第十六話
「アニエスおめでとう」
学校をしばらく休ませることになってしまったので心配していたが、アニエスも無事卒業が決まったようだ。
「ヴィオレット卒業式来てくれる?」
日にちを聞くと、アルシェの修了式の翌日だった。「大丈夫」と返事をする。
「セオも見に来そうなんだよね。確かに可愛い子多いけど、友達にちょっかい出さないように注意しないと」
「え、いや、大丈夫じゃないかな」
アニエスのこの様子からすると、セオのあの過保護というか盲愛っぷりには気付いていないようだ。
セオがどうしたいのかはわからないし彼の価値観に私が口を挟むべきじゃないけど、誰かが傷つかないように見守っておこう。
「卒業式にはお花持っていくね」
「ありがとう!」
── ─
あっという間に日々は過ぎていった。
年度末の仕事も一段落ついて、来年度の準備が始まっている。
定時に研究所を出て、そのまま待ち合わせのカフェに向かった。
見上げると月がもうすぐ真円になりそうだ。
もう寒くもない。
いつの間にか春の真ん中に立っていた。
カフェの前にアルシェの姿が見える。
手に何かを持っているが、暗くてよくわからない。
近付いてみると、小さめの手提げ袋だった。
「アルシェ、お待たせ」
私がそう言うと、
「ううん、お疲れ様」
と、小さく返ってくる。
顔をよく見ると、緊張しているのかまた紙のように白くなっていた。
「とりあえず入ろうか」
「うん」
私はぎこちない動きのアルシェを促して、店に入る。
前と同じソファの席に座って注文すると、沈黙が流れないように私から話しかけた。
「アルシェ、修了おめでとう」
「うん、ありがとう」
「式はどうだった?」
「結構たくさんいて、変な格好してる人もいたよ」
「変な格好?」
「うん、なんか動物とか、魔法陣の模型背負ってたりとか」
そういえば、そんな格好をするのが魔法学校の名物だと聞いたことがある。
「ただ、さすがに研究生だしそこまでじゃないんだけど。明日の卒業式はもっとすごいみたいだよ」
卒業式。
魔法学校も明日が卒業式なのか。
アニエスの卒業式も明日の午前中だ。
「卒業式は午前中なのかな?」
なぜか口に出してしまった。
「え? うん。確かそうだと思う。興味あるの?」
「ううん」
そして、運ばれてきた料理を食べながら、なんてことない話をして。
それから、マリエルが謝りに来たことを伝えると、アルシェがまた、「ごめん」と言った。
たぶん、彼女が現れなかったら、アルシェと私は今頃、同じ家で食卓を囲んでいたんだと思う。
アルシェは進学しないで、私も研究所に就職していなくて。
あのままずっと一緒にレストランで働いて、同じ場所に帰って。
あの帰り道はそういう未来に繋がっていたと思う。
食後の紅茶が出てきたところで、アルシェがあの手提げ袋から箱を取り出した。
そして、そっと何かを手に取る。
「これ、咲いたんだ」
私は細く息を吸い込む。
アルシェが手にしていたのは、スミレの花。
「それ⋯⋯」
「本当の運命の花」
強く何かに背中を押されたような気がした。
運命の花。
運命の人。
アルシェが言う。
「ヴィオレット、俺と結婚してくれませんか」
私は、膝に置いていた手を──。
── ─
「アニエス卒業おめでとう」
ドレスを着て、いつもと違う大人びた雰囲気のアニエスに、大きな花束を手渡す。
「ヴィオレットありがとう」
「アニエスおめでとう」
「セオもありがとうだけど、どこ見てるのよ。物色しないで、恥ずかしい」
キョロキョロと辺りを見回すセオを、アニエスの肘が小突いた。
あの発言を聞いていなければ、私もそう思ったかもしれない。
でも、たぶん私が思うに彼は、アニエスに近付く輩がいないか警戒しているのだと思う。
まぁ、これくらいなら大丈夫だろう。
私は何気なく、時計塔を見た。
「ヴィオレット用事あるの?」
「え?」
ふいにアニエスに尋ねられて、首を傾げる。
「ないけど、どうして?」
「なんか時間気にしてる風だったから」
そんなことは、と言いかけて、そう言われれば今だけじゃなくて何度か無意識のうちに時計塔の方を見ていたかもしれない。
「ねぇ! 魔法学校の卒業式ってすごいんでしょ」
アニエスがセオに尋ねた。
「ヤバいよ。毎年隣の建物で調理学校のやつらが卒業式やるんだけど、ドン引きしてるからね」
「セオはどんな格好したの?」
「俺は何もかも隠さずに堂々と参加した」
「は? ヤバっ」
「冗談だよ」
二人の会話が遠くに聞こえる。
マリエルも、その場所にいる。
「アニエス、ごめん。やっぱりちょっと行かなきゃいけないところがあって」
「うん、大丈夫だよ。このヤバい人に送ってもらうから」
アニエスは笑顔で送り出してくれた。
── ─
あの日、アルシェが差し出した、スミレの花。
あんなに運命の花に振り回されたのに、今ここにある私を運命だと言う花に、恐ろしいほど強い執着を感じる。
強く強く引き寄せられて、その甘さに手を伸ばさずにはいられなくなる。
失った時間を取り戻せる。
あの道の続きを歩ける。
運命なんだから。
だから大丈夫。
導かれるままに従えばいい。
決めてもらえることが、こんなに楽で安心できるなんて。
アルシェが他人に決断を委ねてしまうのも仕方がないのかもしれない。
それなら、これからも私がアルシェの背中を押してあげないと。
アルシェが迷わないように。
安心して歩いて行けるように。
「ごめん。受け取れない」
なのに、結局口から出たのはそのセリフだった。
運命なんだから間違いないと思うのに、その流れに身を任せようとした私を引き止めるもの。
地面に繋ぎ止めるもの。
私の靴。私の人生。
歩きたい道は、もうアルシェの背中越しに見る世界ではなくなってしまっていた。
たとえ、スミレの花が咲いても、それが私のことだとしても、どうしても他に選びたいものがあるような気がした。
── ─
セオから場所を聞いて、とにかく走る。
そんなに遠くはない。
向かう先に大きな建物が二つ見えてきた。
もう式典は終わったのか、幾人かの華やかな衣装の人とすれ違う。
段々と喧騒が近付いてきた。
会場に到着すると、まだたくさんの学生たちが外で別れを惜しんでいる。
辺りを見渡すと、確かにいわゆるフォーマルな格好をしているグループと、明らかにおかしな格好をしている人たちがいた。
そして、まともな格好をしている人たちはたいていその不思議な服装の集団を遠巻きにしていたが、一部で仲が良さそうに話している様子も見られる。
そして、その中の何人かが、花を渡している姿が目に映った。
あれはきっと、運命の花だ。
渡された相手は本当に嬉しそうにその花を受け取っている。
自分を思わせる花なんだろうか。
二人に関係する花なんだろうか。
知らない二人に、そんなことを考えて。
なぜか、焦る気持ちは消えていた。
逡巡も不安も。
もう、決めていることがあった。
それから、向けた視線の先に探していたその姿を見つけた。




