなかった。
「俺達は、お互いを知らなすぎる。……情けないことだ。5年も一緒に暮らしたというのに。すまなかったな、怖い想いをさせて。この戦いが終わったら、ゆっくり話をしよう」
「ゆっくりって……シグレ兄様、もう40近いおっさんじゃないですか……ゆっくりしてたら頭領戦終わっちゃ……ぎゃああ!」
「まだ30半ばだ」
「うぎゃあああ! すみません! すみません! 頭、頭割れるっ!」
「………ふ。くくくっ」
「え!? 兄様が笑った? とうとう狂っ……ぐぎゃあああ…………!?」
シグレの大きな手が、一瞬だけアマネの頭を強くつかんだ後、ふわっとほどけて髪を撫でた。
その初めての温かな感触に、自然とアマネは赤くなった。額の角が、じわっと熱くなる。
普段ドSで不愛想なくせに、今日のシグレは何だか優しい。
「アマネ。少しずつ、取り戻そう」
せめて師匠と弟子として共に歩いて行けるように、とシグレは思う。
「うう。分かりました。頑張ります」
いつか、『この人』の横で笑って暮らせるように、とアマネは願う。
この日、初めてアマネとシグレは正面から向き合った。
長い間こじれ続けた二人の関係は、ここからゆっくりと改善していくだろう。
……『鬼姫』と『侍』には、まだ程遠いけれど。
ブックマーク、評価、感想等、いつもありがとうございます。
「翔んで埼玉」見ながら書いたら、頭が混乱しました(笑)
今回は、アマネちゃんとシグレさんの回でした。
ちょっと距離が縮まって良かった!なんかすれ違ってますけど。
だってアマネさん、21歳のはずなんですが、色んな所がちっこいし、
シグレ兄にしてみたら、16歳年下ですし………
しかも6歳から面倒見てた子供みたいなもんですよね。
もう少し、兄様の年齢設定低くしたら良かったと、ちょっと後悔!
『鬼』達については、番外編か、第3章で書けたらいいなと思ってます。
新キャラが多くなりすぎるので、2章では書けませんでした。
次回は、カイトサイドか、レオナルド戦かのどちらかです。
ではでは。