第二話
さて、今日はジルに誘われて研究所内の自然散策に行きます。許可を取れば一般の人でも入れる人気のデートコースらしいです。家まで迎えに来てくれたジルにエスコートされて研究所に向かいます。
冬が終わり、春先の陽気に包まれたまさに散策日和です。
ジルのお仕事と私の学校がお休みのときは、大抵一緒に出かけます。ジルは忙しく毎日帰宅も遅いと聞いていたので、
「お休みの日くらいゆっくりしなくてもいいの」
と聞いたところ、
「イリスといる方が息抜きになるから」
と笑顔で返されて大変照れました。こんなことをさらっと言えるのだから運命の人効果というのはすごいと思います。
「イリス? どうかした?」
隣を歩くジルが心配そうに声をかけてきました。思い出の世界に入ってぼんやりしてしまっていたようです。
「ちょっとジルとの出会いなどを思い出してました」
「もう一年たつもんね」
二人でしみじみしていると研究所に到着しました。開かれた大きな門の向こうには真っ白い建物がいくつも建っていて、奥には森が見えます。広大な敷地には湖もあるのだそうです。
ジルは守衛さんに、事前に申請していた許可証を見せて私の分の入館証をもらってくれました。入館証は金色のブレスレットでジルが私に付けてくれます。
「イリスこっちだよ」
ジルに促されて奥に進みます。建物の脇を通っていると白衣を着た研究員たちがジルと私を見て少し驚いたような顔をしました。ジルは気にせず、彼らに軽く会釈をして通り過ぎます。同僚の方たちでしょうか、私もできるだけお淑やかに見えるように微笑みながら頭を下げます。
「ジルはここで働いているのですね」
私は歩調を合わせてくれるジルの隣に並びながらつぶやきます。今まであまりジルにお仕事のことを尋ねたことはありませんでした。
「まだ見習いだからね。いろんなところに顔を出して応援要員をしてるよ」
それはとても忙しそうです。私が息抜きになるのならいつでもどこでも駆けつけます。そんな風に決意を新たにしていると、
「ジルさーん所長が呼んでまーす」
と後ろから女性の声が聞こえてきました。振り向くと銀色の長い髪をさらさらとなびかせた美しい女性がこちらに向かって走ってきます。
「所長の秘書だ」
ジルの声はものすごく低くて平坦で眉間には皺が寄っています。秘書さんは私の方をまったく見ないでジルに駆け寄ると、
「所長室でお待ちですよ」
と緑の瞳を潤ませて上目遣いで見つめます。
「今日は休みで、私用で来ています」
ジルの声音はさっきのままです。
「でも急ぎの用事みたいですよ」
秘書さんは引かず、相変わらずうるうるとジルを見上げています。ジルは秘書さんから視線をそらして私の手を取ると申し訳なさそうな顔をしました。
「ごめんイリス。ちょっとだけ付き合ってくれる」
私は、はい、とうなずきながら、つながれた手に少し力を込めました。
「あら、ジルさん。部外者は研究棟には入れないでしょう」
秘書さんの視線が初めて私に向きました。
「私がお相手して差し上げ」
「必要ありません」
ジルは秘書さんの言葉に被せて言うと、私を引っ張って足早にその場を離れました。
そして森の入り口近くにある建物に私を連れていきます。ガラス張りの一階にはソファやテーブルがあって何人かがくつろいでいるようです。
「本当にごめんねイリス。このラウンジで待っててもらっていいかな。できるだけ早く戻ってくるから。紅茶を持ってくるね」
「大丈夫よジル。私のことは気にしなくていいから」
私は声をかけましたが、ジルはお盆に紅茶とお菓子を載せて持ってきてくれました。そしてまた私に謝ると別の建物に向かって走っていきます。
私はソファにゆったりと腰かけながら紅茶をいただきます。ガラス越しに見える森にもすでに春が訪れているようで、緑の葉っぱが揺れています。眠くなってしまいそうです。お菓子をいただきましょうか。
そんなことを思っているとガラスの向こうに先ほどの秘書さんが歩いているのが見えました。彼女はラウンジに入ってくると、真っ直ぐに私の方に向かってきます。
「こんにちはジルさんの婚約者さん」
秘書さんはにっこりと笑いながら私を見下ろしました。
「こんにちは。私のことご存じなんですね」
私も立ち上がって挨拶をします。
「私は所長の姪で秘書をしてるの。ジルさんが今日あなたを連れてくると申請してたから見てみたいと思って」
「そうなんですか」
立ち話もなんだから、と秘書さんが向かいのイスに座ったので私も腰を下ろします。
「私のいとこがあなたと同じ学校にいるんだけど、あなたがジルさんと婚約したことを自慢してたって。でもあのジルさんだもの自慢したくなるわよね」
初めての浮いた話の浮力に引っ張られて多少浮かれていたとは思いますが、自慢してたと言われるほどではなかったと思います。
「お見合いのときにジルさんと初めて会ったんでしたっけ」
「はい」
「私はジルさんが研究所の面接に来たときに紹介されたわ」
「そうなんですか」
ジルと会ったのは秘書さんの方が先だったんですね。
「ジルさんが婚約したと聞いてたくさんの女の子たちがショックを受けたわ」
「そうなんですか」
「運命の花がスミレだって聞いて。紫の色を持つ子たちは本当は自分だったのかもって悔しがってたわ」
「そうなんですか」
「でも色が同じだから運命の人っていうのはなんだかちょっと弱い気がしない?」
「はあ」
「あのね」
秘書さんの目がギラリと光った気がしました。そして、私を威圧するように前のめりになって言います。
「私の名前ヴィオレットというの」
それはスミレという意味の名前。
目を瞬かせた私を見て、秘書さんはとても嬉しそうに笑いました。
「私が運命の人だと思うの」
「そうでしょうか」
秘書さんは苛立たしげに目を細めます。
「ジルさんは優しいから言い出せなかったのよ。あなたは偽物。本当の運命のスミレは私なのよ」
秘書さんの目がギラギラと輝いています。その自信がどこから来るのか私にはわかりませんでした。
彼女は満足そうに笑うと立ち上がり、勝ち誇ったように私を見下ろしてから立ち去りました。
私は息を吐いてジルが持ってきてくれたショコラを口に入れます。失礼ながらお口直しです。
彼女が言いたいのは、ジルはスミレが咲いたときに秘書さんこそが運命の人だとわかったけれど、私とのお見合い話がすでに持ち上がっていたのでそれに従ったということでしょうか。
それは私にとっては特別困ったことではないように思えました。
確かにジルの中に私が運命の人だという安心感のようなものがあるからあんなに素の表情を出せるのだろうとは思っていました。
もし、その前提がなくなったとしても、残るのはこの一年ジルが私にとても優しく、私をとても大事にしてくれたという事実です。
私は運命の人だと感じることと、相手を大切にできることは別なのではないかと考えるのです。
運命の人だからという気持ちは一方的で傲慢な態度にもつながります。
だから、ジルが心を開いてくれることに理由があったとしても、私を慈しんでくれることはただただジルの誠実さだと思うのです。
もちろんジル本人が、運命の人が他にいてその人を愛してるけど君に悪いからこのまま結婚するよ、と言ったら私はお断りするでしょう。
それは、その内容に悲しみを覚えたからというわけではなく、そんなことをわざわざ私に言うその人柄に幻滅するからです。
考えていたら少し気持ちがささくれだってしまったので、ショコラをもう一つ、口の中で溶かします。おだやかな甘さが心を溶かしてくれます。
外に目を向けるとジルがこちらに向かって走ってくるのが見えました。すごく急いでいます。
私は立ち上がってジルに笑いかけました。