第七話
事務棟にある研究員用のレターボックスに、付箋まみれの書類を怒り任せに突っ込んでいく。
不備だらけの研究員たちにも怒ってはいたが、あの日からマリエルへの苛立ちが体中を這い回るように私を蝕んでいた。
「ヴィオレット」
「なんですか」
所長の声がして、伯父さんだから取り繕うこともせず不機嫌な表情のまま振り返る。
そこには、伯父さんともう一人男の人が立っていた。
その人に、一瞬で目を奪われる。
「ヴィオレット、来年度からの研究員に内定したジルくんだよ。彼女は秘書と事務を兼任しているヴィオレットだ。私の姪なんだ」
「初めまして、ジルです。よろしくお願いします」
固い表情だけど、低音の落ち着いた声が耳に心地良い。
「初めまして⋯⋯ヴィオレットです」
「ジルくんは魔法学校を二年も飛び級した優秀な学生さんなんだ。あちらの教授からこの研究所を希望してるって聞いて一本釣りで声をかけたんだが、入所を決めてくれて本当にありがたいよ」
「こちらこそ、こんなに早く内定がいただけて感謝しています。お陰で卒業研究に専念することができます」
二人の会話を聞きながら、目の前の人をじっと見つめる。
見惚れていると言ってもいい。
私の身長も低くはないのに、それより頭一つ分は高い。
足はスラッと伸びて、細身だが引き締まっているのがわかる。
柔らかそうな茶色の髪と同じ色の瞳。
二年飛び級したというから今年十六歳か。
整った顔立ちには少し幼さが残っていて、それが余計に惹きつけられる。
あとほんの少しで大人の男の人に変わる、その予感に、くすぐられるような高揚を覚えた。
そして、心が叫ぶ。
きっと、この人が私の騎士だ。
── ─
彼を見送って、間髪入れず伯父さんに尋ねる。
「ジルさんって彼女とか婚約者とかいるのかな!?」
「お、落ち着け、ヴィオレット」
あまりの勢いに伯父さんがギョッとしているが構わない。
「どうなの!?」
あんなにかっこよくて優秀なんだから、とっくに婚約していてもおかしくない。
祈るような気持ちで答えを待つ。
「雑談中に研究所は男ばかりでむさ苦しいって話をしたら、もともと女性には縁がないようなことを言っていたから、いないんじゃないかな」
なんという幸運だろう。
「伯父さん、彼に打診してください。うちの姪っ子と結婚しませんかって」
「結婚ってそれはいきなりすぎるだろ」
「結婚前提の交際からでいいですから」
伯父さんは少し考えていたけれど、わかったと頷いてくれた。
「今は卒業研究で忙しいだろうから、卒業が決まって研究所に来たときに話してみるよ。もちろん圧力にならない程度にな」
「ありがとう! 伯父様!」
伯父さんはやれやれという顔をしていたが、ほんの少しホッとしたような表情を見せる。
アルシェの一件で私が落ち込んでいたのを知っているので、ずっと心配してくれていたのだ。
その気持ちを利用している気もするが、このチャンスを逃したくなかった。
彼なら、アルシェに劣らないどころか遥か上をいく。
これなら、マリエルに勝つことができる。
しかし、そんな私の期待は、春先にあっけなく崩れ去った。
「すまない、ヴィオレット」
「どういうことよ! お父さん!」
私よりアニエスの方が怒り心頭で、伯父さんに掴みかからんばかりに迫っている。
「いや、申し訳ないとしか言えない。タイミングが⋯⋯、本当にすまない」
ジルさんはつい先日お見合いをして、婚約してしまったらしい。
アニエスが伯父さんに噛み付いているのを、別の世界の出来事のように見つめる。
自分の中から、マリエルの勝ち誇った笑い声が聞こえてきたような気がした。
「そんなにあっさり婚約しちゃうんだったら、お父さんが話してれば絶対いけたよ! ばかばかばか!」
私はまだ湿ったままの傷を感じながら、ただ立っている。
「本当にすまない」
伯父さんの謝罪もこの傷口を塞いではくれない。
『女王様の騎士が見つかるといいですね』
なぶるようなマリエルの言葉が頭の中でこだまして、私は自分の中で何かが潰されようとしているのを感じた。
── ─
ほうっと息を吐いて、確認済みのサインをする。
丁寧で読みやすい字。
訂正する必要のない完璧な仕上がり。
先ほどジルさんが出してきた書類だ。
彼はこの春から見習い研究員として働いている。
紙を差し出されて、「秘書さん、よろしくお願いします」と言われただけなのに、赤面してしまった。
特に笑顔もなく、どちらかといえば愛想のない声だったのに、部屋にいた女性陣が耳をそばだてて、彼をちらちらと見ていた。
ジルさんが部屋を出ていくと金縛りがとけたように詰めていた息を吐く音があちこちから聞こえる。
「見習い君、本当にかっこいいわね」
「寡黙な感じがさらにいいわぁ」
「あの容姿で優秀とか完璧すぎる」
はぁーっとまたため息が重なった。
「本当、婚約者の子がうらやましすぎるわぁ」
マノンさんが言った言葉に、ズキリと胸の奥が痛む。
その痛みが、マリエルやアルシェのことを思い出させて陰鬱な気分になった。
私が隣にいたかもしれないのに。
そうすればマリエルなんかにもう傷つけられることもないのに。
吐き出せない、行き場のない思いがどんどん溜まっていく。
自分が暗く濁っていく。
記憶の中で忌々しく揺れるスズランの白い花を、このよどみで黒く塗りつぶしてしまえればいいのに。
目を閉じても、その白い光が私の傷口を刺し続ける。
「ヴィオレットさん、今日お昼持ってきた?」
お昼休みの鐘が鳴ると、マノンさんが声をかけてきた。
「売店で買おうかなと思ってます」
「じゃあ今日食堂に行かない?」
少し気分を変えようと思い、マノンさんに行きますと答える。
一緒に事務棟を出て食堂に向かっている途中で、足が止まった。
なんでここに⋯⋯。
「ヴィオレットさん? どした?」
「あ、すみません⋯⋯。知ってる人がいて」
視線の先には、食堂の職員らしき人と話をしているマリエルの姿があった。
「今日やっぱり売店にしよっか」
私の顔が強張っているのを見て、マノンさんが何かを察したように言ってくれる。
しかし、行き先を変えるよりも早く、話を終えたマリエルがこちらに気付いて寄ってきてしまった。
「こんにちは」
マリエルが本性を隠したおとなしい態度で私たちに挨拶をしてくる。
「今度、調理学校の学外実習でこちらの食堂にお世話になることになりました」
「⋯⋯そう」
カラカラに乾いた喉の奥から無理やり声を出した。
「またお会いできて嬉しいです!」
「そうなんですね。がんばってくださいね。じゃあ」
私の様子がおかしいことに気付いたのか、マノンさんが会話を切り上げてくれる。
背中に手を添えられて、マリエルから離れた。
「ヴィオレットさん、呼吸ゆっくり」
言われて、はぁはぁと浅い呼吸を繰り返していたことに気が付く。
ひゅっと息を吸い込むと喉が震えた。
「ごめんね。元気なさそうだったから気分転換に誘ってみたんだけど」
マノンさんが申し訳なさそうに言う声に首を振る。
「前に一緒に働いてた子なんですけど、びっくりしただけで大丈夫です」
「そっか」
マノンさんはそれ以上何も言わなかったけど、しばらくの間、優しく背中を撫でてくれていた。
── ─
「ヴィオレット、ヴィオレット、ヴィオレット!」
休みの日にアニエスがものすごい勢いで家を訪ねてきた。
「聞いて! もう早く伝えたかったんだけど、新学期始まって忙しくて!」
アニエスはいつもテンションが高い方だけど、今日は普段以上に興奮している。
私は若干引きながらも、彼女の言葉に耳を傾けた。
「あのね! 研究所に新しく入ったジルさんのことなんだけど!」
名前を聞いて顔が引きつったのが自分でもわかる。
「違うの! いい話だから!」
アニエスが慌てて言って、私はそんな話がある気もしなかったが、とにかく先を聞くことにした。
「ジルさんの婚約者ってなんと私の同級生だったんだけど!」
「⋯⋯それがいい話?」
「違うってば! 黙って最後まで聞いて!」
私は言われるまま口を閉ざす。
「その婚約者、イリスさんっていうんだけど。お姉さんの紹介で婚約が決まったって学校で自慢してたのよ! それでね、お見合いの席でジルさんから運命の花をもらったって言ってて!」
また、運命の花。
可憐なスズランが思い出されて、暗い気持ちが湧き上がった。
「その花が、なんとスミレだったのよ!」
光が闇に落ちてくる。
スズランの花が霞んでいって、ぽっかりと浮かぶ光の中にスミレの花が見えた気がした。
「これはもう絶対ヴィオレットのことよ! みんなはイリスさんの紫の髪と目がどうのこうの言って同じ色の子たちは陰で悔しがってたけど違うのよ! ジルさんの運命の人はヴィオレットだったのよ!」