65. 君に贈る歌 -異界にて 2
リタ・シンプトンは、歌手を夢見て片田舎からニューヨークにやってきた。地元では、歌が上手いと評判だった。その辺のディーバには負けない、という自負もあった。しかし、3桁に手が届くほどオーディションを受けたが、現実は甘くはなく、今はカフェでアルバイトをしながら、夜中にシンガーソングライターとして街角で歌う日々を送っている。
この日も、いつものように仕事を終え、お気に入りの場所でギターをかき鳴らしながら歌っていた。テンポの良い流行りの曲から、昔のバラードまで、人々が足を止めてくれそうな曲を選び、歌い続けた。いつもなら、少しは立ち止まって聞いてくれる人も居るのだが、あいにくと今日は小雨が降っており、皆、家路を急いでいる様子だった。数メートル離れたところでリタと同じように歌っていたストリートミュージシャン達も、諦めて帰っていった。
「……はあ」
辺りに誰もいなくなった路地で、リタはため息をついた。寒い。冬はまだ先だというのに、雨を含んだ空気はやけに冷たかった。急に故郷が懐かしくなった。
リタはギターを持ち直すと、再び歌い出した。物心ついた時には、自然に口にしていた曲だ。周りに聞いても誰もその曲を知らなかった。きっとリタには作曲の才能があるのね、と祖母が言ってくれた。
「耳をすませて。匂いを嗅いで。ほら、夜の気配がするわ」
歌っているのは子守唄だ。幼い犬の兄弟に母犬が語り掛けている物語だ。
「お月様はお姫様。きらきら、きらきら。星の騎士に守られて、きらきら、きらきら」
なぜか、この曲を歌うと、いつも涙が溢れてきた。だから、人前では歌わない。今日は特別だ。
「ほら、お姫様に呼びかけてごらん? きっと返事をしてくれる。うおーん、うおーん……ほら、寂しくないでしょう」
寂しい。だって、誰も私の遠吠えなど、聞いてはくれないから。
「……うおーん……」
「!?」
ジャン、とギターを止めて、リタは振り返った。今、確かに小さな遠吠えが聞こえた。
「誰? 誰か、居るの?」
リタはギターを抱きしめながら、声のした方に近づいた。弱々しい声だった。怯えているのかもしれない、と、リタは努めて優しく声を掛けた。
「大丈夫よ。こっちにおいで? そこは濡れるでしょう? ここは屋根があるから、そこよりマシよ」
しんとして、返事はない。雨音だけがこだまする。
「……私、帰るね。そしたら、ここ、使っていいからね?」
リタがギターをケースにしまい、走り出そうとした時だった。
「待って」
と、小さな声がした。
「!?」
「助けて……ください」
僅かな街灯の光の中に、大柄な男と、その腕に抱かれた少女の姿が浮かび上がった。少女は酷く苦しんでいる様だった。
「どうしたの!?」
リタはギターを壁に立てかけると、二人に駆け寄った。二人とも変わった服装だった。ターバンを巻いて、マントを羽織っている。マントの下は、ゆったりとした白の長袖と長ズボンで、腰の所を布製のベルトで締めている。昔、映画で見たアラブの戦士の様だと、リタは思った。
「この子、火傷!? 大変! 病院に行かなきゃ。お金ある?」
「金は、ない。傷は1日もすれば治るはずだ。ただ、ゆっくり休める場所が欲しい。陽の当らない所がいい。どこか、心当たりはないだろうか」
男がためらいながらリタに尋ねてくる。きっと、何か事情があるのだろう。アラブのお嬢様と騎士の駆け落ちかもしれない、と、リタの中で勝手な設定が生まれた。
「じゃあ、うち来る?」
「いいのか?」
「普通じゃ絶対駄目だけど、その子、苦しそうだし、お金が無いんじゃ病院行けないでしょ? 近くに教会もあるけど、色々事情を聴かれるだろうし」
「それは困る」
「だよね!?」
やっぱり駆け落ちだ! と、リタの乙女心がキュンっと高鳴った。
「狭い部屋だけど、カーテン閉めれば暗いし、ここよりずっと暖かいわよ」
「助かる」
「任せて!」
私、応援するから、とリタは拳を握って意気込んだ。
ラズヴァンとエリンだと、男が教えてくれた。
少女の火傷はほとんど治りかけており、慎重にタオルで雨を拭い、リタのパジャマに着せ替えた。「一人で着替えさせるのは大変だから手伝って」と言った時のラズヴァンの反応が面白くて、リタは笑った。結局、ラズヴァンはずっと目を瞑っていた。
「あなたも着替えた方がいいよ? 男物の服はないから、服が乾くまでシーツか毛布か巻いててくれる?」
「……いや、俺はこのままでいい」
「良くないわ! そんな濡れた服でウロウロされたら迷惑よ」
「う……」
リタが怒ると、途端にラズヴァンは子犬の様な表情になった。年上かと思ったが、案外、年下なのかもしれない。ラズヴァンはごそごそと隅の方で着替え始めた。その間に、リタはお湯を沸かし、簡単な夕食を作った。いつもはキャベツとジャガイモだけのスープに、今日は特別にソーセージを入れてあげる。
「そういえば、あなた達の近くに犬が居なかった?」
リタはラズヴァンに背を向けたまま問いかけた。先程から、ラズヴァンの視線が痛くて沈黙が辛いのだ。
「……居なかった」
「そう? 遠吠えが聞こえた気がしたけど……」
「それは……たぶん俺だ」
「え?」
はっと、リタは息を飲んだ。振り返ったリタの前に立っていたのは、頭に大きな耳のある大男だった。シーツで身体を隠してはいるが、シーツから覗く手足には毛がみっしりと生えている。
「狼男……?」
なぜか、怖いとは思わなかった。むしろ、例えようのない愛しさが込み上げてきた。
「あの歌を、なぜ知っている?」
「あの歌?」
「月の姫と、ナイトの歌だ」
「!?」
「あれは、姉さんが俺に歌ってくれた歌だ」
「そんなはずないわ! あの曲は、私の……」
オリジナル、と言おうとして、本当にそうだろうか、と疑問が湧いた。どこかで聞いた曲を、自分はオリジナルだと思い込んでいただけではないだろうか。
「……もう一度、歌ってくれないか?」
「え? え、ええ。寝る時でいい?」
「ああ」
リタとラズヴァンは無言で夕飯を終えた。無言ではあったが、終始ラズヴァンの尻尾が揺れていたので、美味しかったのだろう。ほわっと、心の奥が暖かくなった。
夕食後、お湯を浴びて、床に横になった。ベッドはエリンに譲ったため、クッションを枕代わりにしただけの雑魚寝だ。
約束通り、リタは歌った。
リタの遠吠えに、ラズヴァンも小さく返してくれた。リタがコッソリ近づくと、ラズヴァンはフサフサの尻尾をリタのお腹にかけてくれた。
それは、リタが初めて感じる、でも、とても懐かしい暖かさだった。
翌日。
驚いたことに、エリンの傷はすっかり無くなっていた。エリンは意識を取り戻し、リタに礼を言った。リタの想像通り、礼儀正しく良家のお嬢様、といったエリンの所作にリタは終始緊張しっぱなしであった。ひとまず家の説明をしてからリタは仕事に行き、夜になると二人と合流してから路上ライブを行った。
この日も、客はまばらだった。リタの歌が悪いわけではない。見た目も悪くない。ただ、世界中から才能が集まってくるニューヨークでは、よほどの幸運に恵まれなければ埋もれてしまうのだ。
5曲ほど歌い切ったところで、「はあ」と、思わずため息が出てしまった。すると、黙ってリタの近くで聞いていたエリンが立ち上がった。エリンの服はまだ乾いていなかったため、今はリタの服を着ている。お嬢様に変な物は着せられない、と、一張羅のドレスを貸したため、エリンの一挙一動に思わず目が行ってしまうほど、目立っていた。ちなみに、ラズヴァンの服は、バイト先の親切な店長に借りた。兄が急に遊びに来たが、雨で濡れて替えが無いと言うと、快く昔の服を譲ってくれたのだ。
「ねえ、リタ。踊っても良い?」
エリンはその場でクルリと回ると、ぱあっと光が舞う様な錯覚を覚えた。
「え?」
「城では楽師の曲に合わせて、よく踊っていたの。歌は皆で楽しむものでしょう?」
どきっ、とした。「歌うこと」に熱中するあまり、お客さんを楽しませることを忘れていた。「私の歌を聞いて!」と押しつけがましくなっていたのではないか、とリタは背中が冷たくなった。
「……ロックとバラード、どっちがいい?」
「どっちでも! よく分からないし。……ラズヴァン、あんたも踊るのよ?」
「え!?」
目を丸くするラズヴァンが面白くて、リタは笑った。そして気を引き締めると、アップテンポの明るい曲を弾き始めた。
「いいわね」
エリンは微笑むと、その場でターンッと飛び上がった。リタの頭の近くまで跳ねたのではないだろうか。
「ええ!?」
「演奏が止まってるわよ」
「はい!」
何事か、と周囲がざわめき始めた。
エリンの踊りは一風変わっていた。だが、柔軟な身体をめいっぱい躍動させた踊りは、リタが今まで見てきたどのダンサーのものより素晴らしかった。バラードではラズヴァンも一緒に踊った。ラズヴァンの所作も洗練されて美しかった。
3曲踊ったころには、リタ達の周りは黒山の人だかりになっていた。近くで歌ったり踊ったりしていたストリートミュージシャン達も、手を止めて三人のパフォーマンスに見惚れている。
4曲目、再びアップテンポになったところで、リタが吼えた。リタのシャウトにつられてラズヴァンも吼え、エリンが笑った。
「皆も踊ろう!」
エリンが呼びかけると、誰からともなく踊り始めた。リタが吼えると、客も応えた。初めて味わう客との一体感に、リタは心の奥から込み上げてくる感動を抑えきれなかった。
「リタ。最後にあの曲を歌って」
これで最後、と言って8曲目が終わったところで、ラズヴァンがまさかのリクエストをしてきた。
「え!? でも、子守唄だよ?」
「いいじゃない! 皆の者! 最後は子守唄よ。これ聴いて、今日はぐっすり眠るのよ!」
「「「おおお!」」」
「えええ!?」
ライブで歌ったことはない。家族以外の前で歌ったのも、昨日が初めてだった。受け入れてもらえるのか不安だった。でも、エリンが客をあおった後だ。やるしかない。
リタは深呼吸すると、ゆっくりと顔を上げた。
「……これはきっと、どこか遠い星の犬の親子の物語です。どんなに寂しい夜でも、一人じゃないよ、って曲です。……『月の遠吠え』」
しん、と聴衆が静まり返っている。震える指先で、リタはギターを鳴らした。
「耳をすませて。匂いを嗅いで。ほら、夜の気配がするわ」
リタの声は艶があり、良く通る。昨日までは喧騒の中で噛みつくように歌っていた。誰か聞いて、と必死だった。でも、今日は皆が自分の歌を聴いている。大事に歌いたい。いい気分で帰って欲しい。寝る前に、ほんの少し私の歌を思い出してもらえたら、すごく幸せ。
「うおーん」
リタが優しく鳴いた。
「うおーん」
ラズヴァンが小さく応えた。
「うおーん」
再びリタが鳴いた。
「うおーん」
今度はちらほらと、観客から声が上がった。
リタは一瞬驚いた表情になり、そして笑顔になった。優しい、母のような笑顔だった。
そのまま3番まで歌い切った。最後は大合唱だった。泣いている人も居て、リタの涙腺も崩壊した。沢山の人が、リタ達に声を掛けてくれ、帰って行った。
リタのギターケースが、初めてコインで満タンになった。
「今日はありがとう! 二人とも」
深夜営業のレストランで、リタはエリンとラズヴァンに礼を言った。ギターケースが満タンなので、ギターはリタが抱えている。もちろん、重たいケースを持っているのはラズヴァンだ。
「お礼よ! 何でも食べて」
満面の笑みでメニューを押し付けるリタに、エリンは困ったように肩をすくめた。
「気持ちは嬉しいけど……私は見てるだけでいいわ」
「何で!? 今日、食べてないでしょう?」
「えっと、実は、携帯食料を食べてきたの。お腹いっぱいよ。水もいらないわ」
「そうなの? ……ラズヴァンも……?」
「俺は食べれる。肉がいい」
「良かった! 私も肉がいいわ。ウェイターさーん! ステーキとハンバーグとソーセージの盛り合わせお願い! あと、ビール2つね」
料理を運んできたウェイターが、ラズヴァンの耳と尻尾に驚いていたが、「コスプレよ!」とリタが言うと納得して戻っていった。
その夜は最高に楽しかった。
その日を皮切りに、リタのライブは毎回大盛況となった。
深夜にも関わらず子供連れで来る客もおり、ラズヴァンは子供から大人気であった。初めはエリンのダンスが目的で集まってきた観客も、数曲後にはすっかりリタの歌声に魅了されるようになり、日が経つにつれリタの固定ファンも増えていった。
エリン達が来て10日程たったある日、突然一本の電話がリタにかかってきた。有名なテレビ番組のプロデューサーからで、「オーディション番組に出てみないか」という話だった。予定していた出演者が急に来られなくなり、代わりを探している時にリタの噂を聞いたのだそうだ。リタは舞い上がった。ついに、チャンスが来たのだ。
「急だけど、今からオーディション会場に行ってくるわね! ああ、どうしよう。何を着たらいいかな」
仕事先から慌てて帰って来たリタが、わたわたと衣装ケースをひっくり返している。
「落ち着け。姉さんなら、大丈夫だ」
ラズヴァンが苦笑しながらリタの肩に手を置いた。
どう見てもラズヴァンの方が年上に見えるのに、何故かラズヴァンはリタの事を「姉さん」と呼ぶようになっていた。リタも何となく、ラズヴァンの事が本当の弟のように思える時があった。頭を撫でたり、お腹を撫でたりすると安心しきったような顔になるのが、堪らなく可愛かったせいだろうか。
「ふふふ。リタ、戻って来た時には『せれぶ』というやつになっているのね!」
「も、もう! 気が早いってば! とにかく、行ってくるわね? ご飯先に食べてていいからね? あと……ああ、もう!」
リタは手に取ったドレスとギターをテーブルに置くと、がばっと、エリンに抱き着いた。
「エリン、大好き!」
頬にキスをした。エリンから身を離すと、今度は同じようにラズヴァンに抱き着き、頬にキスをした。
「ラズも、大好きよ! 本当に、二人のおかげよ。あの日、会えて良かったわ」
「リタ。お礼を言うのは私達の方よ。リタに会わなかったら、この不思議な街で野垂れ死にしてたわ。本当に、今までありがとう」
「恩を返せたなら、俺は満足だ。俺も、会えて嬉しかった、姉さん」
「……もう! 行く前から泣かせるようなこと言わないでよ! じゃあ、迎えが来てるから、本当に行くわね?」
「ああ。さよなら、姉さん」
「頑張ってきてね! リタ」
二人の笑顔に見送られながら、リタは旅立った。一瞬、会場に向かう車の中でラズヴァンが「いってらっしゃい」ではなく、「さよなら」と言ったのを思い出したが、打ち合わせが忙しく、頭の隅へと追いやられてしまった。
……どうせ夜には、また会えるのだ。
「……良かったの?」
リタが去った部屋のベッドの下から、サラが這い出した。
リタが戻ってくる数分前に、サラはラズヴァンの気配を追って転移していたのだ。サラが事情を説明し、「せめて手紙を書きたい」とエリンが言い出し、「任せて! ……英語、分からん!」とサラがサジを投げたところで、リタが帰って来たのだ。
「良いも何も、私達、戻らなくちゃいけないわ」
エリンが寂しそうに笑った。
評価、感想、ブックマーク等、ありがとうございます!
今回は、ラズヴァン達のターンでした。
もう1話続きます。
やっぱり秒では帰れませんね。
アルシノエ様、もうしばらく頑張ってください!