『彼女の物語』
「物語の中で生きていられたら、どんなにいいだろうね」
窓から入る風は冷たい。身体に良くないと言っても、彼女は受け流してじっと窓の外を見るのだ。視線は隔たりのない世界を見渡せる。けれど彼女自身は、隔たりであるこの屋敷から出ることは永遠に叶わないのかもしれない。
「紙の中で綴られる文字に、わたしがいる。それが例え本当のわたしじゃなくてもいいって今まで思ってたんだ。でもそれってどう足掻いても、やっぱりわたしじゃなかった」
ねえ、傭兵さん。彼女の暗い声音に、傭兵は落としていた視線を彼女へと移した。
「今からでも遅いと思う? 本当の自分を書くの」
彼女は作家、カスタリア・エクトール。愛称はリア、齢三十にしてこの国に留まらず周囲の国々でも有名で、その名を知らない者はいないほどだ。勿論、この傭兵も例外ではなかった。
傭兵はひざの上に広げていた本を優しく閉じた。それを小さな机に置くと、立ち上がって窓を閉めに行く。金具の擦れる音が小さく鳴ると、冷たい夜風は遮断される。振り返ると、彼女は膨れ面で傭兵を責めていた。
「本当の自分を書きたいなら、体調には気を遣うべきではないのか?」
ぐうの音もでないといった表情で、リアは立っている傭兵を見上げた。傭兵はほんの少しだけ微笑んで、上半身だけ起き上がっている彼女を寝かせ毛布をかぶせる。
「もし本当のわたしを書くなら、傭兵さんを出したいんだけど。駄目かな」
「例えば?」
リアは天井を仰いだ。ややあって、口を開く。
「正論ばっかの、お堅いのに掴みどころのない不思議な傭兵さん、とか!」
彼女のいたずらっぽい笑みは傭兵の頬を綻ばせるのに十分だった。
「なら、これから私は世間からそう見られるわけだな」
悪くない。そう思ってしまうのは、心が老いた証拠なのか。それが表に出ていたのだろう、リアはつまらなさそうに口を尖らせた。
「予想してた反応と違う」
「『掴みどころのない』傭兵だからな」
「くっ……やられたわ」
そう言って、リアは無邪気に笑った。
傭兵がリアの傍にいる理由は、簡単だった。
彼女とは昔からの友人でも知り合いでもない。出会う前はただの他人同士だった。傭兵は、ただ依頼を受けた。そしてそれがリアの願いであって、傭兵の本来の仕事だというだけだ。
彼女は幼い頃から大病を患っていた。それはこの時代の技術では手の施しようがない病だった。ほとんどは二十を越えることはなくその生を終える。それなのに三十まで生きている彼女は奇跡としか言いようがない。
だが、この傭兵が傍にいるということは────その奇跡も終わりが近いということだった。
彼女はあの日以来、ぼうっと外を見つめていた視線を紙へと移していた。止まることのない手が、ただの白い紙にひとつの世界を作り上げていく。傭兵はいつもと変わらず、少し離れた場所でリアの書いた本をじっくり読んでいた。
リアの近くの窓は相変わらず開いたままだったが、傭兵はもう何も言わない。物語を書くときは、決まってそうするんだと説得されたのもある。しかしそれよりも、今はもう好きに生きて欲しいと思っていた。彼女の命の灯火は、徐々に消え始めているから。
『瞳』を見れば分かるのだ。数え切れないほど人の死に立ち会った所為なのか、傭兵自身にも分からなかった。けれど、確かに感じ取れる何かがある。
傭兵は密かにそれを仕事として、自身の生に刻み付ける。それは生きる枷であり、死ぬ糧だった。
またひとつ目の前で命が消えるその日を、傭兵は静かに待つことしかできない。
いつもとは違って、暖かな風が吹く日だった。そして、彼女が手を止めた日でもあった。
「傭兵さん!」
傭兵は本から視線を上げた。
「書き終わったよ、本当のわたしの物語!」
心の底からの嬉しさが顔ににじみ出ている。白かった紙に広がる世界をリアは抱きしめ、優しく微笑んだ。しばらくして、傭兵へ金色の瞳を向けた。
「これで、作家『カスタリア・エクトール』の物語はおしまい。なんたる達成感、幸福感、充実感! もう心残りなんて……」
傭兵は言葉を遮るように、椅子から立ち上がった。彼女がいるベッドの傍まで寄り、手を差し伸べた。
「外へ行こう」
リアは傭兵の手をじっと凝視した。その表情には、不安が浮かんでいた。
「いつもは正論ばかりなのに、今日は変な傭兵さんね」
「今日は暖かい。外を見ていなかった分、その身で外の世界を感じたらどうだ」
「いいわね。でもわたしには無理よ、外に出るなんて……」
彼女らしくない弱弱しい声。しかし傭兵は引かなかった。
「無理ではない」
「……え?」
「私がいるだろう」
当然だと言わんばかりの真顔でさらりと言った傭兵に、リアはきょとんとするしかなかった。そして、困ったように笑った。不安に思っている方が案外馬鹿馬鹿しいのかもしれない。この人なら────。
彼女は傭兵の手をとった。
「よろしく、傭兵さん」
外は清清しく晴れ渡っていた。寒さはどこかへ仕舞われたのだろう、そう思うくらい穏やかで心地が良かった。
リアはただ感動していた。もう何年ぶりの外だ。高い屋敷から見る景色ではなく、自分の本当の目線で感じる木々や建物は思っていたよりも大きい。これが外の世界。窓を開け放して見下ろす世界より、ずっと美しい。
「気分は」
傭兵は彼女のすぐ横について歩いていた。明るい色が使われているショールを羽織ったリアは、高揚した気分のまま傭兵を少し見上げた。
「とても良いわ。傭兵さんの言った通り、暖かい」
普段の無邪気な笑みとは違う、なんとも大人びた表情だった。傭兵は薄く微笑んでうなずいた。
屋敷から出て少ししたところに、草木に囲まれた広場がある。この街の子ども達が遊ぶ場所でもあり、大人たちの安らぎの場所でもあるそこに傭兵とリアは足を踏み入れた。
「あっ、リアお姉ちゃん!」
リアの存在に気付いた、そこで遊んでいた子ども達がリアに駆け寄る。彼女は子どもにも人気だった。まだ彼女が元気だった頃、子ども達は屋敷に忍び込んでリアに会いに行っていたと聞く。彼女の語る世界は、たとえ文章が読めなくても関係ない。誰も見たことのない世界を紡いでいく彼女の言葉は、子ども達に密かな夢を与え続けていた。
「元気になったの?」
「なにか聞かせてよ!」
「新しいお話はある?」
子ども達に囲まれてたくさんの言葉を投げられる。嬉しそうに、けれど戸惑うリアは傭兵をちらりと気にした。邪魔にならないようにと距離をとっていた傭兵は、向けられた金色の双眸に微笑みを返した。
「君のしたいようにすればいい」
決して声には出さなかったが、きっと彼女には伝わった。リアは『ありがとう』と口だけを動かし、子ども達に広場の中央のほうへ腕を引かれていった。
噴水に腰を掛けたリアは、すうっと息を吸って空気を味わった。じっとリアの声を待つ子ども達が座るのは、屋敷のじゅうたんではなく小さな虫もいる青々とした芝生。ほんのりと部屋を明るくしていた灯りではなく、世界を照らす太陽が視界を良好にする。
────ずっと、こうしたかった。あこがれていた。
リアの声は空気になじんでいく。この街の淡い風のように、子ども達の耳を撫でていく。
傭兵は少し離れた備え付けのベンチに座った。彼女の通る声は傭兵の耳にも届く。ついさっき書き終わった物語を彼女は語っているのだろう。弱い主人公の物語。それはいままでの彼女の作品ではありえないことだった。彼女の口から紡がれる言葉は、すでに子ども達に夢を見せるものではなかった。
けれどそれは紛れもなく、『カスタリア・エクトール』の本当の物語だった。
傭兵はリアを見つめた。彼女はきっと心の底から楽しんでいて、全ての新鮮な感覚に高揚している。ベッドの上で無邪気に笑う振りをしているリアの面影など、どこにも見当たらなかった。
気がつけば日は傾いていた。広場には子ども達だけでなく、大人や老人までもが立ち止まって彼女の言葉に耳を傾けている。笑顔を絶やさない彼女は疲れの色を見せ始めていたが、それでも語った。もう物語は終盤だった。
傭兵には、彼女の金の瞳は輝きを失い始めているように感じた。もう、そろそろだろう。傭兵にしか分かり得ない感覚がそう告げる。しかし傭兵はわざわざ止めに入るようなことはしなかった。大丈夫だ、彼女はもう弱くない。
リアは最後の言葉を語り終えた。ふうっと息を吐いて、立ち上がった。
「これでひとつの物語はおしまいです。どうもありがとうございました」
しん、と空気が止まった中、舞台に立つ役者のように優雅にお辞儀をする。刹那、誰かがひとつ手を叩く音を境に、拍手が沸き起こり広場中が歓声に包まれた。
リアは顔を上げた。元気だった頃に仲良くしていた子ども達、良くしてくれた大人達……彼らの顔をみたら泣いてしまいそうだった。だから無理やり無邪気に微笑んだ。でもちっとも苦しくない。
リアは傭兵のいるベンチへ視線を向けた。傭兵は拍手こそしなかったが、視線に気付き、微笑みを返した。
広場の人はまばらになっていた。聴いてくれていた人との他愛もない会話を終えたリアは噴水の縁に座って、空を仰いでいた。空はもう橙に染まっていた。
長い影が彼女にかぶさると、リアは影の本体を見上げた。傭兵しかいないことは分かっていた。けれど傭兵の顔を見ただけで、ふと身体の力が抜けた。横に倒れそうになったリアを傭兵はとっさに腕で支える。彼女はまだ生気のある瞳を困らせてつぶやいた。
「疲れちゃった」
傭兵は無言でうなずいた。空いている片腕で彼女の足を持って抱きかかえ、日の当たらない椅子に座らせた。傭兵も隣に座ると、ゆっくりと独り言のようにつぶやいた。
「自分を押し殺さずにいるのは、楽だっただろう」
彼女は驚いたように傭兵を見る。それもほんのひと時で、彼女は諦めたようにため息を吐いた。
「ばれてたのね」
彼女は気付かれるなどと思ってもいなかったはずだ。しかも、ほんの少しの時間を共にしただけの傭兵に。
「いい表情だった」
目前に死が待っている人の顔じゃないと普通の人は思う。だからこそ彼女の物語を聴いた者たちは元気そうな姿に安心したかもしれない。傭兵は違った。目前だからこそ、輝くのだ。輝くことを止めたのなら、その手助けをする。それが傭兵の密かな仕事のひとつだった。
リアは傭兵の言葉で頬を赤らめて気まずそうに笑った。そのまま、「でも」と口を開く。
「傭兵さんも、自分を押し殺してるんじゃない?」
思ってもいないことが返ってくる。そういう者同士、通じるものがあったのか。
「……そうだな」
傭兵は素直に認めた。そして続ける。
「だが、すでにそれが『私』なんだ。そうでないと生きていけない。けれど君は若かった。自分を殺すのには早すぎるほど」
大して変わらない年恰好の傭兵に、そう言われるのはおかしな話だと思うだろう。しかし傭兵からして、彼女はあまりにも若いのだ。
「変な人ね、傭兵さん」
リアはくすくすと笑う。そうして傭兵の肩にもたれ掛かって、彼女は目の前に広がる世界を凝視した。脳裏に焼き付けるように、じっと。
「わたし、どうして傭兵さんに依頼しようと思ったか、なんとなくわかった気がする」
「……そうか」
彼女は気付いたのだろう、この傭兵の正体に。傭兵はそれを微笑んで受け止めた。またひとつ、物語が終わる。
「心残りはないか」
「ひとつだけ、あるわ」
リアは目を閉じた。
「貴方ともっと、お話したかった、<────>」
私もだ。そう心の中で返事をする。
肩に冷たいものを感じる。傭兵は指の腹で、彼女の白い頬を流れるものをぬぐった。
「おやすみ、リア」
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冷たい風が吹いていた。酒場に充満した酒の匂いをはらう為に、酒場の店主が空く所全てを開けっ放しにしていた。
風が肌を撫でる。傭兵は読んでいた本から視線を外した。ふと、あの日のことを思い出す。あれからどのぐらいの歳月が流れたのか分からないが、傭兵は彼女の顔を忘れたりはしなかった。
再び、本に目を落とそうとする。と、傭兵にとっては気に障る単語が耳に飛び込んできた。徐々に近づいてくるそれを待ち伏せするように、傭兵は本を優しく閉じて机においた。
「<送者>、返事しろっ……おっと」
階段から降りてくる男は、足を組んで頬杖をついたいかにも不機嫌そうな風で待ち構えた傭兵と目が合い、足を止めた。
「……その名で呼ぶな」
傭兵の抑揚のない言葉に、なにやら異議のある紺瑠璃の瞳を傭兵へ向けた。
「お前が返事をしない時はこれが一番なんだ。名を呼んで気付いた例があるか?」
「ないな」
仮面を被ったような表情で答えた傭兵に、男は「ならどうすればいいんだ……」とぼそっとつぶやきながら、頭を掻く。
<送者>。その異名は死が目前にある者の前での名だ。先にも生がある者に呼ばれることほど、筋違いで不吉なことはない。特に傭兵はこの男に気を許しているからこそ、そう呼ばれたくないのが本心だ。
その異名は驚くほど有名になったが、この傭兵がその異名を名乗る者だというのは、ほんの一握りしか知らない。
ただ、傭兵に依頼をする人の中に不思議とそういう人がいる。だから傭兵はそういう人の依頼を受け、送ることを、本当の生業としているのだ。
数々の人々を送った中で、最期に気づいて名を呼んだのは、リアだけだった。それは決して嬉しいことではなかったが────彼女ならいい。そう思えた。
なにも答えないままの傭兵に男はため息をつく。
傭兵に近づいてすぐ横に座ると、男は唐突に手を伸ばして、さっきまで傭兵が読んでいた本に手を伸ばしてとる。
「本? お前がこんなもの読むとはなあ……」
ぱらぱらとめくり、読むというよりは見ながら口を動かした。
「傭兵の話か……。どことなくお前と似てるのは気のせいか?」
男が鋭いのか、作者が忠実なのか。しかしそれはどうでもいいことだ。
「似ているかもしれないが、それは傭兵の話ではない」
「主人公はどう考えても傭兵だろう」
怪訝そうな男に、傭兵はゆっくりと首を振る。
「それは、彼女が主人公だ」
傭兵は薄く微笑むと、男の手から本を取り返しもとあった場所に置く。
リア。彼女のあの通る声は、もう思い出せない。けれど、彼女は彼女の言葉で綴った。傭兵には、それで十分だった。
飾り気のない茶色の表紙をめくる。
ここには彼女が生きている。生きた証がある。
どうも、桜羽かおるです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
全体的にばたばたして書いたので、矛盾や誤字脱字がものすごかったらすいません。
お題小説1弾目よりは、全然重くないしわかりやすいかなあと思います。未読の方はぜひ1弾目もよろしくお願いします。
出てきた登場人物、前作を読み込んで下さった方には、つながりが分かるかもしれません。分かった人いたらすごい。
長くなってしまいました。それでは!
9/29に修正、加筆いたしました。