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忍者さんのふんどしは独特のものでしたが、
作中のふんどしは実際とは描写が異なっております。
全て書き手の都合によるところです。
「うはははは、綺麗なお玉ちゃんだのう、すべすべのつるつる、うへへへへ、たまらんのう」
……。
(呆けている)
彼は下を覗いて、そう思った。
白い寝間着姿で黒山田城主が掌で愛でているのは、愛妾ではなくて、ちっぽけな水晶玉である。
あれこそまさに、白山本の宝である。
大層な高齢だと聞いてはいたが、確かに城主は凄まじいほどの老人だった。
しわくちゃで小さくて、片腕で持ち上げられそうである。
つるっとはげた頭が、てらてらと暗い行燈の光を映していた。
(隣室に小姓が控えているのだろう)
彼はそう思った。
階下の部屋は無人であるが、だからと言って、この老人に大声をあげられては元も子もなくなる。
「ふへへへへ、うほほほほ、たたた、たまらんのう、タマ子ちゃん」
老人は助平目になって掌の水晶を転がしている。
黒山田城主は水晶に集中している。耳も遠いのだろう。さっきから、ねずみががたがたばたばたと走り回っており、天井に響き渡っているはずなのに、まるで気にしていない。
なんとかなるだろう、と、彼は思った。
さて、やるか、と思った時、唐突に彼は悶絶した。
痒い。
ものすごい。たたた、たまらん。
懐の下がかゆい。もぞもぞうぞうぞ。
思わず手を入れて掻いてみた。そうしたら、ふわっとしたものが触れた。
(小袋の紐がとけている……)
どんな悪戯が働いたか、懐にしまわれた、頭領からの心づくしの護り袋が解けていたのだった。そしてそこから、なにやらぽやぽやふわふわしたものが出ている。
指先でつまんで顔の前に持ってきて――彼は後悔した――うぞぞぞぞぞぞぞ――くそったれ、頭領呆けた、ひっそり呆けてやがった――ああそうか、忍びだけにひっそり――いやいやいや!
猫の毛が、彼の胸に、首筋に、背中に纏わりつくように飛んでいる。
ああもうだめだ、痒い。くそ、痒い。
声や音を出してはならぬ。彼は無音、無言のひとだ。
うぞぞぞぞ。
脇に入ったらしい。ぼりぼりと掻く。少し楽になった感がある。
もう片方の脇もか。ぼりぼりぼりぼり。……。
背中。腹。
だめだだめだ、これは全身ではないか。
ものすごい素早さで、しかし無音で、彼は上半身を掻きまわった。
いつしか彼はもろ肌をぬぎ、しまった素肌を曝している状態となっていた。
大変なことになっているが、纏っていた衣にはびっちりと猫の毛がついている。だめだこんなもの着れない。
(なんとかなる)
彼は深呼吸をする。
落ち着け。上半身が裸体なだけで、何ら問題はない。
要は、ちっぽけな城主から、水晶玉をもぎ取って、ずらかればいいだけだ。
外は暗闇である。誰も気づきはしない。
「うほほほほ、タマ子ちゃん、タマ子ちゅわわああんっ」
ちゅっちゅくちゅっちゅくと、歯のない口で水晶を吸っているらしい。
老城主の目には水晶玉が美女にでも見えているのだろうか。
好機である。逃すわけにはいかない。
彼は上半身を曝したまま、ついに、外れかけていた天井板を取り除き、音もなく下の階の畳に降り立った。
こちらに丸めた背中を向けて、寝間着姿の城主はまるで気づいていない。
ちゅっちゅくちゅっちゅくちゅぱちゅぱと、生々しい音が響いている。
(今だ)
彼は摺り足で踏み出し、城主の首に一撃を与えて気絶させようとした。
ところがその拍子に帯がほどけて袴が落ちた。ひらっ……。
「……」
ふんどしと、足袋と草履、覆面といういで立ちで、彼は仕事に臨まねばならなくなった。
おかげで一撃をくわえようとしたまま、手刀が宙で止まっている。すぐ目の前では小さな禿げ頭が、ゆらゆらと動いていた。
「そう恥ずかしがるでないタマ子よ。可愛いのう、可愛いのう」
城主は掌の水晶に夢中であったが、しかしその時、僅かな影の揺らぎに気づいたのだった。
ん?
と、老人は、助平目と涎のたれた口で振り向き、そこに、ふんどし男を見たのだった。
老城主黒山田は、曲者、ではなく、変態、と叫ぼうとして、首筋に手刀を喰らって白目をむいた。
とさっと軽い音を立てて布団の上に倒れた老人は、そのまま寝息をたててしまう。何とも幸せそうである。
(水晶はどこだ)
彼は手早くかがみこみ、老人の掌を調べたが、見当たらない。
布団の間にこぼれたかと探したが、どこにも見えなかった。
その時老人は口の中でくちゃくちゃと何かを転がし、実に幸せそうな顔で、ん、ごっくん、と喉仏を上下させたのである。
「……」
彼は愕然とした。
(どうしてこんな事態になったのだろう)
(すべては上手く行く――というか、全く何の問題もなく遂行していたはずなのに)
(ああそうか、頭領からもらったあの袋)
(あれが全ての元凶……)
こうしている今も、ぞわぞわうぞうぞと痒い。
小さな虫が這いまわるような嫌な痒さだ。皮膚の表面と言うより、もっともぐりこんだ内側から病んでいる。
溜まらない、できればここで転がりまわりたい――そのうえ、絶望的なことに、猫の毛はどこにでも入り込むのであった。
彼は、痒みを、その部分にまで感じていた。
脇やら首やらではなく、今まだ辛うじて隠れている、その部分まで、ヤラレテしまっているのだった。
(痒い痒い痒い痒い、もうだめだ)
……。
「ずるずび」
と、城主が幸せそうに眠りながらも鼻をすすり始めている。
どうやら猫の病が出てきたようだ。このままではくしゃみが始まり、周囲に気づかれてしまうだろう。
早くせねばなるまい。しかし、どうしたら。
水晶は老人の腹の中とは言え、かっさばいて出すことはできない。
殺さずの護りなのだから――なにが殺さずの護りだ――痒さほど精神を侵すものはない、彼は彼らしくもなく苛々としていた。痒い痒い。内股をもぞもぞさせて、紛らわしている。ああ畜生、このふんどしをほどいてやりたい。
「……」
はっとした。
名案ではないか。
俺は、ふんどしを、脱ぐ。
今ここで、脱ぎ捨てる。それで掻きむしって、ひとまずは落ち着く。
そして、ほどいたふんどしを、だ……。
……。
……。
白山本国の山奥では、忍びの頭領が起きて待っていた。
弟子が任務を終えて帰還するのを待ちわびていたのである。
畳の上で背筋を伸ばして座っていた。
頭領は、少し気になることがあった。
(護りになると言って、儂はあやつに何を持たせてやっただろうか)
……。
もうずっと前から頭領は、今しがた自分がしたことを忘れる癖がついていた。
食事をしたことを忘れる。人の名前を忘れる。
しかし、一族の頭領にそんなことがあってはならない。誰にも知られずに、その秘密を守り通していたのである。
(一体何だったろう。そして、儂が任務を任せた忍びは誰だったか。トビスケだったか、スケマルだったか)
……。
蝋燭の火が揺れた。
音もなく引き戸が開き、弟子が入って来た。
頭領は何食わぬ顔で、戻ったか、スケマル、と、弟子の顔を見てようやく思い出した名を、重々しく言った。
スケマルは、はい戻りました、と、言って、かついだものをどさりと置いた。
白く長い布にぐるぐる巻きにされ、括られて運ばれてきたものは、寝間着姿の老人である。くちゃくちゃと皺の酔った口を動かしながら、実に幸せそうだ。よく寝ている。
「……黒山田の城主殿です」
と、スケマルは言った。
飲み込んだのです、ですから。
頭領は、それで了解した。
とりあえず、宝玉は取り戻せる。
明日の朝、あるいはあさってにでも、自然に出てくるのを待つばかりだ。
後始末は、なんとかしなくてはならないが……。
……。
「この白い紐は何か」
「ふんどしです」
全裸に足袋と覆面を着けたスケマルは、放りだした老人から少し離れた位置で座った。
老人はふんどしに縛られながら、鼻を垂らしており、心なしか、剥げ頭にぶつぶつが出来かけている。
「長い、ふんどしだな」
「忍びのふんどしは、長いものでございますから」
スケマルは頭を下げると、また音もなく退室した。ほうほうと、梟の鳴き声が聞かれている。
若い忍者見習いが、夜闇で訓練をしているのと出くわしたか、うわあ変態、と叫ぶ声が聞こえて来た。
不出来なものですが、この中編を忍者マスターのカミユさんに捧げます。
お読みいただけた読み手様、ありがとうございます。お目汚し失礼しましたm(__)m