第一話
「ヴィオレットお願い」
キッチンからアルシェの声が聞こえて、カウンターに料理の乗ったお皿が出される。
「はーい」
私は返事をしてそれを受け取ると、お客さんが待つテーブルに運んだ。
「お待たせしました。特製ハンバーグとヒレステーキです」
「お! ヴィオレットちゃんありがとう」
「ヴィオレットちゃんを見ると仕事の疲れも吹き飛ぶよ」
「あはは、いつもありがとうございます」
お客さんの前に料理を並べて、笑顔を返す。
常連さんとのいつものやり取りだ。
放課後、幼なじみのアルシェの家族がやっているレストランで働き始めて三年目。
この時間はいつも、仕事帰りや学校帰りに寄ってくれる常連さんで賑わっている。
入りたての頃はほとんどお客さんとの会話もなかったけど、今では向こうから気安く声をかけてくれるようになった。
調理学校に通うアルシェも、学校が終わった後キッチンでお父さんの手伝いをしていて、私はアルシェのお母さんと一緒にホールを担当している。
「お疲れさま、ヴィオレット」
「今日もありがとうヴィオレットちゃん」
「また明日もよろしくね」
「はい! お疲れさまです」
閉店作業が終わり、アルシェと二人連れ立ってお店を出た。
アルシェの家はレストランのすぐ裏だけど、いつも私を送ってくれる。
夜更けの静かな道を、ゆっくりと歩く。
冬が来る少し前の、空気にまだ色を感じる季節。
今日は月が明るくて、二人の影がよく見える。
いつからか、アルシェの影は私のものより長く伸びるようになっていた。
首を傾げるようにして横顔を覗き見ると、赤銅色の髪が月明かりに照らされている。
そして、髪と同じ色の瞳が、今は少し眠たげに細められていた。
まだ幼さが抜けきっていないけれど、昔から比べればずいぶんと大人びた綺麗な顔。
すると、私が見ていることに気付いたアルシェがこちらを向いて優しく微笑んだ。
私はもうずっと前からアルシェのことが好きだ。
決断力に欠けるところもあるけど、彼はいつも私を頼ってくれる。
そして、「ヴィオレットがいてくれてよかった」と笑ってくれる。
冬が来て春になれば、二人とも卒業だ。
アルシェはお店を継いで、私もこのまま働くつもりだと伝えている。
『アルシェが料理を作って、私が運ぶね。ずーっとそうしようね』
小さい頃のままごと遊びから今も続いている約束。
それが終わることなんて、ないと思っていた。
── ─
冬になり空気は透明に変わったけど、そんな季節の移り変わりなんて、これまで何度も越えていて。
だから、その日も普段と変わらない一日の終わりになると思っていた。
「ヴィオレット、ちょっと相談があって」
いつものように二人で家に帰っていると、珍しくアルシェの方から話しかけてくる。
「何?」
「学校の後輩が今年度いっぱい休学するらしいんだ」
「うん」
「それが、休みたくて休むってわけじゃなくて。本人はその間、調理の勉強ができないことで悩んでて」
「そうなんだ」
「⋯⋯ヴィオレットどうすればいいと思う?」
これまで、アルシェの同級生がお店に来たことはあったけど、調理学校での交友関係についてはあまり聞いたことがなかった。
アルシェは自ら話題を出すタイプじゃないし、結局いつも私がしたい話をしている。
「仲のいい後輩なの?」
「一度実習で同じ組になって、その後もたまに相談に乗ったりしてて」
あの優柔不断なアルシェが人の相談に乗るなんて。
びっくりしてしまったが、家がお店をやっているので、その道については頼れる先輩なのかもしれない。
「そっか。どんな人?」
「真面目で一生懸命で」
アルシェは一度言葉を切って、真剣な表情で続ける。
「何か力になれたらいいんだけど」
「⋯⋯じゃあ、おじさんおばさんに相談して、お店で働いてもらうのはどう?」
私がそう言えば、
「そうだね! ありがとう、ヴィオレット」
と、アルシェは嬉しそうに笑った。
私のその提案は実現して、数日後、後輩の初出勤の日。
お店に入ろうとすると、入れ違いに眼鏡を掛けた学生と思しきお客さんが出てくる。
笑顔で、「ありがとうございました」と言って中に入ると、キッチンにはすでに件の後輩の姿が見えた。
そうか⋯⋯勝手に男の子だと思ってたけど。
そこにいたのは予想に反して、淡い金色の髪の小柄な女の子だった。
「こんにちは」
キッチンに向かって挨拶すると、おじさんの、「はーい、よろしくー」の声が聞こえた後、すぐにアルシェが出てくる。
その後ろを隠れるようにして後輩がついてきた。
「マリエル、ホールを担当してるヴィオレットだよ。ヴィオレット、後輩のマリエル」
「初めまして、ヴィオレットです。よろしくお願いします」
自分の顔がきつく見えることは自覚しているので、できるだけ優しく微笑んで挨拶する。
「マリエルです。よろしくお願いします」
マリエルが言って、頭を下げた。
「ヴィオレットは頼りになるから、困ったことがあったらなんでも聞いて」
「はい。お世話になります」
おとなしくて、礼儀正しい子だ。
二歳年下というのもあるけど、なんというか思わず守ってあげたくなるような雰囲気を持っている。
ホールで仕事をしながらキッチンを見ると、マリエルがアルシェから教わったことを、手にしたメモに書き込んでいる。
二人は身長差があるので、アルシェが時々かがみ込むようにしてそのメモを指さして補足していた。
こうするとアルシェが頼もしい先輩に見えるから不思議だ。
『ヴィオレットどうしたらいいと思う?』
私にとっては、困っている男の子のイメージしかなかったのに。
『ヴィオレット、僕、店を継いでいいと思う?』
ふいに、眉を下げてそんなことを言うアルシェの姿が思い出された。
あれは六年前。まだ十二歳の頃。
アルシェは急に自分の進路に疑問を持ったらしい。
おじさんおばさんが言い聞かせたわけじゃないけど、一人っ子のアルシェは暗黙の了解で店を継ぐものだとまわりから思われていた。
アルシェ自身もずっとそのつもりでいたとは思う。
ただ、多感な時期、決められた道を進むだけで本当にいいのか、と考えてしまったんだろう、たぶん。
ちょうどその直前に、家がお花屋さんをしている同級生が、
「家を継ぎたくない! 旅に出たい!」
と、教室で騒いでいたのでそれに影響されたのかもしれない。
ただ、他にやりたいことがあるわけでもなさそうだったし、もう学校の願書を出す直前だったので、「そのまま進んだらいいよ」と背中を押した。
私の言葉を聞いたアルシェは安心したように笑って、調理学校に進学したのだ。
こんな風に後輩に頼られるまでになったんだから、やっぱりアルシェはこの道が合っていたんだと思う。
閉店時間になり片付けを終えて、今日は三人で外に出る。
「二人ともお疲れさま」
「お疲れさま」
「アル先輩、ヴィオレットさん、お疲れさまでした」
マリエルの家は私の家よりさらに先で、彼女は遠慮していたけど、アルシェと一緒に送っていくことにした。
今日の仕事の振り返りをしながら歩いていく。
「ヴィオレットさん、すごく美人ですよね」
話が一段落したとき、突然マリエルが私を褒め始めた。
「私って子供っぽいじゃないですか。憧れるなぁ」
マリエルの顔には屈託のない笑顔が浮かんでいるように見える。
「私はマリエルさんのかわいらしい感じの方が羨ましいけど」
「そんな⋯⋯、ヴィオレットさんの方が素敵です。私なんか全然敵わないですよ。アル先輩もそう思いますよね?」
話を振られたアルシェは、困ったようにマリエルと私を見た。
彼がこの微妙な質問にうまく答えられる気がしなかったので、私は早々に話題を変えることにする。
「えっと、それは置いといて、マリエルさんは料理が好きなの?」
「はい。うちは両親が忙しくて、ごはんはほとんど私が作ってるんです。兄と弟がいるんですけど、いつも美味しいって食べてくれるのが嬉しくて。ヴィオレットさんはどこの学校に行ってるんですか?」
聞かれて、学校名を教えると、
「わぁ、花嫁さんになるための女子憧れの学校じゃないですか。お料理の授業も楽しんでできそうですね。うちの学校は本格的過ぎてすごく厳しいから大変です。ね、アル先輩」
と、返された。
確かに私の学校は、料理や裁縫などの花嫁修業をするために行くところではある。
調理実習も簡単な家庭料理が中心だし、アルシェやマリエルが通っている調理学校とは求められているレベルが全然違うんだろう。
「特にガブリエル先生の授業は全然合格できなくて。あ、ガブリエル先生っていうのは飾り切りの先生なんですけど、すごく厳しいんですよ。私何回もやり直しさせられて」
「あれは、みんなそうだから仕方ないよ」
それから、しばらく二人の学校の話題が続く。
私がわかるように補足しながら話してくれるので、時々相槌を打ちながら楽しく聞いていた。
アルシェと二人きりのときは私が一方的に喋ることが多く、あまり学校の話を聞いたことがなかったので新鮮だ。
「あ、ヴィオレットさんごめんなさい。わからない話ばかりしちゃって。退屈させちゃってますよね」
「え? 全然そんなことないけど」
私はすぐに否定したが、マリエルは口を押さえてしゅんとした顔になる。
そして、
「気が付かなくてすみません。あ、もうあそこが家なのでありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
と、一方的に言って、家の方に走って行った。
家の前で振り返ってこちらに頭を下げると、そのまま見送るように立ち続けている。
「家入っていいよ」
アルシェが呼びかけたが、私たちが最初の角を曲がるときも、マリエルはそこに立って手を振っていた。