第五話
翌日、朝食を軽く済ませて手早く支度を整えるとジルが約束の時間通りに迎えに来てくれました。
「おはようイリス」
「おはようジル」
早朝はまだ少し寒く、私はストールを羽織って外に出るとジルと並んで歩きます。
「こんな早い時間でごめんね」
「ううん、私が話したいって言ったんだもの。仕事の前なのに会ってくれてありがとう」
隣を歩くジルを見上げると、優しく微笑んでこちらを見ていました。きっと大丈夫だと思いながら話を切り出します。
「⋯⋯実は昨日あのスプーンからジルとノエルの会話が聞こえてしまって」
「え?」
「たぶん、間違ってつながったんだと思うの。すぐに止めようとしたのだけど⋯⋯」
私の言葉にジルは立ち止まり、申し訳なさそうな顔をします。
「それはわけがわからなかったよね、ごめん。全然気付いてなかった」
「ううん。それでその⋯⋯ジルが口説かれてるって話を聞いてしまって」
私は恐る恐る尋ねます。
「口説かれてる⋯⋯?」
ジルはなんのことかわからない顔で少し思案していましたがふいに思い当たったようです。
「⋯⋯神殿の話だな」
「え? 神殿?」
ジルがうなずきます。
「神殿から引き抜きの話を持ちかけられてて。でもまあまったく受ける気がないからイリスにも言ってなかったんだけど」
「神殿から引き抜き⋯⋯」
予想外の答えに戸惑う私にジルが丁寧に説明してくれます。
「昔は神殿の高度な研究も興味があったんだけどね。でも遠いし、変わったところだし、行ったらイリスとの婚約は難しくなるから最初に声をかけられたときに断ったんだけど」
でも、とジルが続けます。
「また最近接触があって。研究所での労働待遇の悪さがどっからか伝わってるみたいでいろいろ好条件を持ちかけてくるんだよ」
ジルはため息をつきます。
「ノエルはイリスも連れて行けばいいって言うんだけど、俺は今の研究所での基礎研究の方が性に合ってるっていうのもあるからね」
「⋯⋯そうだったのね」
私たちはまた歩き出します。
「ごめんね。俺が全然話してなかったから戸惑わせたよね」
「ううん、教えてくれてありがとう。⋯⋯あと聞きたいことがもう一つあって」
「⋯⋯もしかして卒業花のこと?」
ジルはノエルから話を聞いているようでした。
「ええ、そうなの」
思った以上にかすれた声が出て、自分がひどく緊張していることに気付きます。
「本当はあの秘書さんに⋯⋯卒業花を渡したかったって」
ふいに手首をつかまれて歩みが止まります。
「そんなことは絶対に言ってないよ」
ジルが強い口調で否定して私の顔をじっと見ました。
「確かにイリスに卒業花を渡してないのは本当なんだけど、それは誰か他の人に渡したいとかそういうことじゃなくて」
ジルは辺りを見回しました。
「まだ時間はあるからあそこに座って話そう」
私はジルに手を引かれて公園のベンチに向かいました。そして、ジルが敷いてくれたハンカチにそっと座ります。
「最初からきちんと説明するね。そもそも卒業花がどういう花なのかってことから」
「⋯⋯卒業花は自分の運命を咲かせる花、よね?」
私の言葉にジルが微笑みます。
「と思われてるんだけど、ちょっと違うんだ」
私は目を瞬かせてジルの言葉の続きを待ちます。
「あの花はその人が強く思うことを汲んで咲く花なんだよ。だから、例えば好きな人だったりこれから働く場所に関係する花が咲くことが多いんだ」
私は義兄が咲かせたバラを思い浮かべました。姉のことを強く思っていたからあの花が咲いたということなのでしょう。
「自分が望んでることが花に現れたらやっぱりそれが運命なんだって感じるよね。それで、いつからか運命の花って呼ばれるようになったんだよ」
「⋯⋯そうだったのね」
「学校側としても実際の仕掛けを教えない方が純粋な花が咲くだろうってそのままにしてるんじゃないかな。本当の気持ちを咲かせて学生の背中を押す意味もあるんだと思う」
私はあの花にそんな願いがあったのだと感心してしまいました。
「ただ、俺はその仕組みをもともと知ってたんだよね」
そこでジルが視線をそらしながら少し難しそうな顔をしました。これから言いにくいことを言わなければならないというような。
そして、意を決したようにこちらに顔を向けると真剣なまなざしで私の目を見つめました。
「イリスのことを紹介してもらったとき、肖像画と一緒に手紙をくれたのを覚えてる?」
私は良い印象を持ってもらうために添えた手紙のことを思い出しました。
「ええ、覚えてるわ」
「あの手紙を読んで、イリスのことがすごく好きになったんだよ。この人と一緒にいるときはすごく楽に息ができるんじゃないかって思って、もうすごく結婚したいって」
「そ、そうなの」
私は突然の告白にどぎまぎしてしまいました。ジルは至って真面目な顔をしています。
「それで、どうにかしてイリスにも俺のことを好きになってほしいって思ったんだよ」
それからジルは若干遠い目をしました。
「イリスはお姉さんから卒業花のことを、運命の花のことを聞いてるだろうと思って」
なぜかジルの声が段々と硬さを帯びてきました。なんだか苦しそうにも感じます。
「俺との出会いを運命だと思わせたらいいんじゃないかと思って、それで卒業花に念じてアヤメの花を咲かせたんだ」
ジルの言う通り、私の名前イリスはアヤメという意味を持っています。
「お見合いのときにイリスに渡そう、この花があれば俺との出会いが運命だって思って好きになってもらえるって、絶対枯れないように永久保存の魔法をかけたところで、我に返ったんだ」
ジルの目に暗い影が浮かんでいます。
「俺、かなり気持ち悪い人じゃないかと」
私自身はそんなことを感じていませんでしたが、ジルはショックを受けたような顔をしています。
「初対面の男に、あなたの名前の運命の花が咲きましたよって渡されたら絶対に引くだろって思って。しかもこんなガチガチに保存魔法までかけられてて、相当痛いやつじゃないかと」
ジルがため息をつきます。
「あの秘書の話なんだけど、あの人なんでかわからないんだけどことあるごとに自分が運命の人だって俺に言ってくるんだよ。目が本気過ぎて本当に怖いというか。それであの秘書と話してイリスに花を渡さなくてよかったって心の底から思ったんだよ」
あの言葉はそういう意味だったのだと私はハッとしました。
「それに、イリスは心を込めて手紙を書いてくれたんだから俺もそんな花に頼らないで、きちんと自分自身でイリスと向き合って好きになってもらわなきゃいけないと思ったんだ」
「⋯⋯それで、姉から聞いていた印象と違ったのね。がんばってそうしてくれていたのね」
ジルは努力して私に笑いかけたり話をしてくれていたのでしょう。
「うーん。いや、そこはがんばったわけではないんだよ。なんというかあの頃の自分はかなり無理してた自覚があって。特に目的もないのに教授に勧められるままに2回も飛び級して、そうした手前それなりの成績を取るために必死になってたらまわりに気を配る余裕もなくなってて」
いつの間にか無愛想なイメージが定着して、とジルが言います。
「今は今でやっぱり息つく間もないほど毎日が目まぐるしくて、ただひたすら目の前の仕事をこなして⋯⋯。だけど」
ジルの目が穏やかに細められます。
「イリスといるとそういうギリギリの気持ちから解放されるんだ。張りつめてた空気が緩んで呼吸が楽になって。あの手紙を読んでからずっと俺はイリスの温かさに救われてるんだ。だからイリスといると心から笑うことができる」
ジルの言葉に私の心も春の日だまりのようにぽかぽかとしてきました。
「私もジルが笑ってくれて優しくしてくれるから安心できるの」
春の穏やかな風が私たちを包みます。公園に咲く花の香りが風にのって運ばれてきました。そういえば──。
「アヤメの花ってまだ持ってるの?」
私が聞くとジルは苦笑しながらうなずきました。
「今度渡すよ。すごく強く念じただけあって、すごくキレイな花が咲いたから」
ふふっと私が笑うとジルもつられたように笑ってそのまま口づけを落としてくれました。
あの後姉に卒業花の話をして、自分の名前のことを強く考えていたのかと聞くとこんな返事が返ってきました。
「彼が私の名前の花を咲かせるって張り切ってたから、私も同じ花が咲けばいいなと思ったのよね」
二人のバラは新居の庭に仲良く並んでいます。
リアとは頻繁にお茶会をして友情を深めています。ノエルは2年の留学期間を1年半で終わらせる予定で猛勉強をしているそうです。
「あいつは学生の頃もノエリアさんと早く結婚するために飛び級してたからな」
とジルが言っていました。
ジルは研究所での労働環境を改善するために、引き抜きのお話をそれとなく匂わせて、真っ当な勤務時間と休日を所長さんにお約束させたそうです。
私の部屋には魔法がかけられたアヤメが今もキレイに澄んだ紫色で咲いています。魔力で色が変わらないようにかなり高度な魔法がかけられているそうで、当時のジルの本気さがうかがえます。
ふと、私自身はどんな運命の花を咲かせるのだろうかと考えて、しばらくジルの顔を思い浮かべていると、ふいに花の姿が見えてきました。
私の花はいつもジルが咲かせてくれるのです。
ジルがくれた笑顔や優しさが私の心を温めて、そうして生まれた愛しさを、私の運命の花と呼びましょう。
お読みいただきありがとうございました。
読んでくださる方がいらっしゃってとても嬉しいです。
平成三十一年二月十九日
逢坂積葉