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本当ならば、その袋を打ち捨てて行きたいほどだった。
なにが入っているやら、相当厳重に封をされているらしい。
袋の中はかさかさと紙の感触があるので、紙に包まれて、そのうえで袋にいれられたものか。
なにかが嫌だったが、頭領が護りだといって持たせてくれたものを、捨てていくわけにはいかない。今その小袋は、彼の忍び装束の懐にあった。
月のない夜である。
彼は難なく黒山田の地に入り、しいんと静まり返った田畑の間を音もなく抜け渡り、やがて城下に紛れ込んだ。
生ぬるい風が吹く、薄気味の悪い晩だ。
どの家も灯りを消しており、あたりはほとんど闇である。
(たすかる)
と、彼は思った。忍び日和とはこのことである。
闇夜の中にぬうっと立ちはだかるような、巨大な黒山田城を目の当たりにした時は、さすがに武者震いがした。
本来、彼よりも功績を積んだ先輩忍者が請け負うべき仕事なのである。
しかし、もはや怖気づいている暇はない。どぶんと壕に入り、闇を吸い込んだような水の中を渡り、ごく僅かな時間で、城の本丸に忍び込んだ。
とりたてて目立つほうでもなく、そこそこの業績しかあげたことのない彼ではあるが、頭領も認めていた通り、確かに彼の技能、技術は首席級なのだった。
音もなく壊れそうな板を渡り、水音を立てずに泳ぐ。
気配を消して影から影へ移る技も、ひとつひとつの呼吸すら、その場の空気に溶けているように自然なのも、確かに彼が優秀であるからだ。
(だいたいは大丈夫なのだ)
彼自身も、自分の力量は分かっている。
幼い頃から頭領の宅で修行に励んでいた頃から、確かに彼は「できる」男だった。
首席と並ぶほどの力を持っていた。
にもかかわらず、とりたてて目立たない位置に止まっている。
その理由は、一重に彼の体質にある。
(あれさえ、いなければ良いのだが)
彼は任務に当たる時、そればかり考えている。
だいたい、あれに出くわさずに任務を遂行することができている。そうだ、そうそうあれがいるわけがないのだ。
あれ。
(おおお、ぞぞぞ、とする)
柔らかい毛。澄んだ鮮やかな目と、甘い鳴き声――うぞぞぞぞぞ――身震いが出かけて、彼はぎょっとした。
いかんいかん、任務中である。我に返って、足下の砂利のひとつひとつに気を配りながら、静まり返った庭の木から木へ移る。
ここは本丸だろう。
この長屋のあたりは、女どもが寝ているところだと思われる。
見取り図は頭の中に入っていた。
すっと彼は土塀まで近寄る。夜更けまで働いている女中がいるのだろう、厨からは何かを仕込む音が聞こえていたが、その音はまさに手助けだった。
じゃっ、じゃっ、と、米をとぐ音に紛れるようにして、彼は壁をよじ登り屋根へたどり着いた。そして走る。
(どうも、ぞくぞくが止まらない)
その、懐のあたりからだ。
頭領は一体なにをくれたものやら。袋が隠されてあるあたりから、嫌な気配がする。
まさか、と彼は危ぶむ。頭領はなにを自分にくれたのか。
(頭領は俺の弱点をご存じだ……)
その弱点故に、目立つ活躍ができない苦汁を飲まされてきた。
技能技術は優れているので、余計に苦しいことである。
もぞもぞ、うずうず、ぞわぞわ。
……。
(いやしかし、頭領まさか、呆けておられないだろうな)
かくしゃくとした立ち居振る舞い、鋭い眼光と喋り方である。相当な高齢であるが、頭領は健在の――はずだ。
いやいやまさか、と、彼は思う。
育て上げた若い忍びの一人ずつを、頭領は覚えているはずだ。
呆けているわけがない。だから、まさか頭領が、あれのナニを俺に持たせるようなことは、するはずがない……。
黒山田城主は高齢である。
白山本の殿様が代替わりしているのに、黒山田城主は老いてもなお若い世代に譲らずに頑張っている。
ということはつまり、頭領が昔語りをした、件の猫嫌いの殿様そのひとが、いまもまだ、黒山田城主である。
猫が近づくと、くしゃみが出たり涙が出たり、全身がかゆくなり、ぶつぶつができる症状。
それは、どうも黒山田城主だけではなく、黒山田国全体で流行っている病だというが――うん、だから大丈夫だ――彼は自分を安心させている。
だから、大丈夫だ。
そんな、猫嫌いの国、しかもその城の中に、まさかあれがいるわけがないではないか。
あれさえいなければ、任務は成功したも同然である。
あれのせいで、彼は煮え湯を飲まされてきた。
あれ。
あれさえいなければ。
……。
極秘の文書を届けた時。
壁に忍び同士の印をつけようとした時。
いつだって、どういうわけか、ものすごい瞬間を狙って、あれはやってくるではないか。
(まさにそう、俺の邪魔をするかのように)
「にゃーん」
「にえお」
(うぞぞぞぞぞぞぞぞっ)
……。
技能、技術共に首席と並ぶほどだった彼が、未だに冴えない立場である理由。
それは、彼が猫嫌いであることにある。
否。嫌いというわけではない。なかなか愛嬌のある奴らだと思う――ごくり、と彼は唾をのむ。だめだ、あれのことを考えただけで気のせいか、痒い。
くしゃみ、咳の類は克服した。
だが、痒みはどうにもならぬ。
彼もまた、黒山田の城主と同じく、奇妙な猫の病に憑りつかれていた。
(俺のこの弱点を、頭領は御存じのはずではないか)
懐に隠し持った、なんとなく嫌な感じの袋のことを、彼は気にしている。
むずむず、もぞもぞとする。
その感覚は、まさに、あれが側に近寄った時の感じに似ていた。
頭領は高齢であるが呆けてはいない――はずだ。
だから、俺の弱点を忘れてはいない――はずだ。
必死に彼は自分に言い聞かせてから、もういいかげん、このことは忘れて任務に集中しようと思った。
そうだ。黒山田の連中にとって、猫の毛は最強最悪の攻撃となるとしても。
だけど、頭領が呆けていない限り、彼にそんなものを持たせるわけがないのだった。
(呆けては……いない)
そして彼は、この当りだと思う場所で停止した。
城のだいたいの見取り図は頭に入っており、ここがまさに、狙いどころなのだ。
音もなく瓦の上を這い、ヘリまでゆくと、思った通り、彼の手の下には、屋根裏の窓が見えていた。
仄かに明かりが見えているのは、下の階で行燈が灯されているからだろう。まず間違いなく、城主の寝室の行燈の光だろう。
彼はくるっと回転して下に降り、窓の中に踊り込んだ。
屋根の上からついに城の屋内へ入り込んだのである。
非常に埃っぽい屋根裏の中では、ねずみどもが駆けまわっていた。
ちゅちゅちゅう、と、小さな者どもが彼の足元を走り抜けていったが、もちろん彼は平気だ――ねず公は可愛いではないか。
とととんとん、と、ねず公の足音は、恐らく階下に伝わるだろう。
それは確かに忍びの助けとなる。
彼は、たった今ねずみの駆け抜けた床に体を寝かした。板張りになっており、その下がまさに、城主の寝室なのらしい。
やがて彼は、板と板の隙間を見つけ、片目で下を覗くのだった。
忍者さんが任務中に、痒くて溜まらなくなったら大変だろうなあと。
ただそれだけの妄想で書いたものです。
お心を広くお持ちいただければと願いますm(__)m