震災後はいつまで続くのか サブカルチャーに見る災害の心理的補償について
あの震災から七年が経とうとしている。
俺はあの震災の時はたまたま休みで、揺れと同時に停電したので電気ポットも使えず、ポットの蓋を開けてお玉でお湯を組んで、静かだのう停電すると音も消えるのな、と呑気にお茶を飲んでいた。
もちろん、そんな呑気にしてられない人たちも沢山おり、未だに震災後を戦っておられるのだろう。
では震災後はいつまで続くのだろうか?
完全に復興するまで?
心理的負担が消えるまで?
それに対する答えは、実はある。
日本はもうそれに対するモデルケースを持っている。
太平洋戦争。
かつての敗戦と戦後がいつまで続いたのかを、サブカルから考察していってみよう。
戦後の終わりの始まりは、初代ゴジラである。
初代ゴジラには色々な解釈があって、なかにはゴジラは南方で散った英霊が帰ってきた姿である、だからゴジラは皇居を破壊しなかったのだ(制作者が日本人である限りゴジラの正体がなんであれ皇居は破壊できないだろうが)とか、ゴジラの進撃ルートがB29の爆撃ルートと重なる(海上から侵入して重要拠点を破壊していくのだからルートが重なるのはむしろ自然)とか、戦争に被せた解釈がある。
ではゴジラとはなんだったのか。
端的に言ってしまえば、幻想の本土決戦とその勝利である。
実際には本土決戦は行われなかったのだから、攻めてくるのは米軍ではなくもっと別の幻想の存在でなくてはならない。
現実では敗戦したからこそ、幻想では勝利しなければならない。
太平洋戦争の心理補償として見た場合のゴジラの本質はこれである。
ゴジラが戦後の終わりの始まりであるとして、戦後の終わりの終わりはなんであったのか。
それは宇宙戦艦ヤマトである。
宇宙戦艦ヤマトはわざとか? 意図してやってるのか? と思えるほど太平洋戦争の鏡面となっている。
大和は国を救えずに終わったからこそ、ヤマトは地球を救わねばならない。
大和は片道分の燃料しか積まずに沖縄に水上特攻したからこそ、イスカンダルまで行って帰って来なければならない。
極論してしまうとガミラスとの戦いとか枝葉であって、ヤマトは救うために旅立ち帰って来る物語なのだ。
現実ではドイツは同盟国であったが、鏡面構造なのでガミラスはドイツ風になりイスカンダルには開国以来、そして未来永劫の敵であるロシアにイメージが被さる。
と考えると沖縄に特攻した大和とロシア=イスカンダルに向かったヤマト、地理的にも反転している。
アメリカの印象は薄いが、これは時代が下がってアメリカが同盟国の地位を確立したことと、米軍に対する心理補償はゴジラで終わらせていたことによるのだろう。
ゴジラとヤマトを例としてあげたが、これは神話でヤマタノオロチが退治されたりドラゴンが討伐されたりするのと同じ構造である。
災害で受けた被害が甚大であればあるほど、なんとしても幻想ではそれに勝利しなければならない。
そうしないと心理的にやっていられない。
幻想の上でも勝利しないといつまでも災害が終わったことにならない。
だから古代では英雄譚が作られ、現代ではゴジラやヤマトが作られる。
制作者が意図する訳ではない。
時代の無意識がそれを強力に要求する。
フィクションではなく復興を描いたドキュメンタリーではだめなのか? と思う人もいるだろうが、それではだめなのだ。
どれほど前向きに描かれていようともそれは災害からの敗北から始まるものであり、勝利には繋がらない。
下手すると敗北の追体験になるだけの可能性もある。
それに負け方も人それぞれである。
俺みたいに崩れてきた本の生き埋めになりそこから脱出して五分後には静かだのう、お茶がうまいとのほほんとしていた奴もいれば、言葉にできない辛苦を味わっていた人もいるだろう。
リアルであることが、かえって共感を阻む。
共同幻想にまで持っていくには全てを荒ぶる悪神に被せそれを討伐するところまで行かないと、我々はそれを共有できない。
かつては祭りがその機能を担っていたりもしただろうが、もはやそれは失われて久しい。
それができるのはもはやフィクションしかない。
我々はいつの日か海や地底から現れ甚大な被害をもたらす幻想の獣に、いかなる手段を持ってしっても勝利せなばならない。
それがなった日が震災後の終わりである。