第十話
俯いたまま、暗澹たる気持ちで所長室に戻る。
すでに、ジルさんやセオはいないようだ。
そういえば飲み物を買うと言って出てきたのに何も持っていない。
どう言い訳しよう。買いに戻ろうか。
考えあぐねていると、中からなぜかアニエスが出てきた。
私の顔を見るとすぐに部屋に向かって叫ぶ。
「お父さーん、ヴィオレット戻ってきたから一緒に帰るねー!」
「え、まだ片付けが終わってな⋯⋯」
「自分で汚くしたんだから一人でやりなよ!」
アニエスは私を引っ張って、ずんずん進んでいく。
「ア、アニエス来てたの」
「うん、ま、とにかく帰ろう。もう馬車使っちゃおう!」
アニエスに言われるまま研究所を出て、近くの乗り合い所で馬車に乗り込んだ。
たぶん私は相当ひどい顔をしていると思うのに、アニエスはとりとめのない話しかしてこない。
そうこうしているうちに家に着いて馬車を降ろされた。
「ヴィオレットゆっくり休んでね」
アニエスはにこにこ笑いながら、手を振って帰っていく。
それからは息をひそめるように毎日を過ごした。
家を出て、仕事をして、帰宅する。
ただ、それの繰り返し。
ジルさんと顔を合わせないようにして、セオとも距離を置く。
これまでの自分の原動力が何か得体のしれないものだったように思えた。
何を求めていたのか、答えは自分の中にあるはずなのにわからない。
動かないでいれば、解決するような気がして、その甘い考えのまま思考を停止させる。
でも、まだ止まってなんかいなかったのだ。
私が始めたこの流れは、もうとっくにいろんなものを巻き込む濁流になっていたのだ。
「ヴィオレット、一緒に所長室に来なさい」
休み明け、いつものように仕事をしていると、伯父が固い表情で私を呼び出した。
「昨日は何をしていた」
所長室に向かう道すがら、伯父から尋ねられる。
いつもとはまったく違う、尋問のような口調。
「⋯⋯家にいました」
ここのところ休みはずっとそうだ。
家でひたすらぼんやりしている。
「そうか」
所長室に着いて中に入ると、セオとさらにはアニエスまでもが机の前に立っていた。
一体どうしたんだろう⋯⋯。
「ヴィオレット、その様子だと何も知らなかったようだな」
「なんですか?」
伯父に言われて、私のあずかり知らないところで何かがあったことだけは理解した。
「昨日セオが、休みだったジルを、私の名前を使って呼び出して仕事をさせた」
思わずセオを見ると、悪びれる様子もなく飄々とした態度で立っている。
「そして、アニエスがその部屋に鍵をかけて出られないようにした」
「アニエスが!?」
アニエスの方はさすがに気まずそうに視線を下に向けていた。
「ジルのご友人が迎えに来て、私が急いで解放したが⋯⋯。それにセオ、ここしばらくジルに過重労働をさせていたようだな」
伯父の重いため息が響く。
「一体お前たちどういうつもりなんだ」
その声には怒りと疲労が混ざり合っている。
しばらく沈黙が流れ、口火を切ったのはアニエスだった。
「あの人が婚約者と会えなくて別れちゃえばいいと思って」
「お前は何を言っているんだ!」
間髪入れず、伯父が怒鳴りつけるがアニエスは怯まない。
「だってそもそもお父さんが悪いのよ! お父さんがさっさとまとめてくれてれば! ヴィオレットがずっと悲しい思いをしてるのはお父さんのせいよ! ヴィオレットが運命の人なのに!」
その叫び声に、私の頭が一瞬明瞭になる。
違う。
悪いのは私だ。
私のせいでアニエスにこんなことまでさせてしまった。
私が悲しい思いをしているのは、私のせいだ。
私のこれまでの生き方が間違っていたから。
ずっと間違っていたから、何もかも駄目になったんだ。
「アニエスごめんね」
アニエスがハッと私を見る。
「ごめんね。私が悪いの。ごめんね」
重苦しい空気が部屋中を満たしていった。
「ジルから、待遇の改善を求められて全面的に受け入れた。別の機関から引き抜きの話も出ていたようだが、ここに残ってくれるということだ」
それから伯父はそれぞれの方を向いて、今後の対応を告げていく。
「セオ、お前には処分を下すからそのつもりで。アニエスも母さんと相談してそれなりの罰を与える。ヴィオレットは今回の件に関わっていなかったから特に言うことは」
「私も迷惑をかけていました」
伯父の言葉を遮って、自分の罪を告白する。
「それに二人は私のために、私のせいでこんなことをしたんです」
伯父は渋面を作り、目を閉じると目頭を強く押さえた。
「わかった。ヴィオレットについてはまた対処を考える」
── ─
それから、また休みの日が来た。
朝起きると家族はすでに出かけてしまっていて、家には誰の気配もない。
あまり食欲がわかないので、飲み物だけを口にする。
また家で引きこもっていようかと思ったが、テーブルの上に、『お昼は自分でどうにかするように』と母の書き置きが残されていたので、仕方なく何か買いに出ることにした。
少し遠いところまで行こうか。
そんなことを考えて歩いていると、
「ヴィオラ」
名前を呼ばれた。
そんな風に呼ぶ人は一人しかいない。
「ニコ⋯⋯」
ずっと避けていたので、どれくらいぶりだろう。
ニコは変わらない笑顔を向けてくる。
「今日はお休み?」
聞かれて頷く。
「何か用事に行くの?」
「お昼を買いに行こうかなと思ってただけ」
「時間があったら、少し一緒にいてもいい?」
私は迷ったが、結局首を縦に振った。
ニコは、よかった、と隣に並んで歩く。
「なんとか六年生に進級できたよ」
「それは、よかったね」
「ようやくあと一年」
うーん、とニコが伸びをして私の方を見る。
「ちょっと行きたいところがあるんだけど、いい? だいぶ歩くんだけど」
もともと遠くに行くつもりだったし、特にすることもない。
私はあまり躊躇うこともなく、「いいよ」と返事をした。
── ─
ニコの言った通りだいぶ歩いて、景色がどんどん変わって、なんだかのどかな風景が広がっていく。
すれ違う人もほとんどいない。
「ごめん、遠くて」
「いいけど、どこに行くの」
この辺りは一度も来たことがない。
ニコの住んでる場所とも違うみたいだった。
しばらくすると背の高い柵と門が現れて、ニコが門の脇にカードのようなものをかざす。
なんだろうと不思議に思っていると、
「これ、学生証」
と、ニコが見せてくれた。
学校名とニコの名前だけが書かれた、シンプルなものだ。
ギィと開いた門の向こうに小高い丘が見える。
どうやらあの丘を登るらしい。
「もうすぐだよ」
ニコの声がして、丘を登りきったとき、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
赤、青、紫、白。
色とりどりの花。
丘の向こう側は一面の花園になっていた。
「すごい⋯⋯」
「ここ魔法学校の敷地なんだ。学生と関係者は出入り自由だけど、あんまり来る人もいないから穴場の⋯⋯」
そこで何故かニコが言いよどんだ。
そのままわざとらしく咳をして、花園の中の道を進んでいく。
「きれい⋯⋯」
私は呟いて、花園の真ん中で足を止めた。
すると、ニコがこちらを見て笑う。
なんであんなに嬉しそうな顔で笑うんだろう。
私はなぜか、ものすごく面映い気持ちになってしまった。
それからまた歩いて、ニコがベンチのある場所まで案内してくれる。
「座ろっか」
ニコが言って、背もたれのついたベンチに並んで座った。
正面に花園が広がっている。
目の端に映った紫色につい視線をやってしまうと、
「スミレ⋯⋯」
スミレの花が一区画を埋めるように咲いていた。
私の呟きに反応したのか、ニコもそちらを見る。
いたたまれない気持ちでその紫から目をそらすと、スミレの隣にスズランが咲き誇っているのが見えてしまった。
なんという組み合わせだろう。
ため息をつく。
「私、自分の名前が嫌いなの」
気付けば口からこぼれ落ちていた。
一度話し始めたら止まらない。
コップが割れて飛び散るみたいに、まとまりのない言葉が飛び出してくる。
「私、全然スミレの花みたいじゃないし。色も雰囲気もまったく違って。派手な外見で、きつい印象で、みんなもそう思ってて。スミレみたいなスズランみたいな花に例えられるような子だったら⋯⋯、私もそんな風になりたかった」
そうじゃない。
何か、何かもっと違うことを私は。
「ヴィオラ」
ニコが優しく呼んだ。
あのとき、ヴィオラと呼ばせることにしたのは、スミレのような自分になれないことからの小さな逃避だったのかもしれない。
「ヴィオラに初めて会ったとき、僕はちょっと落ち込んでて」
自分の内面に意識が向いていたが、ニコが喋り始めて現実に引き戻される。
「え? 私に声をかけてくれたとき?」
「それよりちょっと前。会ったというか、すれ違っただけなんだけど」
ニコがレストランから帰るために扉から出たときのことだと言う。
「ちょうどヴィオラが出勤してきて、僕に『ありがとうございました』って笑顔で言ってくれて」
そんなことがあったかもしれないが、それがなんだというのだろう。
「僕、そのときヴィオラのまわりに満開の花が見えたんだよね」
「え?」
「その瞬間悩んでたこととか、どっか飛んでって」
「⋯⋯うん」
ニコの語りに、どんな反応を返せばいいのかわからない。
「さっき花に囲まれたヴィオラを見て、そのときのこと思い出した」
それからニコは私の顔をじっと見て、
「ヴィオラは美人だし、最初は少し圧倒される人もいるかもしれない。でも、笑顔が素敵で、お店で働いてたときも一生懸命で、研究所で迷ってた僕に声をかけてくれて。ヴィオラにはヴィオラの魅力があって、誰でもすぐそれに気付くと思うよ」
心が温かくなるような笑顔で言う。
私の中で叫び続けていた誰かの声が一瞬止まった。
『それ』がすがるように伸ばしてきた手を、私は押し止める。
私には苦い記憶があった。
「でも、お店のお客さんとはいい関係を築けなかったよ⋯⋯」
「え? どういうこと?」
私が小さくこぼした嘆きに、ニコがすぐに反応する。
「⋯⋯ニコが私に声をかけてくれた日、聞いちゃったの。お客さんが私のこと女王様みたいとか、睨まれてるとか、きつい印象だって言ってたこと」
「あの日?」
ニコは一瞬考えて、すぐに首を振った。
「いやいや、違うよ。僕あのときお店から出たとこだったんだけど、その話聞いてたよ。ヴィオラの話題だったし、ヴィオラと初めて話した日だしよく覚えてる」
どういうことだろう。
「確かお店の女の子が何か失敗したんだよね。それで落ち込んでたのを、常連のお客さんたちが慰めてて」
「それで私の陰口を言ってたんだ」
「そうじゃなくて。ヴィオラも初めの内はいろいろ失敗してたけどって話になって、最初に見たときは美人過ぎて女王様みたいで近寄り難かったとか、接客に緊張してたときは睨まれてるのかと思ったとか、きつい印象を持ってた、けど!」
ニコが最後の『けど』を力強く言った。
「話してみたら全然違って、一生懸命で優しくて人気の看板娘だって。それで話が戻って、その店員の女の子にもすぐ慣れるから大丈夫だよって励ましてた」
「そんな⋯⋯」
そのまま言葉が出てこない。
わだかまっていた心の一部が晴れていくのを感じる。
ずっと勘違いしてた。
自分は駄目だったんだと思ってたけど、そうじゃなかった。
あのとき、ちゃんとお客さんと築いたものがあったんだ。
「⋯⋯ありがとう」
「辛かったね。そんな誤解してたなら、自分に問題があると思っちゃうよね」
そうだ。
私に問題があって、私が間違っていて、だからうまくやれなくて、そう思って。
それから、こんな姿じゃなければ、もっと可愛らしい姿だったら、マリエルみたいだったらこんな風にはならなかったのにと。
それで。
それで?
また、あの手が伸ばされる。
さっき掴みかけた何かを手探りに求めている。