36. 竜神の花嫁
レダコート王国の東に、トマスという小国がある。海に面したその国の主な産業は魚介などの海産物であるが、他の大陸からの船が行き交う貿易都市として、首都ポールトマスは大いに栄えている。その一方で、首都から一歩外れると、岩場ばかりで草木も生えぬ土地が広がり、民は貧しく苦しい生活を強いられていた。トマスは貧富の差が激しく、治安が悪いことでも有名な国である。
辺境の村々では、子供を人買いに売って生きながらえている家も珍しくない。売られた子供達は奴隷としてポールトマスで働かされるか、他国や他大陸に売られていくか、だ。
サラ達がクラーケンを倒すために立ち寄ったエストの町は、比較的ポールトマスに近い活気のある港町である。
小さな冒険者ギルドもあるため、冒険者や商人などが多く住んでいる。
そのエストの町に、「クラーケン生け捕り」のニュースが入ったのは5日前のことだ。そろそろ、討伐を果たしたAランクパーティ『黒龍の爪』が帰還する頃である。
クエストを出した町の人々や冒険者ギルドの関係者、商人達はもちろんのこと、滅多に見ることができない生きたクラーケンや、それを討伐した英雄達を一目見ようと、港には近隣の町や村からも大勢の観衆が集まっていた。
そんな観衆の中に、一人の少女の姿があった。
一見すると、どこにでもいそうな粗末な服を着た赤毛の娘であったが、すれ違う者が思わず振り返るほど、少女は美しい顔をしていた。
その額には、少女が竜神の花嫁であることを示す、紅い花の模様が彫られている。
少女は観衆の間を割って、船が着く予定の桟橋の近くに来ていた。その手には、小さな袋が握られている。村の人々から掻き集めた僅かな金で、彼女はクラーケンの足を買って帰るつもりだった。
彼女の村は貧しい。小さな砂浜があるだけの、人口80人にも満たない村だ。
村人は共同で管理するボロボロの船に乗り、漁業で生計を立てていたが、半年前、クラーケンのせいで大事な船と働き手を失ったのだ。
村一番の稼ぎ頭であった父を失った彼女と、母を待っていたのは過酷な運命であった。
まだ若く美しかった母は、娘を守るために村の男達の慰み者となった。
昨日まで父にペコペコと頭を下げていた隣人が、今、母を襲っている。少女も別の男に組み敷かれたが、母が男に噛みつき逃がしてくれた。母が男に殴られるのを見ながら、少女は逃げた。
村外れの岩場に隠れながら、少女は自分もそのうち母と同じ道を歩むのだろう、と自分の運命を呪い、勝手に死んだ父を恨んだ。
幼い頃から、同世代の少女の多くが売られていく中で、自分が無事でいられたのは父の存在があったからだ。母はかつて海で遭難していたところを父に救助され、そのまま妻となった「よそ者」である。よそ者の母と、父を失った少女を守ってくれる者など、この腐りきった暗い村にはいない。
少女はフラフラと立ち上がると、岩場を抜けて村から遠ざかった。
母の故郷の歌だという、哀し気な旋律を口ずさみながら、少女は崖まで辿り着いた。
崖から見下ろす海は暗く、岩にぶち当たる砕けた波の雫だけが白く光っていた。
「お母さん。ごめんなさい」
少女は小さく呟くと、崖から身を投げ出した。
あの波のように、自分も砕けて泡になって消えるのだ、と少女は思っていた。が、少女を待っていたのは岩にぶつかる衝撃ではなく、ふわっと風に抱かれる感触だった。
「娘、何を泣く」
「……え?」
少女を抱いていたのは、風ではなく一人の青年であった。青年は宙に浮いていた。潮風に吹かれて、短い銀髪がサラサラとなびいている。紅い瞳が宝石の様で美しい。
「あなた、魔術師様?」
空を飛ぶ人間など、お伽噺に出てくる魔術師以外、少女は知らない。
「違う」
青年は柔らかく微笑んだ。その笑みは、母にそっくりだった。
「じゃあ、セイレーンね?」
少女の問いに、青年は目を見開いた。
「セイレーンを知っているのか?」
「うん。私のお母さん、セイレーンなの……内緒だけど」
空を飛ぶセイレーンなど聞いたことはなかったが、少女にはどうでも良かった。青年は可笑しそうに「はは!」と笑った。
「セイレーンの娘か。どうりで、ただの人間にしては変わった匂いがすると思った。……娘よ。私はセイレーンではない。だが、人でもない」
「……そう」
少女は目を閉じた。「魔物は人を食べるから、近づいちゃだめよ」と母に何度も言い聞かされたが、今更、魔物を恐ろしいとは思わない。食べるなら、さっさと食べて欲しい。
少女の覚悟を感じ取ったのか、青年は再び「はは!」と笑うと、少女を両手に抱えたまま、崖の中腹にある洞穴へと移動した。
「目を開けなさい」
青年に促され、少女は目を開いた。そこには小さな祠があった。
「あ」
少女は顔を強張らせた。遠い昔、村の近くに竜神様が住んでいたと、祖父から聞いたことがあったのだ。
「あなたは、竜神様?」
「そうだ」
「竜神様……!」
少女は青年の腕から飛び降りると、足元にひれ伏した。
「竜神様! お助け下さい! クラーケンが、父を殺しました。大事な船も壊れて、このままじゃ、村は滅んでしまいます」
「なぜ、助けを乞う?」
青年は少女を見下ろしながら、首を傾げた。
「お前の記憶を見た。父の恩を忘れ、母を犯し、お前まで手にかけようとした村を、助けたいと本気で思っているのか?」
「私は……」
青年に言われて、ぞっと背中が冷たくなるのを少女は感じていた。本当に、自分は村を助けたいのだろうか。母と自分を捨てた、あの村を。
「さあ、娘。本当の願いを言ってみろ。本心をみせるがよい」
青年の目が赤く光る。その光は催眠術のように、少女の胸の内を暴いていく。
「私は……母と、私を助けたい……あいつらを、殺したい……!」
「良いだろう。契約してやる。我に身を捧げよ、娘」
「ルーラ」
「ん?」
「娘、じゃない。私の名前はルーラです。竜神様」
「そうか」
青年はまた「はは!」と笑った。
「我が名はデュオン。ルーラよ、お前は我が花嫁となった。我に尽くし、我を満たすがよい」
「……はい。デュオン様……」
こうして、ルーラは竜神の花嫁となった。復讐するために。
ルーラが村に戻った時、母は両手を切り落とされ、裸のまま木に吊るされていた。何人もの男の相手をさせられるうち、耐えきれなくなり、人を食い殺してしまったのだ。そのまま全員食い殺し、逃げることも出来たはずだ。だが、母は耐えた。全ては、ルーラのために。
「お母さん!」
ルーラは変わり果てた母の元へ駆け寄った。
「ルーラ……! 無事だったのね?」
「お母さん……!!」
こんな状態になっても娘の心配をする母の姿に、ルーラは胸が熱くなった。
「お母さん! もう、大丈夫だから!」
ルーラは武器を構えてルーラと母を取り囲む村人達の前で、前髪をかき上げ額を見せた。額にはくっきりと、紅い花が彫られていた。
「私は、竜神の花嫁となりました! この村には竜神様の加護が与えられるでしょう!」
「馬鹿を言うな! おまえの母は魔物だ! お前にも魔物の血が流れておる。そんな者を竜神が嫁にするはずがない!」
村長の声に、「そうだ、そうだ」と村人が同調する。ガツン、と、ルーラの額に石が当たった。投げたのは、近所に住む子供だった。「お姉ちゃん、おばちゃん」とよく懐いてくれた子だった。それを皮切りに、次々にルーラと母に石が投げつけられる。
「やめて! やめて!」
ルーラは吊るされたままの母を庇う様に、母の腰にしがみついた。母の身体から、血と雄の匂いがして、ルーラは泣きたくなった。
「ルーラ……! ごめんね。母さん、我慢できなかった……!」
「ううん! ううん! お母さんは悪くない! 悪くないのに……!」
ルーラの頭に大きな石が当たり、嫌な音がしたその時だった。
母の腕を切り落とした男の頭上に、雷が落ちた。
「きゃあああああああああ!!」
村人達の悲鳴が上がる。
「あれを見ろ!」
一人の若者が指さした先に、空に浮かぶ美しい青年の姿があった。
「魔物か!?」
「うるさいぞ。人間ども」
青年の声は魔力を帯び、村中に響き渡った。
「我が花嫁とその母に石を投げるとは。我が恐ろしくないとみえる」
「ひいっ!」
ガタガタと、村人達は震えあがった。
「りゅ、竜神様……!?」
「我が寝ておる間に、人間どもはずいぶんと傲慢になったものだ。我に対する礼儀も忘れたか」
「ひいっ!」
村長が這いつくばる様に地に頭を付けた。村人達も慌ててそれに倣う。
「デュオン様」
「ルーラよ。お前には力の使い方を教えたはずだ。傷を癒すがよい」
「……はい!」
パチン、とデュオンが指を鳴らすと、母を縛っていた縄がほどけた。母の体重を気合で支えながら、ルーラは回復魔法を唱えた。元々、魔物の血が流れているルーラには魔術師としての才能があったらしく、デュオンから簡単な手ほどきを受けただけで、ルーラは魔法が使えるようになっていた。
「ルーラ! あなたは……!」
母は娘と青年を交互に見ながら、驚愕に目を見開いている。切り取られた腕は元には戻らなかったが、母娘の傷は見る見る塞がっていった。その二人の頭に、ふわりと白い布が舞い降りた。デュオンが羽織っていた羽衣をかけてくれたのだ。
「ありがとうございます。デュオン様」
「そなたは我が花嫁。気にすることはない」
感謝を告げるルーラに無表情で応えると、デュオンは村人へ向き直った。
「ルーラの願いだ。この村に加護を与えよう」
デュオンが指を鳴らすと、村人達の目の前に、大量の小麦や果物、死んだ猪や兎などが並んだ。更に指を鳴らすと、一隻の船が現れた。クラーケンに壊された船より、大きく立派な船だ。
「「「お、おおおおお!」」」
思わず、村人達から歓声が上がる。「奇跡だ」「ありがたい」「竜神様のご加護だ」と次々に口にした。村人達は恐怖からではなく、感謝の意を込めて改めてひれ伏した。
その様子を満足そうに眺めると、デュオンはニタリと笑った。
「月に一度、そなたらに食料を授けよう。その代わり、月に一人ずつ、我に生贄を捧げよ。我は寛大だ。赤子でも老人でも構わぬ」
「え!?」
声を上げたのはルーラだ。復讐を望んだのはルーラだが、死んでほしいと願ったのは母を傷付けた男達だけだ。月に一人ずつ減れば、80カ月で村から人が消滅する。
平伏したまま、しんっと村人達は口をつぐんだ。今、自分達が恐ろしい魔物と契約を交わしていることにようやく気が付いたのだ。
「逃げようとしても無駄だ。すでにこの村の者の身体には、我が刻印が刻まれておる。逃げれば、即、我が贄となろう」
これは、一方的に刻まれ、解除できない契約だ。ルーラは血の気が引くのを感じていた。
(自分達は、この男の家畜になったのだ)
餌を与えられ、太らせ、1頭ずつ食われていく。
(そうさせたのは、自分だ)
ルーラはギュッと、母の手を握った。
「はは! そう怯えるでない。我は寛大だ。自分達を贄にしたくなければ、代わりの者を連れてくるがよい。そうだな。贄の質が良ければ、数カ月免除してやろう」
デュオンは、高らかに笑った。
小さな村に、悪意を植え付けながら。
そうして、半年が経った。
最初の一人は、雷に打たれた男で許してもらえた。
次からの3か月は、不治の病に侵された者を差し出した。
そして先月、ついに村人は外から人を攫い、竜神に捧げた。
そして今月。
全ての元凶であったクラーケンが討伐された。
クラーケンの足1本で免除してやろう、とデュオンが言った。自分達が生きるために殺人を犯し、罪悪感に押しつぶされそうになっていた村にとっては、まさに渡りに船であった。
「見えたぞ! あの船だ!」
「「「おおおお!」」」
エストの港に、歓声が響き渡った。
白と、黒の三角の帆を広げた一隻の船が、桟橋へと近づいてくる。
20メートルほどの船だろうか。船の先端に、5つの人影が見える。
一番小さな影が、ぴょんぴょんと跳ねながら、港に向かって大きく手を振っている。
ルーラは、手の中の袋をギュッと握った。
……なんとしても、手に入れなければ。
ブックマーク、評価、感想、誤字報告等、いつもありがとうございます!
読者の方からファンアートを頂きました!
ありがたいです!
今回は新キャラ登場でした。
既にプロットと違う方向に進んでいて、ハラハラしております。
今後ともよろしくお願いします!