第四章 俺たちのアンフィニッシュオンライン
花芳中央病院、凛が入院している病室は六階にあった。
学校の帰り、五十嵐と病院で待ち合わせをした秋人たちは、凛の見舞いに訪れていた。
「凛、具合はどうじゃ? 今日はワシの友人を連れてきたぞ」
「先生こんにちは。友達……って、そこにいる人たち? あの、こ、こんにちは」
興味深げに秋人たちを覗き込んだ凛は、少し恥ずかしそうに挨拶をした。
「はじめまして凛ちゃん。私は御月小夜莉、こよりって呼んでね」
「凛ちゃん、わたしは篠冷あんず――」
「それでこっちが秋人と拓哉。あと私の隣にいるのがあんこよ!」
「だからあんずこですぅぅ!」
小夜莉がいつもの如く杏子の名前を省略すると、そんな様子が可笑しかったのか、凛は小さく笑って五十嵐に訊いた。
「先生がお友達を連れてきたのって初めてだね。凛もお友達になりたいけど……大丈夫?」
凛には友達がいなかった。相手をしてくれるのはいつも大人ばかりで、時々入院した子供と仲良くなる事はあっても、すぐに退院していなくなり、凛は孤独な日々を送っていた。
「もちろんだよ凛ちゃん! 今日は凛ちゃんとお友達になろうと思って来たんだから!」
「そうだ凛ちゃん。おみやげも持ってきたんだよ」
拓哉は女の子が喜びそうな本やお菓子を並べると、秋人は凛に手紙を差し出した。
「いきなりで名前も覚えられないだろうからさ、俺たちみんなで自己紹介を書いたんだ。よかったら凛も返事くれよな!」
凛は手紙を受け取ると、とても嬉しそうに返事をした。
「うん!」
それから秋人たちは、凛と他愛のない会話をして過ごしていた。面会時間は限られていたので、それほど多くの事は話せなかったが、凛はずっと楽しそうに笑っていた。
病室にはベッドが一つ。机に置かれたピルケースの中には、たくさんの薬が入っていた。ずっと使われている車椅子、閉じられたままの淡い色のカーテン。そっと飾られた両親の写真。
この狭い空間の中で、凛はどれだけの日々を過ごしたのだろうか。世界で起こる楽しい事も、嬉しい事も、すべてを置き去りにして凛は明日を向いていた。
病院を出た秋人は凛の病室を見上げ、五十嵐に言った。
「早く完成出来たらいいな」
「そうじゃな。じゃが今日は凛も随分と喜んでおった。すまんなお前たち」
「いいんですよおじいさん! 私も凛ちゃんと友達になれて嬉しいんです!」
「凛ちゃんの為に、今日も頑張らないとだね!」
「よーし、それじゃあ気合盛って行くかぁ! 今日は大陸を渡るぜ!」
「おー! っとその前に、私は一旦家に帰るね。今日はお父さんが話があるとか言ってたから」
「じゃあわたしも一回着替えてからこよちゃんの家に行こうかなぁ」
「おっけー、後でじじいん家で集合な! 早く来いよー」
一度自宅に戻った小夜莉は、父から道場へと呼び出されていた。
道場では刀を脇に置いた小夜莉の父が座っていた。小夜莉は大きく息を吸いって気を引き締めると、静かに父の元へ寄り、静かに礼をした。
「お父様。今日は大事なお話があると伺いました」
朝、学校に行く時に大事な話があると告げた父だったが、その内容まで教えてはくれなかった。父は大事な話がある時は、決まって師範として小夜莉と向かい合っていた。
「小夜莉、いつ如何なる時であっても、御月流の心得を忘れてはならぬ。力は自身の為に有らず。正しきものの為に振るわねばならぬ。信念を貫き、大きく成長して行け。私はいつもそう言っておるな」
「はい、お父様」
「宜しい、それではお前にこれを授ける――御月一刀流、代々より受け継がれし刀。刀工、柊一衛が鍛えし一振り。真刀・彩芽だ。これからはこれを持って鍛錬に励むと良い」
父は脇に置いた刀袋から彩芽を取り出すと、そっと小夜莉に差し出した。
「わ、私に彩芽を!? いえ……私はまだ力不足です。まだ彩芽を受け取る訳には――」
「案ずるな、私がこれを先代から授かったのは九歳の頃だった。決して時期が早いわけではない。お前も御月流を学び、もう十年だ。私は遅いぐらいだとも思っている」
「お父様……大事な話とはこの事だったのですね……」
小夜莉は覚悟を決め、両手を差し出して彩芽を受け取ろうとしたが、なぜか父の手が止まった。
「いや、大事な話は彩芽の事ではない。父には一つ心配事があるのだ、小夜莉」
「心配事?」
「お母さんがお前の部屋でこれを見つけたのだが……お前は最近、なにやら秋人を追っている様子が伺える。お前と秋人は昔から良き剣の友でありライバルでもあったが、よもや決闘でも考えているのではあるまいな? 道場を辞めたとはいえ、秋人は同門ではないか……これを機に雌雄を決しようなどと、早まってはいかぬぞ」
「それは……私の日記!?」
父はイルカが描かれた青い旧日記帳を開くと、険しい表情で一文を読み始めた。
「四時十五分、秋人が丘の上公園を通って帰宅。街を見渡せる公園は桜が咲いてとても綺麗。人通りも少ないし、もしも二人でここに来る事が出来れば……」
父がなぞった文章の先には、かわいらしいハートのシールが張られていた。
「そしてこのマーク。小夜莉よ、人通りの少ない公園で、心の臓を一突きということなのか?」
「きゃー! ちょっとお父さん! 勝手に見ないでよ!!」
小夜莉は父から無理矢理日記を奪うと、顔を真っ赤にしながら慌てて日記をしまった。
「決闘はいかんぞ小夜莉……秋人はああ見えて、中々いい腕を持っている。お父さんは秋人と二人で御月流を継承して欲しいと願った事もあったが、お前がそこまで秋人を嫌っておったとは思いもしなかった……許してくれ小夜莉」
「そんなんじゃないって! 別に決闘なんて挑んだりしないわよ!」
「それならよいのだが……」
「もう、お父さんなんて知らないっ!」
蒸気が噴き出しそうなほど顔を真っ赤にさせた小夜莉は、刀の事などすっかり忘れ、道着を着たまま外へと飛び出してしまった。
「あ、こよちゃん、遅かったね」
道場から出てきた小夜莉を迎えたのは、頭に猫耳のカチューシャをつけた杏子だった。
「あ、あんこ……待っててくれたの? って何よその耳……メイド喫茶でも行く気?」
「ネットで頼んでたのが今日届いたんだ。こよちゃんこそ、なんで道着のまま日記持ってるの?」
「お……お父さんに日記見られちゃって、ちょっと話を聞かれてたのよ……」
「えっ、日記ってもしかしてラブリーストーキングダイアリー!?」
「何よその呼び名! これは秋人の行動をことこまかく記したただのメモよ! まったく失礼しちゃうわ!」
「こよ先生、未だに否定しているでありますか。あんずこはもう開いた口が塞がらないですよ」
「まぁいいわ……早く行くわよ。秋人たちを待たせても悪いし」
「その格好でいくの?」
「あんここそ、耳着けたままで行く気?」
「男の子は猫耳に弱いんだよ。だからこよちゃんに貸してあげようと思ったの。はいどーぞ」
杏子は頭に着けた猫耳のカチューシャを取ろうとしたが、小夜莉は手を振って断った。
「猫じゃダメよ、秋人は犬派だもん」
「えー、そうなんだ。でもこよちゃん猫属性だから、ぴったりだと思ったんだけどなぁ」
「何よ猫属性って……ほら、さっさといくわよ! 今日は大陸を渡るんだからね!」
小夜莉は杏子の手を取ると、駆け足で五十嵐の家へと向かった。
『おーい、じじい。早く餌転送してくれよ』
「慌てるんじゃない、今取ってきてやる」
既にUFOの世界に入った秋人と拓哉は、新しく実装した釣りスキルを試そうと、アクラナ湖の畔で釣りを始めていた。
CTの上には釣竿やリールが並べられ、準備は万端かと思われていたが、肝心の餌を作るのを忘れており、五十嵐は軍手をはめて庭の土を掘り起こしていた。
「でておいでーみみずちゃーん」
『じじいは毎回何か抜けてんだよなー。せっかくマグロでも釣って、マグロ盛り盛り祭りでもやろうと思ってたのにさ。これじゃあ気分も半盛りだぜ』
秋人は餌がないまま針を垂らすと、空を見上げて大きな欠伸をした。
『ふわぁぁっ、あー腹減ったなー』
大きく口を開けた秋人だったが、突如空に影が生まれ、一瞬にして嫌な気配を感じた。
『これは――ミミズフラグ!』
案の定、空からは三匹のミミズが降ってきたが、秋人は素早い動きで全てを避けると、落ちたミミズを一匹をつまみ、勝ち誇った顔で言った。
『甘かったな。もうこのパターンは見きってるんだぜ。ふっふっふ』
笑みを浮かべた秋人だったが、CTのセンサーからはみ出た一匹のミミズがくねくねと踊り転がると、時間差で空から落下し、油断していた秋人の背中に入り込んだ。
『ギャー! なんか入ったー! きもちわりぃぃ、拓哉ああああ、早く取ってくれえええ!』
『あーあー、ちょっと秋人、動いちゃダメだよ』
再び庭へ出た五十嵐は、更に土を掘り返し、新たなミミズを取ろうと必死になっている。
「こんにちはー、おじゃましまーす」
遅れて到着した小夜莉と杏子が部屋に入ると、今度はCTの上で踊るミミズに驚き、叫び声を上げた。
「きゃぁぁぁっ! なにこれ気持ち悪いっっっ! たすけてぇぇー!」
部屋から逃げ出そうとした小夜莉と杏子だったが、手のひらいっぱいにミミズを抱えた五十嵐にぶつかってしまった。
空へと舞い上がったミミズの群れは、ベットで寝ている秋人や拓哉の上に落ち、モニターやキーボードの上でもぞもぞと這い回り始めた。
「いやあああああああっっ!」
小夜莉と杏子の叫び声に驚いた秋人と拓哉は、慌てて目を閉じ、外の様子を確認しようとしたが、部屋を映し出すカメラにもミミズが張り付き、大画面でミミズの拡大画像を見る事になってしまった。
『んぎゃああああああああああ!』
「きゃあああああああああああ!」
四人の叫び声が響き渡り、部屋は騒然としていたが、五十嵐は冷静にミミズをつまんでぶら提げた。
「なんじゃ、最近の若いモンは、ミミズが怖いのか」
今日も喫茶やすらぎでエスプレッソを注文した水巻は、大量の砂糖を入れて一気に飲み干すと、意気揚々に喫茶店から飛び出し、五十嵐宅へ向かいながら、来來館へ電話を掛けた。
「あー、もしもし。四丁目の五十嵐ですけど。ええ、いつものメニューでお願いします。え? いつもより注文が早い? いえ、今日は特別でして……ヒヒヒ。よろしくお願いしますよ、お待ちしていますので。ヒヒッ」
携帯を鞄に戻した水巻は、入れ替わりにUSBを取り出し、不敵な笑みを浮かべて電柱の影に身を潜めた。
「フヒヒヒ。さあ、ミッションの開始です」
ミミズを片付け落ち着いた四人は、改めてUFOにログインした。
「今日は新大陸に行くはずでしょ、なんで釣りなんかしてるのよ」
「お前らが遅いから暇だったんだよ。じじいが釣りシステムを作ったって言うから試そうとしてたんだ。せっかくマグロ釣ろうとしてたのに台無しだぜ」
「拓哉くん、マグロってミミズで釣れるの?」
「さあ? でも湖だからマグロはいないだろうね」
「ほら、マグロなんていないのよ。秋人のばーか」
「誰がバカだって? ミミズで悲鳴上げてるお前の方がバカじゃん! バカ小夜莉!」
「なによっ! バカって言う方がバカなんだから!」
「お前が最初にバカって言ったんだろ! バーカバーカ! いてっ、ほっぺつねんな!」
両手で頬を掴まれた秋人は、逆襲とばかりに小夜莉の頬をつねり返した。
「あーあ、また始まっちゃった」
「あんずこ、もう見飽きちゃったかも」
「そういえばあんこちゃん、今日はかわいいカチューシャしてるね、猫耳僧侶萌えってやつかな」
「えへへ、そうでしょー? 本当はこよちゃんにあげるつもりだったんだけど、恥ずかしいからいらないんだって。ねぇ秋人くん、私の猫耳かわいい?」
秋人は頬をつねられたまま杏子を見ると、頭についた猫耳を眺めて頷いた。
「え? おー、あんこ似合ってんじゃん。結構かわいいなそれ」
「なっ!」
それを聞いた小夜莉は驚き、思わず頬をから手を放し、ショックを受けた様子で固まってしまった。
「ほらあ、こよちゃんもつけてみなよー。秋人くんもかわいいって言ってくれたよ」
「わ、私は別に猫耳なんてつけたくないわっ! 恥ずかしいっていうかなんていうかっ、猫よりも犬派だから、でも、秋人がどうしてもっていうなら、付けてあげてもいいなんて思ったり――」
そっと手を伸ばそうとした小夜莉だったが、拓哉が先に前に出ると、杏子から猫耳カチューシャを受け取った。
「こよちゃんいらないなら僕が……どう? あんこちゃん。猫耳似合ってるニャ?」
拓哉は自分の頭に猫耳を装着すると、軽く握った手を招き冗談ぽく訊いた。
「ぶわっしゃー! これは! ケモミミ男の娘萌えですぅぅぅ! 杏子っ、今晩は眠れないかもしれなぅぅぃぃぃ!」
猫耳の拓哉を激しい眼差しで見つめた杏子は、両手を握り空に向かって言った。
「かみさまありがとう。いがらしのおじいさん、あとでスクリーンショットください」
杏子が悦に入っていると、空からインターホンの音が鳴り響いた。
「またかよ、じじいの家は客が多いな」
『まったくじゃ。やれやれ、また営業が来たんじゃないだろうな……』
ミミズの後始末を終えた五十嵐は、雑巾で手を拭きながら玄関へと向かった。
「お待たせしやしたーっ、来來館っす。いつもご贔屓に有難う御座いやすー!」
五十嵐が玄関へと出ると、いつも出前を持ってくる来來館のアルバイトが、おかもちを持って待っていた。
「はて、今日はまだ電話をしておらんかったと思うが? まあよいか……」
「いつものプレミアム盛り五人前っす! えーっと、お会計が――」
五十嵐が玄関で支払いを済ませようとしていると、怪しい影が塀を乗り越え、誰にも気付かれずに敷地へと侵入した。
「ヒヒヒ……上手く行ったぞ。さすがは天才的頭脳を持つこのボクだ。あとはバレないようにこれを差し込むだけで……フヒヒ」
辺りを確認した水巻は、つま先立ちで庭を飛び、システムルームの前で綺麗に着地した。
水巻はミケがいることも調べ上げていたので、用意していた猫まっしぐらの特製マタタビダンゴを取り出し、息を潜めて中の様子を探った。
「プランBに移行、マタタビ団子投下ッ!」
水巻は指を舐めて障子紙に穴を開けると、部屋の中へマタタビ団子を転がした。
団子に気付いたミケは、まっしぐらに団子へ近付くと、一口かじり恍惚の表情を浮かべた。
「プランCに移行、キャットウォーク開始ッ!」
水巻は小さく障子を開くと、小さなマタタビ団子を転がした。ミケが団子に飛び掛ると、水巻は続けて複数の団子を放り投げ、ミケを部屋から庭へ、庭から塀の外へと追いやった。
「最終プランを実行、。USB、デストロイモード発動! 目標へエントリー、オンライン!」
水巻はUSBを五十嵐のパソコンに差し込むと、自身のノートパソコンを取り出し、接続を確認した。
「本作戦は完了した、ヒヒヒ。これより退避行動へ移るッ」
接続を確認した水巻は、庭園の置石を足場に軽々と飛び、ノートパソコン口に咥えながら、鶴のような舞いで華麗に塀にしがみついた。
「やれやれ、今日は揚げ団子盛りか。年寄りにこれだけの油物は酷じゃぞ」
五十嵐は水巻が侵入したことなど知らず、来來館の出前を抱えて部屋へと戻っていった。
「――ん、今何かおかしくなかったか? なんかノイズが走ったような」
秋人が、ふと何かを感じ、辺りを見渡した。
「そう? 別に何も感じなかったけど」
やっと猫耳カチューシャを手に入れた小夜莉は、少し恥ずかしそうに胸元で遊ばせていた。
「ね、ねぇ秋人、猫ってかわいいよね……ほら、ミケとかさ、耳がふさふさして……」
小夜莉は恥ずかしそうに視線を秋人に向けたが、秋人はじっと一点を見つめていた。
「まただ……何か感じる。じじい、なにか実装したのか? 違和感があるんだけど」
「ちょっと秋人! 聞いてるの!? もう、人がせっかく――」
小夜莉が秋人に向かって叫んだ瞬間、小夜莉も違和感のようなものを感じた。
『ん? 何もさわっちゃおらんぞ。生体情報も……うむ、何も問題は無いようじゃが』
五十嵐は三枚のモニターにシステムや生体に関わる全ての情報を表示させたが、問題がありそうな箇所はみつからなかった。
しかし、秋人は再び違和感を覚える。
「まただ……やっぱり何かおかしい。じじい、エラーでもあんじゃないか?」
『いや、そのような物は見当たらんが――』
五十嵐が全ての画面をUFOの映像に切り替えようとした時、突如、空から声が流れ出した。
『はじめまして皆さん。そして感謝する。我に大いなる力を与えてくれることをね』
空に浮かび上がった画面には、仮面をかぶった、ヘッドセットを着けた怪しい男が写っていた。
「なにこれ、あたらしいイベント?」
杏子は不思議そうに映像を見つめたが、五十嵐は驚いた様子で言った。
『いいや、こんな物を作った覚えはない! 誰じゃお前は!』
『これはこれは、ご挨拶が遅れました。私は世界を司るリゾーマタ……螺旋のアルケーとでも名乗っておきましょうか。フフフ』
螺旋のアルケーは不敵に笑ったが、五十嵐が仮面から飛び出したうずまき状の眉毛を見つけると、怒った様子で眉毛を指差した。
『なんじゃ貴様! あの鬱陶しい営業か! そのうずまき眉毛は忘れもせんぞ!』
「なっ! ぼ、ボクは決して水巻ではない! わ、我は、螺旋のアルケーなり!」
「いや、水巻って言っちゃってんじゃん……」
螺旋のアルケーと名乗る水巻は、慌てて眉毛が隠れるように仮面を直すと、動揺した様子でヘッドセットの位置を調整した。
「うぇ……酔う酔う、カメラ揺らすなよ。それにマイク触んな! ざわざわうるせー!」
手に持ったノートパソコンは前後左右に激しく揺れ、突然走り出したせいか、マイクが風の音を拾い始めた。
「すっ、少し待つがいい! 貴様らを混沌に追いやる準備を進めるッ! あ、一人で、いつもの席でお願いします。マスター、さっき預けた鞄をもらえますか」
喫茶やすらぎへ逃げ込んだ水巻は、マスターに預けていた鞄を受け取り、いつもの席へ向かうと慌しく準備を始めた。
「なあじじい、これ消せないのか?」
『それがおかしいんじゃ、一部システムの操作が利かなくなっておる。どういうことじゃこれは』
『アハハハ! ハハハハ! げほっげほっ、ハァハァ……そ、それはボクが作り出したプログラム、水巻システムの効果だ! これによってお前たちは混沌を味わう事となるのだ!』
「あれ、とうとう自分から名乗っちゃった」
テーブルにカメラを設置した水巻は、自慢げに両手を大きく構えた。
『貴様、一体なんのつもりじゃ!』
『五十嵐さん、あなたが悪いのですよ。システムを渡してくれれば良かったのに……このような結果になって非常に残念です。ボクは今から、あなたの作ったシステムを全て破壊します』
「なんだって!? おい、うずまき! お前なに言ってんだ! 勝手なことすんな!」
「そうよ! これはおじいさんが、凛ちゃんの為に作った大切なゲームなのよ!」
「ご安心下さい。データは全て奪い、ボクが新たな管理者として有効利用してさしあげますよ」
「このやろう……じじい、こんなやつ早く追い出しちまえよ!」
五十嵐は急いで侵入経路を探ったが、ハッキングの形跡はなく、サーバーにも異常はみられなかったので、ルートを特定する事が出来なかった。。
『一体どこから入ったんじゃ……』
「無駄ですよ、あなたに水巻システムは打ち破れません、なんたって直接――おっと。それではさっそく、ゲームスタート……いや、この場合はゲームオーバーと言った方が正しいのかな!」
水巻は小さくほくそ笑むと、水巻システムを起動させた。
すると、オブジェクトを構成する上空のパネルが反転し、突然空が明滅した。
「だめ……空が壊れちゃう!」
杏子が悲痛な叫び声上げたが、今度は木々のオブジェクトが透明に変色し、いくつもの数字の塊に変わり始めた。
「おじいさん! なんとか防ぐ方法は!」
拓哉は慌ててゲーム内から操作出来るオンラインシステムを開くと、木のオブジェクト消失を防ごうと、復元のプログラミングを行った。
しかし、復元の速度よりも破壊のほうが早く、ひとつのオブジェクトを直す頃には、複数のオブジェクトが消失してしまい、とても追いつける作業ではなかった。
『破壊を主に置いたプログラムか……一つひとつが独立したせいで、個を破壊した程度では追いつかん! 防ぐには特別なウイルスを投下するのが確実じゃが、短時間で作成したウイルスでは他のプログラムにも影響が出てしまう。中々考えられたプログラムじゃ……』
『お褒めに預かり光栄です、しかしボクとしても納得の出来ではないようです。破壊に掛かる時間が長すぎる……幾重にも組み合わされた複雑なシステム構成のせいなのか? 丁寧な仕事をしていますね。流石と言いたいところですが、これではいつになることやらですよ。はあ」
水巻は人事のように返答すると、モニターを覗き込んで深いため息をついた。
少し黙りこんだ五十嵐は、冷静に考えを巡らせると、小さく声を発した。
『お前たち、世界が壊される前に戻って来い……今はオブジェクトの破壊だけじゃが、システム破壊が進めば、身体に何らかの問題が起こってもおかしくはない……』
五十嵐は悔しさを押し殺してタブレットを掴むと、マスター権限で四人にログアウト画面を表示させた。
カーソルは静かに〈YES〉へと向かっていたが、秋人たちは顔を見合わせて頷くと、同時に 〈NO〉のボタンを押す。
「このまま黙って見ていられるか! これはただのゲームじゃないんだ、じじいが凛ちゃんの為に一生懸命作ったんだろ! 簡単に諦めてたまるかよ!!」
『秋人……』
「そうですよおじいさん! まだ時間はあります。私たちに出来ることがあるはずです!」
「そうだよ、いがらしのおじいちゃん!」
「おじいさん、なんとか破壊ウイルスを止めることは出来ませんか! それまでなんとか僕たちで時間を稼いでみせます!」
『お前たち……うむ、すまない。やってみよう!』
『ははは! 無駄ですよ無駄! そういうの悪あがきって言うんですよ!』
一度は視線を落とした五十嵐だったが、静かに顔を上げると、暗証コードを打ち込み、拓哉にマスター権限を移行した。
『拓哉、ゲームの権限を全てお前に移しておいた。全員でデータの復元を図り時間を稼いでくれ。ワシはその間に対抗ウイルスを作成する』
「わかりました!」
『若造が調子に乗ってくれる。この老いぼれをなめるなよ』
五十嵐の判断に拓哉は直ぐに反応した。
拓哉は水巻ウイルスがプログラムを連鎖的に破壊する侵食型と判断すると、すぐさま壊された範囲を特定した。侵食が進む箇所のプログラムを大幅に放棄すると、侵食が一点に集中するように道を作り、そこで防衛線を張る事を決めた。
拓哉は秋人たちの目の前に緑色に輝く三段の電子のキーボードを出現させると、複数の小さな画面を展開した。
「ここで食い止める! 秋人とあんこちゃんは左右にオブジェクトを展開、こよちゃんは中央、僕は全体をカバーする!」
「拓哉、防衛って言ったってどうすればいいんだ!?」
「水巻ウイルスは破壊対象を見つけて連鎖的にデータを破壊しているんだ。扇状に広がれば追いつく事は出来ないけど、進行を一箇所に集中させれば時間を稼げるはずだ!」
空から始まった侵食は既にアクラナ湖を消し、広大な草原を飲みこもうとしていた。拓哉は左右の草原を見限ると、有と無の世界の境界に一本の大地の橋を浮かび上がらせた。
橋の奥からは水巻ウイルスが侵攻を開始し、ガラスが砕けるような音を響かせながら、四人の方へ迫っていた。
秋人たちは侵食を遅らせようと、オブジェクトを作成しては投下し、侵食とオブジェクトの相殺攻防を続けた。
ウイルス拡散を目指す水巻、それを防ごうとオブジェクトを投下する秋人たち。五十嵐の手は目にも止まらぬ速さで動き、対抗ウイルスの作成を進めている。世界にこだまする無限の攻防。世界を壊す為に、世界を守る為に、それぞれが全力を尽くしていた。
「うう! パソコン苦手だからすぐに追いつかれちゃう!」
小夜莉は人差し指でキーを一つずつ押すと、やっとの思いでオブジェクトを完成させた。
「大丈夫、今は猫の手も借りたいぐらいだから! サポートは僕がするから頑張って!」
大地の一部が破壊されたが、すぐに破壊された箇所へ岩のオブジェクトが埋められた。
「うっ、頑張るにゃぁぁ……」
猫耳をぴこぴこと動かしながら、小夜莉は太鼓を叩く人形のように、懸命に指を動かした。
「あんこ、右側少し圧されてないか!」
「秋人くんのほうこそ!」
苦戦を強いられていたが、拓哉の狙いは成功し、破壊と復元は平行線を辿っていた。
「おじいさん! 対抗ウイルスは完成出来そうですか!」
『うむ……少し静かにしておれ……よし……あと、少しじゃ……!』
次第に五十嵐の鼻息が荒くなり、それがお湯が沸いたやかんのように湯気を放つと、最大の音となって響き渡った。
『フンーーーッ! 出来たぞ! 若造などに遅れはとらぬ!、行くぞ必殺! 五十嵐特効薬A! 患部に止まって長く効く!!』
「決め台詞ダッセー!」
力強くエンターキーを叩いた五十嵐は、空からカプセル型の対抗ウイルスを投下した。
空から降ったカプセルは、患部に止まって溶け出すと、あっという間に破壊されたプログラムへ浸透し、データの破壊を停止させ、自立的な復旧を開始させた。
『よし、成功じゃ!』
「わー、おじいさんすごい!」
「拓哉くん! おじいさんの世界は大丈夫なの?」
「うん、破壊された箇所は多いけど、システム自体には問題は無いようだね」
だが、一同が緊張を解いたのも束の間、水巻は再び不気味に笑い出した。
『あーあ、安心しちゃって。だめですよ、ボクが指を咥えて見ているとでも思いましたか? さあ、第二ステージの幕明けです。ボク、なんだか面白い物を見つけちゃったんですよね。ヒヒヒッ……アハハハハハ!』
破壊を止められたにも関わらず、水巻はずっと不気味に笑いながら、次なる行動を開始した。
『所詮イタチごっこじゃ! 諦めんか若造!』
『いえいえ、イタチごっこではありません。蛇に睨まれたカエル! 猫に追い込まれた鼠! 鷹の目に映る雀です! さあ、早くひれ伏して下さいよ。年寄りの時代は終わりなんですから!』
プログラムが復旧し色彩を取り戻しつつあった世界だったが、水巻は世界全体を見渡すと、一点に視線を注いだ。
水巻の視線に気付いた五十嵐は3Dマップのソースを表示させると、一箇所だけ何も存在しない異質な箇所を見つけた。密集するプログラムの中にぽっかりと空いた空間。座標が指し示す場所には確かにオブジェクトが存在するが、それを構成するデータはなにひとつ無い。
それはまるで、巨大な器だった。
『嬉しいなあ、こんなおもちゃがあるなんて、僕はなんて運がいいんだ。ふむふむ、ウルティメットデストロイヤードラグーン? 究極の破壊竜だなんて、今の僕にぴったりじゃないか!』
「なんだと!? それは俺が作った隠しボスだぞ! おいうずまき、勝手に触んな!」
秋人の叫びも空しく、水巻は破壊竜に全ての水巻ウイルスを送り込んだ。
破壊竜の目には静かに灯が点り、二つの頭がゆっくりと大地を見下ろした。
放たれた咆哮はオブジェクトを割り、噴く息吹は空を濁らせた。振るう九つの尾はプレアデールの塔を半分に消し去り、空間に食い込んだ爪は、いとも簡単にデータを切り裂いていく。
『まずい! 対象はワシが触ることの出来ない範囲外プログラムじゃ、これでは完全に独立したあやつの人形になってしまう!』
「じじい! 止められないのか!?」
『無理じゃ……一度実装したことでUFOの一部と化しておる。くっ、なんということじゃ』
「そんな……俺の作ったモンスターがじじいの世界を壊すっていうのか……?」
「バカ秋人! あんたが変なの作るから悪いんでしょ!」
「こよちゃん!」
拓哉は小夜莉を制すると、無言で首を横に振った。秋人は事の重大さを感じ、困惑した様子でくちびるを噛み締めていた。
「秋人くん、悪いのはあのうずまきって人だよ! そんなに自分を責めないで」
「だけど……俺があれを作らなきゃこんな事には……! チクショウ! 何やってんだ俺は!」
頭を抱えて崩れ落ちる秋人だったが、小夜莉は秋人肩を掴み頬を引っぱたいた。
「――ッ! 何すんだ小夜莉!」
「しっかりしなさいよ秋人! くよくよするなんて秋人らしくないわ!」
「小夜莉……」
小夜莉は目に薄く涙を浮かべ、頬を叩いた手を握り締め震えていた。
「まだ戦いは終わってない! そんな簡単に諦めないで! みんなで凛ちゃんの為に頑張るんでしょ……ここで負けちゃったらおじいさんの努力が無駄になっちゃうよ……だめだよ、そんなの絶対にダメ……それに私……そんな秋人なんて見たく――」
「――危ないこより!」
小夜莉が必死に訴えようとした時、破壊竜の炎が二人を襲った。
「きゃあああああ!」
秋人は咄嗟に小夜莉抱えると、転げるように炎の及ばない場所へ退いた。
「……ありがとう小夜莉。そうだよな、何としてでも俺たちで破壊竜を止めるぞ!」
「うん!」
秋人がいつもの調子で言うと、小夜莉は安心した様子で頷いた。
「でもどうすればいい、こんな武器じゃ役に立たないし……拓哉、何か手は無いか」
「強い武器があればいいけど、今の僕らはお持込み状態だしね……おじいさん、何か強力な武器か魔法を今から作ることは出来ませんか?」
『ダメじゃ……奴め、抜かりなく新規データを優先に破壊対象に切り替えおった。武器や魔法を実装させてもすぐに消されてしまう……CTからのデータ送信はシステム構成が違い問題なさそうじゃが、そんな都合のいい強力な武器など、ワシの家には無いぞ……』
「強力な武器……」
落胆する五十嵐だったが、秋人と拓哉、そして小夜莉が思い出したように同時に声を上げた。
「ドラグーンスレイヤーだ!」
「真刀・綾芽だわ!」
互いは一瞬、驚いたように顔を見合わせたが、直ぐに決心するとそれぞれに動き出した。
「行くぞ! じじいの世界を救うんだ!」
「あんこお願い、お父さんから彩芽を貰って来て!」
「わかったこよちゃん! 彩芽ちゃんだね! 杏子走ります!」
杏子は小夜莉に向かって敬礼すると、SPの続く限り小夜莉に補助魔法を掛け始めた。
「拓哉、バランスブレイカーを掘り出す道具が必要だ! 頼んだぜ!」
「任せて、おじいさん家の納屋に、ガスボンベで動くミニ耕運機を見つけたんだ。あれなら深くまで掘れると思う!」
拓哉もまた秋人に補助魔法を掛け、SPが尽きると同時に、拓哉と杏子はウインドを開いて魔法を唱えた。
「現実帰還!」
現実世界へと戻る二人を見送った秋人と小夜莉は、空を飛ぶ破壊竜を見上げた。
「お前、彩芽受け継いでたんだな」
「ついさっきね、まさかもう使うことになるとは思わなかったわ」
「行けるか小夜莉、俺が武器を手に入れるまでは、少し時間が掛かると思う」
「掘るっていうのはよくわかんないけど、まかせて。秋人が戻るまでは耐えて見せる」
「気合盛ってけよ……でも無理はすんな」
「うん。秋人………………早く来てね」
「当たり前だ。俺がお前を見捨てるわけないだろ」
秋人は小夜莉の肩に手を置いた。震えていた小夜莉は、少しだけ落ち着いたようだった。
「はあっ……はあっ……急がなきゃ……急がなきゃ!」
現実世界に戻った杏子は、大きな胸を揺らしながら、小夜莉の家へと向かった。
「きゃーっ、いったぁい!」
道中、何度も転んだが、杏子はUFOと二人の為、懸命に走り続けた。
「待っててね……こよちゃん……秋人くん!」
杏子が小夜莉の家に向かっている間、拓哉もまた動いていた。
「おじいさん! 倉庫の耕運機、動きますよね!?」
「ああ、大丈夫じゃ! 少し古いがまだまだ現役、ワシはボンベを持ってくるわい!」
「お願いします!」
拓哉は乱暴に納屋の扉を開くと、手前に置かれた箱や傘を放り投げ、無理矢理に耕運機を引っ張り出した。
「よし!」
「拓哉、カセットボンベじゃ!」
拓哉は五十嵐が投げたボンベを受け取ると、耕運機に差し込んだ。
「こよちゃんのお父さんから彩芽預かってきました! ついでにお父さんも!」
息を切らした杏子は刀が入った袋をしっかりと握り、父の腕を掴んで両手を挙げた。
「小夜莉と秋人が大変と聞いてきたのだが……はて、二人はどこに……?」
「説明は後じゃ、急げお前たち!」
部屋に戻った二人は急いでCTに耕運機と刀を置き、データの読み込みを開始した。
「無事か!? 秋人、小夜莉、今から転送するぞ!」
五十嵐は二人に座標を合わせると、それぞれの頭上に刀と耕運機を投下した。
刀を受け取った小夜莉は、素早く袋から刀を取り出して道着を締める帯へと刀を差し込むと、鞘に手を添え、ゆっくりと柄を握り締めて、自分に言いきかせるように呟いた。
『大丈夫。扱える』
耕運機を受け取った秋人は、小夜莉を心配しつつ、急いでワールドブレイクソードが埋まる場所へと向かった。
『頼むぞ……小夜莉!』
『ヒハハ! これは面白い! データが紙くずのように散っていくよ!』
水巻は破壊竜を自在に操り、見境無くデータを破壊して回った。
破壊竜が通った後には、剥き出しになったデータの破片が散乱し、夜の海のような静かで暗い姿を映し出していた。青と黒が同居する空は滲み、無数の穴が開いたオブジェクトは、原型が分からないほどに朽ち果てている。
NPCは迫り来る炎に恐怖を感じる事無く消え、街のシンボルである女神像は粉々になって消えていた。
『さーて、次はどこを壊そうかな……ヒヒッヒヒヒッ――うん?』
水巻が次の目標を定めようとした時、破壊竜の前に小夜莉が立ちはだかった。
「そこまでよ!」
『うん? なんだお前。まさかボクを倒しに来たの? クヒヒッ、面白いなあ、ボクは子供だからって容赦はしないよ。だってキミは、ただのデータだもんね!』
「あなた……どうしてこんなひどいことをするの? おじいさんが一生懸命作ったゲームなのよ。それをこんなに……ひどすぎるわ!」
『そんなこと言われてもなあ、元はといえばあのじいさんが悪いんだ。ボクが何度も頭を下げて頼んだのに断るんだよ? このボクが頼んでいるのにだよ? キミもおかしいと思わない?』
「バッカみたい! そんな自分勝手が通じると思ってるの!?」
『はあ、キミと話すのは面倒くさいなあ。やっぱり戦うのやめよう、さっさとこの世界を壊してデータを持って帰るんだ。あんまり遅くなると、また社長に怒られちゃうからね』
水巻は小夜莉から目を離すと、足元の家を炎で燃やし、結晶となって散っていくデータを破壊竜の体内に吸収させた。
『民家オブジェクト破壊完了と、データコンプリートまであと八割もあるのか。先は長いなあ』
水巻は蓄積させたデータを確認すると、面倒そうにため息をついた。
「馬鹿にして!」
その態度に頭にきた小夜莉は、綾芽を握り締め一閃した。
彩芽を扱う小夜莉の攻撃力は凄まじく、最大の防御値を持つ破壊竜に三桁のダメージを与えた。
『へぇ……このボクにダメージを与えるなんて、キミもやるねぇ! いいさ、遊んであげるよ!』
破壊竜は二つの頭で小夜莉を見下ろすと、鋭い爪を構えて咆哮した。
「御月流十五代目次期当主、御月小夜莉。いざ、推して参ります」
小夜莉は綾芽を握り締め、破壊竜に向かって走り出した。
『よし、現実の物を元にしたものならデータの破損もないようじゃな! 杏子ちゃん、冷蔵庫から栄養ドリンクを持ってきてくれ!』
『はい!』
台所へ向かった杏子は、冷蔵庫を開けて雀のマークの栄養ドリンクを一ケース取り出した。
『おじぃさぁぁぁん、栄養ドリンクですぅぅぅ!』
『よし、お前らそれを飲め! ワシも飲む!』
『こんな時に栄養補給ですか?』
幾分不安そうに訊いた拓哉だったが、杏子は五十嵐に言われるまま勢いよく瓶の蓋を開け、一気にそれを飲み干した。
『ぷはぁっ! ファイト命中! 雀のマークのミナギリンあるふぁ!』
空の瓶を高々に掲げ、どや顔で宣伝文句を決めた杏子だったが、現実世界の杏子の栄養が補給されたところで、秋人たちには何の助けにもなりそうになかった。
『って……飲んじゃいましたけど、この後はどうすれば……』
恥ずかしそうに瓶を下ろした杏子だったが、五十嵐は空瓶をCTの上に置くように指示した。
『空瓶のデータを使い、その中にありったけの最強バフデータを詰め込んでやる。実物から得られたデータが破壊されないのならば、中のデータも安全に送れるはずじゃ!』
『なるほど!』
それを聞いた拓哉も急いで栄養ドリンクを飲み干すと、空になった瓶をCTの上に置いた。
五十嵐はありとあらゆる補助効果のデータを用意すると、瓶の実装と同時に、内部にデータを詰め込んで、五十嵐マークの栄養ドリンクを完成させた。
『秋人の方はどうじゃ!?』
剣が埋まった場所に到着した秋人は、耕運機を使って地面を掘り始めたところだった。
「うぉらぁ! 今の俺に掘れねぇもんはない! 芋でも大根でもなんでもきやがれってんだ!」
『秋人くん、なんか農家化してるんですけど……こよちゃんは大丈夫かな……』
『なんとか戦ってはいるみたいだけど、破壊竜は相当な強さだね……』
『秋人くん! 早くこよちゃんを助けてあげて!』
「待ってろ小夜莉! 今行くからな! ん……何か出てきたぞ!」
地面を掘り進めた秋人は、耕運機の刃が何か固いものにぶつかったのに気が付いた。
慌てて箱を掘り起こし、土を払って蓋を開けると、そこにはいくつもの宝石で飾られた、仰々しい姿のワールドブレイクソードが現れた。
「おおっ! これが最強の剣か……よし、今行くぞ小夜莉!」
秋人は剣を背中に預けると、小夜莉の元へと駆け出した。
『あはははは! キミけっこう強いんだね! でもさあ!』
水巻は破壊竜を操作し、小夜莉の周辺を炎の網で囲った。
「くぅっ!」
『逃げ切れるかなあ? ヒヒッ、破壊竜よ! 特大のファイヤーブレスをお見舞いだ!』
水巻が素早くキーを叩くと、破壊竜は首をもたげて大きく息を吸い込んだ。
四方を炎に囲まれ逃げ場が無くなった小夜莉は、覚悟を決めて防御の姿勢を取った。
ライフは限界まで削れ、杏子が掛けた補助効果の時間も残り僅かとなっている。耐え切れるかもわからぬまま、小夜莉は破壊竜が放つ炎の息を正面から受けようとしていた。
だがその瞬間、炎の網の中に入った影が破壊竜の足を斬りつけた。突然の攻撃にバランスを崩した破壊流は、その巨体を大きく傾け炎の息吹を空に放った。
「秋人!」
「無事か小夜莉!」
「なんとかね……それが、最強の剣……?」
「おうよ、どれだけ強いかはわかんねーけど、やってやるぜ」
秋人は剣を構え直すと、五十嵐から送られた栄養ドリンクをポケットから取り出した。
「これは?」
「じじいが送ってくれたんだ。回復と状態効果のアイテムだってよ」
秋人は歯で器用に蓋を開くと、一気に栄養ドリンクを飲み干した。
瓶を受け取った小夜莉は、走り書きされた瓶のパッケージに目がいった。瓶には「ラブパワーで頑張って!」という文字と、杏子の似顔絵が描かれている。
「ふふっ」
かわいらしいイラストに思わず笑った小夜莉は、瓶を握り、一気に中身を飲み干した。
「ありがとね……」
小夜莉は小さく呟いたが、杏子の耳には届いていた。不安そうに胸元で両手を結んだ杏子は、少し安心した様子で笑う。
「あんこ」
『あんずこですけどねぇぇぇぇぇぇっ!!』
一瞬でも喜んだ自分が馬鹿だったと杏子はめいっぱい叫んだが、小夜莉の耳には届かず、既に視線は破壊竜へと向けられていた。
『ははーん。まだ諦めてないんだ? キミたちも随分としつこいね。無駄だよ無駄。アハハハ!』
水巻はカメラの前で両手を広げると、挑発するように高笑いを響かせた。
その様子には喫茶やすらぎのマスターも、思わず注いだコーヒーをこぼしてしまったが、水巻は指を構えると何度もポーズを決めた。
「小夜莉! 右から回れ!」
秋人は小夜莉に指示を出すと、遠い距離から剣を一閃した。
剣から放たれた斬撃は、破壊竜の腕に大きな傷をつける。
「ギャォォォォォォォォ!」
破壊竜の悲鳴と共に、世界が共鳴するように振動した。
世界を破壊してデータを取り込んでいた破壊竜であったが、ライフの減少と共に、吸収したデータの一部を外に漏らしているようだった。
「データを取り戻せるのか!?」
秋人は再び剣を振るったが、漏洩を恐れた水巻は、破壊竜を空へと舞い上がらせた。
『ボクのデータは渡さないよ!』
「お前のじゃなくてじじいのだろうが!」
水巻は破壊竜を更に上昇させると、攻撃の及ばない距離から氷の槍を吹き出した。
巨大な氷塊は城壁を破壊し、砕けた氷の粒は草花をも消していく。
二人は降り注ぐ氷塊を斬り砕いたが、破壊の力を持つ氷の塊はその破片ですら脅威だった。霰のように毀れる氷の粒は、大地に染みる雨のように、地面を暗く染めていった。
「くそっ! 全部は防ぎきれねぇ!」
『アハハ! アハハ! 無様だねえ!』
高笑いを浮かべた水巻だったが、直後、破壊竜の横を巨大な岩石が落下していった。
それは、拓哉が作り出した岩石のオブジェクトだった。
水巻ウイルスの影響で、新規に作られたデータは優先対象として破壊されていたが、五十嵐の特効ウイルスのおかげで、その機能は弱まりつつあった。
拓哉は単純な岩石のプログラムを組むと、それをコピーし、一斉に上空で実装した。
すると今度は破壊竜から遠い位置で岩石が落下した。水巻が危険だと感じた瞬間、今度はすぐ近くで岩石が通過していった。いくつもの岩石が実装前に破壊されたが、破壊を免れたいくつかは地上へと降り注いでいく。
そしてついに、実装と消失を繰り返しながら破壊竜の直上に岩石が生まれた。
『今だあんこちゃん!』
『いっけぇぇぇっ落石注意!!』
杏子は落下する岩石に座標を合わせると、予め用意していた発火効果をアップデートした。
『なにぃぃぃぃぃぃ!』
破壊竜は突如現れた岩石を避けきれず、体全体で岩石を受けながら地面へ落下していった。
「ナイスだ拓哉!」
「秋人! 奴の気を引いて!」
落下地点へ視線を向けた秋人だったが、刀を鞘に納める小夜莉の意図に気付くと、瞬時に行動を理解した。
「任せろ!」
地上に落ちた破壊竜だったが、力強く六本の足で大地に着地すると、向かってくる秋人に対し鋭い殺気を放った。
「うぉらぁぁぁ!」
秋人の振るった剣を破壊竜の鉤爪が受け止めると、一瞬にして砂塵が円となって荒んだ。
刹那の硬直。秋人は破壊竜の瞳の奥に水巻を見つけた気がした。水巻もまた秋人をモニター越しに睨むと、素早く正確にキーを叩き攻撃を開始した。
その巨体には似つかわしくない俊敏な攻撃の数々。鉤爪の一本は大木よりも太く、針の先よりも鋭利だった。何度も掻く度に世界が壊されるので、秋人は放たれる攻撃を剣で受け止めようとしたが、二本の首から放たれる息吹と、大きくしなる九尾の全てを防ぎきることはできなかった。
『邪魔だ! 邪魔だ! 邪魔だ!』
「負けるかぁぁぁ! 稲垣斬り!」
僅かな隙を狙い、秋人は硬い鱗に覆われた胴を切りつけた。その攻撃には水巻も肝を冷やしたが、互いの勢いが収まることはない。
宿屋の屋根に上った小夜莉は、二つの動きを目で追うと、しっかりと両足を開き、彩芽の柄に手を掛けた。鞘を強く握り、全神経を集中させ、ゆっくりと瞼を閉じた。
「お願い彩芽、私に力を貸して」
破壊竜は炎を巻き込んで火球を生み出すと、秋人に向けてそれを吐き出した。
秋人は大地を蹴って火球を半分に切り裂くと、勢いのまま破壊竜の眉間に剣を突き出した。だが、水巻は咄嗟の判断で両翼を折って体制を変え、秋人の一撃を紙一重でかわした。
『――ッ!』
水巻は額に汗を滲ませたが、安堵の息を吐くと、落ちていく秋人を見てニタリと笑った。
しかし、更に上空へ舞い上がろうと翼をはためかせた瞬間、今度は秋人が笑みを浮かべた。
「今だ!」
秋人の合図で、小夜莉は目を見開いた。
深く腰を落とし、両手に力を込める。一瞬にして抜かれた刀身は白金のように輝き、鞘から走った刃は一つの斬撃を生む。
『あれは! 御月流奥義、鷹狩りの――』
『あれは! かっとび響のひらめけ一撃だぁ!』
御月流奥義、居合い・鷹狩り一振り――もとい、杏子曰く『ひらめけ一撃』は、破壊竜の翼を見事に切り裂き、一瞬にして片翼を消し去った。
バランスを崩した破壊竜に水巻は焦りを覚えたが、秋人はその隙を逃さず剣を薙いだ。
「うらぁ! このっ! ふんっ!」
秋人の剣は破壊竜の足を斬り払い、続く二撃、三撃で体に傷をつけ、大きなダメージを与えていった。
「せい! たぁっ! とぅ!」
秋人の攻撃に合わせ、小夜莉も同時に三度攻撃を放った。
『ぐぬぅ! なんだこいつら、生意気だ! 生意気だ!』
水巻は慌てて破壊竜のコントロールを自身に移行すると、自らの思うままに攻撃を行った。
「さっさとデータを返しやがれ!」
『黙れ! 全て破壊してやる!』
破壊竜の三本の足が地面を抉り、九本の尾が重力のままに暴れた。炎と氷の息が噴き上がり、混じりあう熱波と冷気は爆鳴を呼ぶ。
秋人と小夜莉は、ダメージを受けながらも攻撃を決めていた。
小夜莉が連続攻撃で牽制すると、隙をついた秋人の一撃が首に傷をつけた。
ちぎれてのたうちまわる尾を見た水巻は動揺の色を隠せなかった。気付くと破壊竜のライフは半分以上も削られている。
なりふり構わずブレスを撒き散らし、憤慨して叫び声を上げる水巻だったが、秋人と小夜莉の攻撃は次第に速さを増し、徐々に破壊竜を消滅へと誘って行く。
『わあ、すごい! 二人ともかっこいい!』
そんな杏子の声が聴こえたのか、水巻の目は血走り、追い詰められた鼠のように身をすくませた。
『ボクの邪魔をするなんて! 絶対にゆるさない……絶対に許さないぞぉぉぉ!』
水巻は握り締めた拳を、キーボードに叩き付けた。
その動きに応えるように、破壊竜は前足を掲げて直立すると、勢いのままに大地を踏み鳴らした。
激しい轟音と共に四方へ広がった衝撃波は、黒い渦となり世界を侵食する。
「小夜莉!」
秋人は剣を垂直に構え、小夜莉を衝撃波から守ったが、腕には感じたことの無い痛みが走った。
「ぐぅっっ!」
「秋人!?」
五十嵐の手元のモニターが赤色に点滅し、けたたましい音と共に身体の異常を知らせた。
『イカン! 集めたデータを逆流させ、システム構成そのものを破壊しようとしておる! ヤツめ、怒りでおかしくなりおった、このままでは何もかもが消えてしまうぞ!』
二度目の衝撃波が二人を襲った。秋人は剣を構えてなんとか耐えようとするが、握り締めた剣は斑状の闇で蝕まれ、鈍い痛みが秋人の体に響き渡る。
心拍数は乱れ、呼吸が荒れる。ライフは危険域に達し、それを見た小夜莉は悲鳴を上げた。
「だめ! 逃げて秋人! このままだと本当に死んじゃう!」
涙を浮かべ小夜莉は必死に訴え掛けたが、秋人は笑って言った。
「へっ、ずっとお前を守るって約束しただろ」
小夜莉は秋人の言葉を聞いて、昔の出来事を思い出した。
小さい頃、男勝りな性格の小夜莉は、それが原因で近所の悪ガキ集団にいじめられたことがあった。それを見兼ね、助けてくれたのは幼馴染の秋人だった。
秋人はたった一人で六人に挑み、なんとか相手を退けたが、秋人は傷だらけでボロボロになっていた。
その時、秋人が言った「お前んとこの道場通ったら、オレ強くなれるかな。かあちゃんが言ってたんだ、男は女を守るもんだって。だからさ、もっと強くなって、オレがお前のこと守ってやるよ」
三度目の衝撃波が響いた。秋人の剣にはヒビが入り、刀身の一部は欠けていく。
秋人はそれでも耐えようとするが、四度目の衝撃波には耐え切れず、とうとう剣は砕け散ってしまった。
「――ブレイブガード!!」
それでも小夜莉を守ろうとする秋人を見た小夜莉は、涙を拭い、奥歯を噛み締めて覚悟を決めた。
刀を鞘に収めて飛び出した小夜莉は、大地を駆け、壁を蹴って上空に飛んだ。
小夜莉は目前に捉えた破壊竜に向け、刀を抜き放った。
斬撃は破壊竜の目に傷をつけたが、安定の悪い空中での攻撃は、本来の力を発揮出来ないものだった。
『じゃーまーだーって…………言ってんだろおおおおお!!』
水巻は怒りに任せて尾を振り回し、力のままに小夜莉を地面へと叩き付けた。
「――かはっ」
『いゃあああああああああああ!』
小夜莉の体が折れ曲がり、杏子の泣き叫ぶような悲鳴が響き渡る。
「小夜莉ぃぃぃっ!」
秋人は小夜莉の元へ駆け寄ると、体を抱き抱え手を握り締めた。
「あ……きと……わたしのことは、いいから、早く逃げて……」
「何言ってんだ小夜莉! お前が俺をかばってどうすんだ!」
「そんなに悲しそうな顔、秋人には似合わないよ……私ね、秋人の笑った顔が……嬉しそうな顔が……ごほっ……あのね、秋人……私……ずっと……秋人のこと――」
『――秋人!!』
拓哉の叫びと同時に、破壊龍の爪が二人を襲った。
『アハハ! これで終ーわり! アハハ、アハハ……うん?』
振り下ろされた鉤爪が震えていた。
秋人は彩芽を握り、破壊竜の攻撃を受け止めると、刃を立て、破壊竜の腕を斬り落とした。
「てめぇ……調子盛ってんじゃねぇぞ。小夜莉まで傷つけやがって、タダじゃおかねぇ」
『ハッ! 本当に生意気なガキだなあ!』
破壊竜は氷塊と火球を放ったが、秋人はあっという間にその両方を真っ二つに割った。
「御月流をナメんなよ!!」
秋人が地面を蹴った。襲い来る衝撃波をかわし、払う九尾をあっという間に切り落とす。
『くそっ! 来るな!』
表情を引きつらせながら、水巻はありとあらゆる攻撃を行った。しかし秋人はその全てをなぎ払い、鋭い眼光を水巻に向けた。
『ひぃぃぃっ!』
水巻は氷の盾を張り防衛体制を取るが、彩芽の刃はいとも容易く氷壁を割る。
「世界を滅茶苦茶にしやがって! お前にじじいの夢の何が分かる!」
『そ、そうだ、この戦いは無しにしよう! データは全部返してあげるから!』
「今更なんだ! 俺たちは絶対にお前を許さない!!」
秋人は彩芽を破壊竜に向け、深く腰を落とした。決着を付ける最後の攻撃の構えだった。
『頼む! 悪気は無かったんだ、お願いだからぁぁぁ 許してくれぇぇぇ!』
涙を浮かべ懇願する水巻だったが、秋人は手のひらを刀の峰に置くと、居合いの姿勢を取って言う。
「終わりだうずまき!」
秋人は峰を支えて刀を抜き、破壊竜の炎の首を両断すると、返す刃で氷の首も切り落とした。
「御月流奥義、秘技・ハヤブサ返し!!」
秋人の攻撃により破壊竜のライフは失われ、まばゆい光と共にその身を空に散らせた。
『そんなバカな! ボクのシステムは、完璧な――うわあああああああああああ!』
水巻の叫びと共に闇は行き場を無くして分散し、自動修復プログラムによってあっという間に掻き消されていった。
パソコンには取得失敗の文字が浮かび、データの欠片ひとつ得ることの出来なかった水巻は、絶望の表情で机に突っ伏してしまった。
水巻は現実から逃避するようにぶつぶつと呟くと、その姿を見たやすらぎのマスターと美紀は、これからは入店拒否にすることを心に決めた。
破壊竜に取り込まれたデータの破片が空で舞い、オブジェクトの破片はプリズムとなって虹の花火を反射させた。
秋人は降り注ぐ光の結晶を目にすることなく我に返ると、小夜莉の元へと走り出した。
五十嵐のタブレットに表示された身体情報は元の数値に戻り、緑色に光って安定を示していた。秋人が先ほどまで感じていた痛みは嘘のように消え、何事も無かったかのようにその姿を映している。
「元に戻ったのか……? 小夜莉! どこだ小夜莉!」
秋人が小夜莉の名を叫ぶと、小夜莉はすぐに応えて秋人の元へ寄った。
「秋人!」
「大丈夫か小夜莉!」
秋人は上から下まで小夜莉を眺め、怪我が無いかを確かめた。
「大丈夫だよ秋人、どこも怪我してないって」
「ふぅーっ……そうか、よかった……」
「秋人……私のこと守ってくれてありがとう。私ってば、ずっと守られてばっかりだね」
「そんな事気にすんなよ。お前が無事で本当に良かった」
「うん……ありがと」
「おう!」
秋人が満面の笑みで微笑むと、小夜莉は思わず頬を赤らめ、恥ずかしさのあまりに目を伏せてしまった。
「あ、あの……それでね秋人……私、大事な話があるんだ。さっき言おうとしたことなんだけど……」
「さっき? なんだよ改まって」
「うん……私、秋人に言いたいことがあるの……あのね、私、ずっと……秋人のことが……す、す、す、す」
「酢?」
「だ、だから、私はずっと秋人の事が、すっ……すっ……すっ……」
「なんだ? 早く言えよ」
小夜莉が必死になって秋人へ言葉を伝えようとしていると、空から小さな声が聴こえた。
『フレーフレーっ、こ、よ、ちゃん! がんばれがんばれ、こ、よ、ちゃん!』
「え?」
小夜莉は慌てて空を見上げ、目を瞑って部屋の様子を確認した。するとそこには、食い入るようにモニターを見つめる四人の姿があった。
『頑張れこよちゃん! もうひといきだよ!』
『小夜莉、もしや決闘の宣告か!』
『うむ、これが青春じゃ』
目を開いた小夜莉は慌てて秋人を突き放すと、顔を真っ赤にさせて空に向かって叫んだ。
「ちょ、ちょっと! 何見てんのよあんたたち!」
『ヒューヒュー、こよちゃん早く言っちゃいなよぉ。私は秋人君の事がスキ――』
「だあああっ、あんこうるさーーいっ!」
小夜莉が手をばたばたと振って飛び跳ねると、秋人は渋る小夜莉に詰め寄った。
「おいおい突き飛ばすことはないだろー。なあ小夜莉、酢がどうかしたのか?」
「んなっ! だ、だからうるさいって言ってるでしょぉぉぉ!」
「げふっ!」
小夜莉の容赦ない手刀が秋人の首元に命中すると、秋人はライフを失って倒れ、小夜莉は警告灯を点滅させながら強制ログアウトに追い込まれた。
ベッドの上で同時に起き上がった秋人と小夜莉は、髪や頬を掴みながら喧嘩を始めてしまう。
「だからなんでこうなるんだよ!」
「うるさいうるさい! もうみんなうるさぁぁぁい!」
それを見た拓哉と杏子は既に呆れ返り、二人を無視して画面に目をやっていた。
「はあ……やれやれだね。それにしても、随分と荒らされちゃいましたね」
「なぁに、壊れた箇所はまた直せばいいだけじゃ」
そう言った五十嵐は裏側に付けられたUSBを取り外すと、思い切り歯で齧り、真っ二つに割った。
「わー、おじいさん丈夫な歯! すごーい!」
杏子は関心いた様子で手を叩くと、五十嵐は豪快に笑い、自信に満ち溢れた姿で歯を輝かせた。
しかし、五十嵐の表情は突然曇り、苦しそうに胸を押さえて倒れこんでしまった。
「お、おじいさん!?」
「大丈夫ですか!」
全員が慌てて駆け寄ると、五十嵐は呼吸を荒げながら、うつろな目で震える手を伸ばした。
「どうしたじじい!」
「あんこ、急いで救急箱!」
秋人は弱弱しい五十嵐の手を握ると、必死になって叫んだ。
「うぅ……秋人か……すまんな、こんな……ざまになってしもうて……」
「何言ってんだ、しっかりしろ! まだゲームはこれからなんだぞ! じじいが倒れたら、凛ちゃんはどうなるんだ!」
五十嵐は秋人の手を強く握ると、顔を上げて小さく笑った。
「なぁに……お前たちはよくやってくれた……ワシがおらんでも、立派にやっていける……」
「あの世界はじじいがいなきゃダメなんだ! 頼むから、そんな事言うなよ!」
「おじいさん救急箱持ってきました! どの薬ですか!?」
杏子は救急箱を開くと、必死になって薬を探し始めた。
「くぅっ……すまんな、あんこちゃん……その……緑色の箱……ぐはっ!」
「しっかりしておじいさん! 緑の箱……この薬ですか――――って、あれ?」
「なんだあんこ! 早くしろ!」
「あんこ! 早く薬を飲ませて上げて! 拓哉くんお水!」
三人は取り乱していたが、杏子は緑色の箱をまじまじと見つめると、戸惑った表情で言った。
「えっと、おじいさん。本当にこの薬でいいんですか?」
「うむ……それじゃ……」
「でもこれ………………胃薬ですよ?」
「は?」
一同は不可解な面持ちで首を傾げると、五十嵐は胸を押さえたまま、間違っていないとばかりにはっきりと頷いた。
「うむ、胃薬じゃ。来來館の出前を食べすぎて、最近よく胃が痛むんじゃ。やっぱり年寄りに揚げ物はきついのお」
五十嵐は胃の辺りを手で撫で回し、自ら起き上がって杏子から胃薬を受け取った。
「おい、じじい……病気じゃなかったのかよ……」
秋人がわなわなと震えながら五十嵐を睨みつけると、拓哉が動揺しながら尋ねた。
「お、おじいさん、僕たち健太先輩から聞いたんです、おじいさんは何か病を持っていると」
「病? ワシは病気など無いが……ああ! 水虫のことか? あれはもう治ったぞ。ガハハハ!」
「じゃあ何か……この前も苦しそうにしてたのは、ただの胃もたれってことなのか……?」
「うむ。メガ盛りは中々ハードじゃった」
「こんんのクソジジィィィ! 心配してたのに、そんなくだらねぇ理由だったのかぁぁ!!」
秋人の怒りは頂点に達し、五十嵐の長い髭を掴もうとしたが、慌てて拓哉と杏子が止めに入った。
「秋人落ち着いて!」
「止めるな拓哉! 盛りに盛ったこの怒りは誰にも止められねぇぇぇ!」
「きゃああ! こよちゃん、秋人くんを止めて!」
「まかせて!」
小夜莉は拳を握り締めると、秋人のみぞおち目掛けて素早い一撃を放った。
「うぉっ、あぶねぇ! リアルですんな!」
辛うじて小夜莉の拳をかわした秋人は、CTの影に隠れて狼狽すると、手近な物を手当たり次第に投げ、再び小夜莉とのバトルを開始した。
「ふぅ……色々あったけど、結局いつもと変わらないね」
「そうだね。今日も平和でなによりだね」
拓哉と杏子は小夜莉の父が入れた緑茶を啜ると、遠い目で二人を眺めていた。
体調の戻った五十嵐はさっそく作業を始め、ミケは縁側で大きな欠伸をする。
部屋の中は散乱し、UFO世界は破損していたが。大きな被害は無く、皆は楽しそうに笑いあっていた。
それは、これからも変わることなく、きっと明日も明後日も、いつも通りの楽しい日々を過ごして行くのだった。