第九話
私はジルさん以外に対しては、まともだったんだろう。
事務のみんなもアニエスからも特におかしいと言われることもなく、むしろ、最近明るいねと喜ばれるくらいだった。
ジルさんが所長に進言していないのか、伯父さんからもたしなめられるようなことはなかった。
私が所長の姪だから強く言えないのかもしれない。
セオに至っては理由はわからないが、私を助長するような行動をする。
マリエルがたまに現れたが、何を話したのかほとんど覚えていない。
ニコのことは私の方が避けていた。
どうしてかわからないけど、会いたくなかった。
もう止まることなんてできないのだ。
私が運命の人だってわかってもらうまで。
マリエルに絶望を見せるまで。
ただ、ジルさんの私を見る目だけがどんどん冷たくなっていった。
季節が巡り、また春が来る。
そして、私は一通の書類を受け取った。
入館許可申請書
外部の人間が研究所内に入るための申請書だ。
提出してきたのはジルさん。
そして、入館予定者に書かれていた名前は、
『イリス』
ジルさんの婚約者だ。
私は素知らぬ顔で書類のチェックを進めていく。
その中で、入館予定日を刻み込むように記憶した。
チェック済みのサインをして、他の書類とまとめて事務長に提出する。
私が考えていたのはただ一つのこと。
早く、
彼女にも教えてあげないと。
── ─
ジルさんの婚約者が来る日。
その日は朝から暖かく、いい一日になりそうな気がした。
私は伯父さんに仕事を頼まれて休日出勤をすることになってしまったが、研究所にいる口実ができたことにむしろ喜ぶ。
本来なら休みのセオに、ジルさんの婚約者が来たら知らせてもらうことと、ついでにジルさんを呼び出す理由を作ってくれるようにお願いする。
何かに突き動かされるように、急かされるように事を進めていった。
「ヴィオレット」
所長室の整理をしていると、伯父さんに気付かれないようにセオが小声で私を呼ぶ。
「伯父さん、ちょっと喉乾いちゃったから飲み物買ってくる。伯父さんもいる?」
「ああ、ありがとう。適当に頼む」
奥で蔵書を運んでいる伯父さんに声をかけてから部屋を出ると、廊下でセオが待っていた。
「来たよ。森の方に向かってるみたいだった。あいついつもと雰囲気が違ってびびったよ」
「そんなことはいいわよ。何か呼び出せる口実は見つかったの」
私が冷めた口調で言うと、セオが肩を竦める。
この一年でセオの態度は砕けたものに変わっていた。
もう共犯者のようなものだ。
「はいはい。じゃ、所長が呼んでるって言っといてよ。こっちは適当にやるから」
そう言ってセオが所長室に入っていくのを見届けて、私は急いで外に向かう。
そして、奥の道に並んで歩く二人の後ろ姿を見つけた。
「ジルさーん所長が呼んでまーす」
小走りでジルさんに駆け寄ると、明らかに不機嫌な顔を向けられるが構わない。
今日、私が話をしたいのは婚約者の方だ。
「所長室でお待ちですよ」
マリエルのような声音。
マリエルのような仕草。
いつの間にかマリエルのような媚びた態度が体に染み付いてしまった。
大丈夫。
こうすれば何もかも手に入る。
マリエルがそうしてきたように。
そうすれば⋯⋯。
「今日は休みで、私用で来ています」
低い声で拒絶されるが、心が麻痺しているように何も感じない。
いつからこんな風になったのか。
「でも急ぎの用事みたいですよ」
引き下がることはできない。
やらないといけない。
教えてあげないといけない。
ジルさんは私から視線をそらして婚約者の手を取った。
「ごめんイリス。ちょっとだけ付き合ってくれる」
一緒に行くつもりだろうか。
それでは困る。
「あら、ジルさん。部外者は研究棟には入れないでしょう」
そこで婚約者のイリスさんを初めてまともに見た。
胸に渦巻くあらゆる感情。
そのすべてを自分から切り離すようにして、声をかける。
「私がお相手して差し上げ」
「必要ありません」
ジルさんの鋭い声が私を制して、庇うようにイリスさんを連れて歩いていった。
おそらく、二人はラウンジに向かったのだろう。
別の道でジルさんをやり過ごして、私もそちらに向かう。
ガラス張りの建物の中でソファに座ってくつろぐ彼女が見えた。
ふわふわした、甘いお菓子みたいな子。
心に押し寄せてくる強い力。
私の中で存在を否定されるみたいに押し潰されてしまったものはなんだろう。
「こんにちはジルさんの婚約者さん」
笑顔を貼り付けて、イリスさんを見つめる。
「こんにちは。私のことご存じなんですね」
思っていたよりも一段低い落ち着いた声。
「私は所長の姪で秘書をしてるの。ジルさんが今日あなたを連れてくると申請してたから見てみたいと思って」
「そうなんですか」
向かいのイスに座らせてもらう。
困ってもいない、動じてもいないような雰囲気に少し圧される。
『ジルさんの運命の人はヴィオレットだったのよ!』
アニエスの言葉を思い出して、自分を奮い立たせた。
「私のいとこがあなたと同じ学校にいるんだけど、あなたがジルさんと婚約したことを自慢してたって。でもあのジルさんだもの自慢したくなるわよね。⋯⋯お見合いのときにジルさんと初めて会ったんでしたっけ」
「はい」
淡々とした返事。
そして何を話しても、「そうなんですか」と言葉以上の意味を持たない相槌が返される。
なぜもっと動揺しないのだろう。
もっと、驚いて、悔しがって、辛そうな顔を見せればいいのに。
マリエルにされた私がそうだったように。
でも⋯⋯、大丈夫。
私には確信がある。
「あのね⋯⋯、私の名前ヴィオレットというの」
そこで、初めて彼女の表情が動いた。
達成感に笑みが浮かぶ。
「私が運命の人だと思うの」
これで、私のものになる。
マリエルを越えるものを手にすることができる。
そうすれば、取り戻すことができる。
けれど、
「そうでしょうか」
イリスさんから返ってきたのは、私が期待していたような負けを認める言葉ではなかった。
どうして、
どうして、
どうして。
私は負けてしまったのに。
私は簡単に認めてしまったのに。
マリエルは他に何を言っていただろうか。
自分で傷をこじ開けて、思い出す。
「ジルさんは優しいから言い出せなかったのよ。あなたは偽物。本当の運命のスミレは私なのよ」
それでも、彼女に諦めたような気配は感じられなかった。
これ以上ここにはいられない。
なぜ私の方がこんな気持ちになるんだろう。
無理やり笑みを作って彼女に背を向ける。
ラウンジを出て、誰の目にも触れない場所に隠れた。
壁にもたれてずるずると落ちていく。
私の中にはびこるあらゆる気持ちが立ち上がって、その名前を晒していく。
屈辱、喪失、嫉妬、劣等感、後悔。
マリエルに勝ちたい。
雪辱を果たしたい、ただそれだけ。
そして、イリスさんに感じているのは、たぶん羨望。
そうありたかったと思う、憧れにも似た気持ち。
マリエルを見返して、それでどうしたかったんだろう。
私の中の誰かが叫んでいるのに、その声の意味を聞き取ることができない。
教えてほしい。
私は何が欲しかったんだろう。