106. アマネとシグレ ーアマネー
アマネは何もない空間を漂っていた。
幼い日と同じ光景。
シグレの気配がする場所に転移した時、目に入ったのは燃えるような魔族と死を覚悟したシグレの姿だった。
咄嗟に魔族にしがみつき、アマネは自ら生み出した異空間に飛び込んだ。
後先を考える暇などなかった。
Aランク程度の実力しかないアマネが、高位魔族を倒せる方法など他にない。
今まで試したことはなかったが、異空間に持ち込める生体はどうやらアマネと同じ質量のものだけのようだ。細身の女性魔族だったのに、全部取り込むことが出来なかった。絶対、あの胸と尻のせいだ、と、アマネは少しイラっとした。
だが、相手の魔石を奪えた。あいつはもう、復活できない。
(ふふふ。私だって、やる時はやれるんですよ)
アマネは頭の中でドヤ顔になった。
身体の感覚は全くない。
前回は、怖くて怖くて堪らなかったけれど、今回は誇らしい気持ちでいっぱいだ。
(『あの人』に恩返しできた。……すごく、怒られるかもしれないけど……うわあ。やだな)
あの大きな手で繰り出されるゲンコツは、とても痛い。だが、その痛みがとても懐かしい。
普通に考えて他人の空間魔法を見つける術はない。今度こそ、自分はこの異空間に永遠に閉じ込められるのだと思った。怠惰、睡眠、食欲がモットーなアマネにとって、怠惰でいられるこの空間は、意外と悪くないとも思った。
だが、不意に恐怖に襲われた。
どれくらい彷徨えばいいのだろう。寿命はあるのだろうか。それとも、永遠……? 気が狂いそうだ。狂ったら楽になるのだろうか。狂ったまま苦しむかもしれない。
(ああ。もっと色々食べたかったです。サラ様の新作お菓子、楽しみにしているんですよ。サラ様、さっさと鈍感天然ドラゴンは諦めて、ロイとかパルマ様とくっついてくださいね。それから、おじい様。もうお年なんですから、とっとと引退しておばあ様とイチャイチャしてください。……不出来な孫でごめんなさい。私の事は、忘れてください。アマネはシズ姉様のところに……行けませんよね。ここから出られませんから。というか、ここどこでしょう。自分で作った空間とは言え、意味が分かりません。……何か腹が立ってきました。何をやっているんですか、シグレ兄様。あの時みたいに、さっさと助けて下さいよ)
様々な感情が湧き上がってくる。身体の感覚はまるで無い。その分、今まで身体という檻に閉じ込められていた心が自由に羽ばたいていく気がした。
(私はここです。ここに居ます。助けて……助けて、シグレ兄様……!)
心が叫んでいる。心が、あの手を求めている。
―――アマネが『あの人』がシグレだと知ったのは、実はほんの一年前だ。
サラの旅の仲間が決定したあの日、アマネは「せめて一言文句を言ってやる」とゴルドの部屋を訪れた。ゴルドは苦手だったが、ゴルドの傍にはテスが居る。だが、その日に限ってテスは不在だった。アマネは震える手足を誤魔化しながら、ゴルドに苦情を言った。叱られる、と思っていた。主人に直々に文句を言うなど、『鬼』としてあるまじき行為だからだ。だが、ゴルドは怒るどころか、心底すまなそうな表情でアマネに謝った。
「アマネは大人の男が苦手だったな。恩人であるシグレなら大丈夫かと思ったが……すまなかった」
ゴルドの言葉に、アマネは目を丸くした。
「『恩人』……?」
何のことだ、とアマネは首を傾げた。師として自分に稽古をつけたことだろうか。
「テスから聞いた。テスもシグレも言うつもりがないだろうから、敢えて言わせてもらう。つまらん誤解で任務に支障をきたしても困るからな」
ドクン、と強い鼓動がアマネを襲う。まさか、と、喉が引きつった。
「お前を異空間から引き戻したのは、シグレだ」
「嘘です!!」
相手が主であることも忘れ、思わず叫んでいた。そんなはずはなかった。シグレの手なら知っている。オーガの様な手。あの怖い手が、あの人の訳がない……!
だが、否定すると同時に、腑に落ちることもあった。
アマネはずっとシグレから逃げてきた。
シグレに触れたのは、ゲンコツを喰らう時と、修行で疲れ果てて歩けなくなって背負われた時だけだった。「怖い」という感情で覆い尽くされて、シグレの温もりも匂いも鼓動も分からなかった。
だからシグレの元から解放され、王都に行けと言われた時、心底ほっとした。
正直なところ、初めてシズに会った時、シグレによく似た顔と女性にしては大柄なシズにアマネは怯えた。そんなアマネをシズは優しく抱きしめ、大きな手で頭を撫でてくれた。
その時、確かに『あの人』の温もりを感じたのだ。そのためアマネは、本人に否定されるまでシズが『あの人』だと思っていたくらいだ。
シグレが『あの人』だとしたら、妹のシズに似た気配を感じたとしても納得できる。
それに、久しぶりに会うシグレがサラに向けたあの笑顔。サラの手を握り返した手の、何と優しげなことか……!
もしかしたら、シグレはあの笑顔と温もりを、自分にも向けてくれていたのではないだろうか。
(全てを否定し、拒絶していたのは自分だけだったのかもしれない)
そう思ったら、ボロボロと涙がこぼれた。
シグレの温もりが、急に匂いと彩りを伴ってアマネの胸に蘇った。シグレに対する恐怖が消えたわけではなかったが、アマネの中で何かが変わった。
アマネはその夜、一人でオーガを狩った。
6歳の時に襲われてから、ずっと避けていた怖い魔物。
久々に見たオーガは、シグレとは全然違っていた。似ているのは体形くらいで、顔も匂いも、身に纏う魔力の美しさも、何もかもが別物だった。
途中から変なテンションになってよく覚えていないが、8体のオーガを倒した。
(もう大丈夫だ。私は『あの人』のために戦える!)
そんな風に、改めて決意した夜だった。
本当は、まだシグレが怖い。
今でも、大きな声で叱られたり、近くで急に動かれたりするだけで身体が固まってしまう。だが、シグレ相手に冗談を言ったり、自分から近づくことが出来るようになった。
(私は、役に立ちましたか……?)
アマネが異空間に消える瞬間、シグレは目を見開いていた。
(ふふん。初めて、シグレ兄様を驚かせましたよ。……奇行以外で!)
今頃、どうしているだろうか。真剣な顔で探してくれているだろうか、哀し気な顔をして諦めた頃だろうか、それとも出来の悪い弟子が居なくなって「せいせいした」と笑っているのだろうか。
どの顔でもいい。どの顔も、知らない顔だ。
(生きたい……! もっとシグレ兄様を知りたい! 『鬼姫』と『侍』みたいに、ちゃんと向きあいたい……!)
額の小さな角が、チリッと痛んだ。
普段は前髪で隠している、ツバキと同じ2本の角。
(だから)
「見つけて! 兄様!!」
声にならない声で、アマネは叫んだ。……刹那。
「戻ってこい……アマネ!!」
大きな手が、アマネを掴んだ。
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今回はアマネのターンでした。
アマネちゃん、一応、自分の行動のほとんどが奇行だという自覚はあったみたいです(笑)。
次回は、「アマネとシグレ」の完結編です。
短い話になると思います。……多分。
ではでは。また。