第四話「最強であり、最速であり、それでいながら最弱」
わたくし、アプリ・アクセルハートは、いきなり窮地に陥ってしまいました。
掃除機を用いて競い合うレースで、出だしから出遅れてしまったのです。
さて、それから私が制御部位の起動ボタンをすぐに押して、慌てて他の参加者を追いかけたのかと言えば、まったくもってそんな事はありませんでした。
いや、制御部位のボタンは何とか押せたのですよ。
ですが、どういうわけか掃除機が反応してくれなかったのです。
故障かもしれない。私は咄嗟に思いました。そして、それと同時にパニックに陥りました。
私は、別にこのレースで優勝したいわけではありません。
けれども予想外のアクシデントで恥をかいてしまった、という事実が、私の脳裏を埋め尽くして離れてくれないのです。もうパニック状態でした。
しかしそんな私に対し、私の肩に乗る黒猫型幽霊……キャットさんは、冷静にこう言い放ったのです。
「オオウ。すっかり忘れていたが、ちゃんとコンセントに挿入しなきゃダメじゃあないか!」
「へ?」
それを言われ、私はようやく思い出しました。
私の使うこのキャニスター型掃除機は、コードレスでは無いという事実を。
つまり、電源コードという物がこれにはついており、そこから伸びるプラグをコンセントに挿入しない限りは、この掃除機は絶対に動かないのです。
私は迂闊にも、その事を完全に失念していました。
それに気づいた私は、すぐに掃除機本体の後ろ側に手を伸ばし、ちょこんと飛び出ているプラグを掴みます。それを強く引っ張り、中に収納されているコードを全て外へと出します。ええ、目安として巻かれている赤テープの位置まで、きっちりと伸ばしきりましましたよ。
それから、私の腰に巻かれている“ウェストポーチ型給電機”を、もう片方の手でしっかり掴みます。やけに機械的なポーチ部分には、実はコンセントが外付けされているのです。ここにプラグを差し込む事により、やっと、掃除機に電気を供給する事が出来るのです。
……いや、コード伸ばし過ぎたせいでダルンダルンですね。もっと短くします。
さて。緊張のあまりすっかりと忘れていましたが、これでようやく出発出来そうです。
私は腰のコンセントに、掃除機から伸びるプラグを挿入します。
これで準備完了です。後は電源スイッチを押すのみです。
けれどもこの土壇場に来て、私は再度、緊張によるパニック状態に陥りそうになってしまいました。
手が震えます。呼吸も荒れます。視界もぼやけます。
何だか、思考までもがぼんやりしてきました。
恐いです。逃げたいです。帰りたいです。もうやめたいです。
そんな恐怖心から、私は思わず両目を強く瞑ってしまいました。
しかし、そんな私に、キャットさんは優しい声でこう言ってくれました。
「恐いかい? ならば、自分の掃除機に語りかけてみるといい。行こう、一緒に頑張ろう、とね。そしたら不思議と勇気がわいてくるのさ! 僕もそうだった! ま、“おまじない”のような物だね」
「……は、はあ……」
今一つ信頼性に欠けるアドバイスでした。
その程度で、この緊張が収まるのであれば、もうとっくに収まっているはずです。
これだけでは絶対にどうにもならない。私は、すぐにそう思いました。
けれども他に頼れる物が無いというのも、また一つの事実です。
だったら、たとえ気休め程度でも、無いよりはまだマシでしょう。
だから私は、このキャニスター掃除機の名を、試しに呼んでみる事にしました。
とはいっても、名前は最初の「クー……」までしか思い出せませんでした。
まあ、いいです。それでいきましょう。愛称って事にしておけば良いのです。
私は、ゆっくりとその名を口にします。
「……いくよ、く、クーちゃん……!」
「えっ!? クーチャン!?」
驚くキャットさんを無視して、私は電源ボタンを押しました。
相当出遅れてしまいましたが、これでようやく出発進行です。
と、まあ。
そんな事を考えるや否や。
――――私の意識は、全力で駆けるジェットコースターのような殺人的速度に、危うく全て持っていかれそうになりました。
「え?」などといった、間抜けな台詞を吐く暇すらもありません。
私の掃除機のホイールとローラーが、自動的に高速で回転し、一気に前へと進んだのです。
瞬間的な加速は、そこにある全ての景色を消し去りました。
私の目の前にあった、建物に左右を挟まれた道路という景色は、全て後方へと流れていったのです。
一瞬で。私の目に映る景色が変質したのです。
遠くにあったはずの景色が信じられない速度で接近してきたかと思えば、すぐに私の後ろへと流れていきます。足元の地面は、常に高速で後ろに動いているかのようです。
何があったのか、私の心は混乱するばかりです。
どうやらこの掃除機の加速力は、常識的に信じられない程の勢いだったようです。
ありとあらゆる景色を置き去りにし、先へ先へと進む弾丸が如き速度のこれは、なんと私の掃除機なのです。
私の心臓が早鐘を打っております。恐いです。この速度すごく恐いです。
けれども、私の掃除機……クーちゃんは一向に減速してくれません。
それどころか、私の心音が一つ刻まれる毎に加速しているかのような、そんな錯覚さえもあるぐらいです。
いえ、これは果たして錯覚なのでしょうか。
もしかしたら、本当にそれぐらい加速しているのかもしれません。
体感的には、そう思えるほどのスピードです。私の身体自体は、補助魔法による保護によって風すらも感じられないようになっておりますが、そういう問題ではありません。この速過ぎる景色が、目前に迫る本物の景色であるという事に問題があるのです。
いくら最近のレースが最新の技術によって安全面を超強化されている、と言われたところでこの恐怖が和らぐ事はありません。
高速の景色は加速し続け、更なる超高速の次元へと、私を連れ去っていきます。
もう碌に景色も見えません。なんですか、この加速力は。
「い、やあああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
つい、情けない叫び声まで上げてしまいます。
言うまでもありません、涙目です。叫び過ぎて喉が嗄れてしまいそうです。
不安定な体勢のせいか、もう今にも、掃除機から落ちてしまいそうです。
左手で持ったグリップから伝わる振動が、より一層、私の身体を疲れさせます。
もう私の視界には、変わらぬ青空と、絶えず後ろに流れる線のような何か、しか映っておりません。
正面の景色すらも、もうわかりません。こんな事なら試運転しておけばよかったと、今更ながら後悔しています。レース申請の際、機体の安全制限が通った事に安堵し、ついうっかり油断してしまったのです。
というか時間もギリギリだったので、もう別にしなくても大丈夫かなあ、と高をくくってしまったのです。
完全に裏目に出てしまいました。
泣けます。泣けてきます。ていうかもう泣いています。
ですが私の肩に座るキャットさんは、普通に楽しそうな声で、いきなり解説を始めやがりました。
「おお! 流石、規格外のモーターを積んだだけある。凄い加速力じゃあないか! フフフ……確かにキャニスター型は、空を飛ぶのには適していないさ。
けれども、この掃除機はぁ! 本体の左右に付けられたホイール二つと! その中間に地味にある小さな車輪一つと! ヘッドにつけられたローラー一つの! 計四輪駆動なんだ……! 地上を走るのに、これだけ適した掃除機もあるまいさ! ローラー稼働のモーターヘッドを舐めるなぁ!」
「そんな説明いいからぁ! 早く助けてえええええええええええええええええええええええ!!!! うわあああああああああああああんっ!!! もうやぁっ!!!! おーりーるーっ!!! おーろーしーてーっ!!!! ボタンどこぉっ!!!?」
キャットさんの解説など、今の私の耳に届くはずもありません。
加速する掃除機に喰らい付くのが精一杯です。電源ボタンを押そうにも、手が震えて押せそうにありません。というかもう、電源ボタンの場所さえも認識出来ない程、私の心は摩耗していました。
私の助けを求める声は、キャットさんに届いてくれません。
もう自力で頑張るしか無いようです。最悪です。
ですが、このコースが直線だったのは不幸中の幸いです。このレース最初の関門は、この直線から続く長い坂だそうなので、しばらくは曲線なども無さそうです。だから、私はここで速度に慣れようと心掛けます。
勝ちたいのではありません。ミスして怪我するのが恐いだけです。
私は、つい反射的に閉じそうになっている両目を何とか開き、前の景色に意識を向けます。
するとそこには――――
「うひあぁあっ!!!!? どどどどどどどうしよっ!!!?」
――――他の参加者達の影が見えました。
もう追い付いたようです。
見た所、私ほどの速度を出している人影は一つもありませんでした。
だから、何とか追い付く事が出来たのでしょう。
眼前に見えるのは、主にスティック型に跨って飛ぶ人達です。しかも皆、低空飛行中です。
そして、その人影はどんどん近付いていきます。
このままでは数十秒後には到達し、ぶつかってしまいそうです。
それほどまでに私のクーちゃんは速かったのです。
私は、必死になって息を吸い込みます。
そうしている間にも、急速に距離は縮まっていきます。
このままでは、向こうがこちらに気付いた頃には、もう手遅れになってしまう事でしょう。
だから、私は全力で叫びます。
「ごめんなさいっ! どいてどいてどいてどいてどいてーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!」
そんな私の声に他の参加者達は驚いた顔で振り向き、すぐに私の前の道を開けます。
……本当に、すみませんでした。
私は、気まずい気持ちと共に爆進します。
並居る後続部隊の群れを避けさせ、真っ直ぐに突き進んでいきます。
すると今度は目の前に、大きな大きな坂が見えてきました。上が見えない程の急勾配です。
しかも、その坂を埋め尽くさんと言わんばかりの勢いで、多くの参加者達が登っているのが見えました。
坂の上をなぞるように低空飛行をしている参加者達の動きは、心無しか少しゆっくりめに見えます。
と、私がそんな事を考えていると、キャットさんが即座に解説をしてくれました。
「フム、この坂は飛行用に必要な勢いを稼ぐための、滑走路的な役割を果たす傾斜というわけか。どんな掃除機でも、上昇する時は速度を落とさざるを得ないからねぇ。だから、皆最初は低空飛行から始まり、この坂を利用して上昇しようしているわけか。
チャンスだね、アプリ。僕達に、上昇のための減速は必要無い。地続きである以上、キャニスター型の速度はそこまで落ちない! 高速飛行能力をオミットしてまで手に入れた地上加速力! ここで見せつけてやるんだ!」
「えええええっ!? もうちょっとゆっくりに出来なかったのぉ!!!? あああ……もうっ! すみませーんっ!!! どいてくださーーーーーーーーーーーーーーーーいっ!!!!」
そう言いながら、私はどんどん坂へと近づいていきます。
その間、並居る参加者達には、なんとか道を譲っていただきました。
やはり皆、私とぶつかって自分も失格になるのは嫌だったのでしょうね。あと単純にびっくりして反射的に避けてしまったのでしょう。
すみません。私の技術不足のせいで、私が避ける、という選択肢がとれないのです。
感じ悪いのは自覚していますが、ぶつかってしまってからでは遅いのです。
たしかに最近の技術進歩によって、衝突時の事故対策は万全であると言われています。
ですが、無理です。気持ち的に無理です。
避けられるはずの衝突を、あえて避けずに突っ込むだけの勇気は、私にはとてもありません。
これは相手を気遣っての事ではありません。
単に恐いのです。だから、申し訳ない話になるのですが、周囲の方々には道を開けて貰うしか無いのです。
それから、不本意ながらも数多くの参加者達をごぼう抜きにしてしまった私は、一気に坂の方へと突入します。
坂に到達した際、勾配にクーちゃんのヘッドが引っかかり危うく転んでしまいそうになりましたが、何とかバランスを取る事によって事なきを得ました。
私は、その勢いでどんどん坂を駆けあがっていきます。
呪文のように「すみませんどいてください」を連呼しながら、先へと進んでいきます。
その際、私の心も少しは余裕を取り戻してきたのか、ちらほらと参加者達の顔を確認する事が出来ました。
開始時に見た、ロボット型の掃除機に乗った女の子や、ハンディ型の掃除機を持っていたお兄さんや、これは初めて見る人ですが、まるでバイクのようなマフラーをスティック型の掃除機につけた柄の悪いおじさんなど、多くの参加者の顔を一瞬見ては追い越していきます。
そんな時でした。
一人、驚いたように眼を剥いた参加者が、首を後ろに向け、私の方を食い入るように眺めてきました。
私は、その髪を左右で結んだ生意気そうな女の子を、他の参加者以上によく知っています。
そう。開始時に私を挑発してきた、ベゼちゃんです。
ベゼちゃんはスティック型の掃除機に跨り、順当に前へと進みながらも、私の方をちらちらと見てきます。流石オーダーメイド機です。他の掃除機とは馬力が違いますね。
しかしその表情には、困惑と焦燥、そして怒りが浮かんでいました。
ですが、非常に申し訳ないとは思うのですが、私の方は、彼女に構っている余裕などありませんでした。
なので、とりあえず愛想笑いを軽く浮かべ、ベゼちゃんすらも「ごめんどいて」の言葉と共に一瞬で追い抜いてしまいます。本当に申し訳ないです。後でアイスでも買ってあげれば機嫌を直してくれるでしょうか。
と、そんなこんなで。
並居る参加者達を追い抜いた私の前には、もうほとんどの障害がありませんでした。
そろそろ坂のてっぺんが見えてきました。
ここまで来ると、競い合う参加者達もほとんど見当たりません。
目ぼしい人といえば、開始時に見た、ショルダー型掃除機のおじいさんぐらいです。
おじいさんは速かったので、他の参加者達のように一瞬で抜き去る事は出来ませんでした。ですが、その分視界に映る時間が長くなったので、その姿を目に焼き付ける事ぐらいは簡単に出来ました。
ショルダー型の乗り方は、まずたすき掛けしたベルトから伸びる鞄状の本体を両手で抱え、ホースから伸びる伸縮管を脚で挟む形になります。言うなれば、半ば箒に跨るのと似たような格好となります。
やはり、私のキャニスター型とは全然違いますね。嫉妬してしまいます。
ですが、私も悔しがってばかりいられません。
この時点で、もう気付いてしまったのです。
私のこのクーちゃんが、実は破格のスペックを秘めていたという事実に。
それは、私の心に少しの優越感をもたらします。
そんな私の気持ちを後押しするかのように、クーちゃんはどんどん加速していき、どんどん前の参加者達を追い抜かしていきます。
もう前に居る残り数人ですら射程圏内です。ショルダー型のおじいさんでさえ抜かしてしまう勢いです。事実、あと数秒すれば完全に抜き去れる感じです。
次々と残る参加者を抜くにつれて、恐怖心はどんどん薄れていきました。加速は続きます。
景色と共に、参加者達の姿も後ろへ流れていきます。それでも加速は止まりません。
やがて私の目の前から、他の全ての参加者の姿が消えました。クーちゃんは、坂に居たあらゆる参加者達を追い抜かしてしまったのです。
控えめに見積もっても破格の性能です。なんだか見直しちゃいました。クーちゃんは凄かったのです。
私の心に歓喜の感情が舞い降ります。負ける気がしません。
故に、今の私には余裕さえもがありました。
私は、小さく笑みを浮かべます。
「よし、あと……もうちょっとだね! クーちゃんっ!」
「フ……僕もいる事を忘れないでくれるかな? やはりこの超高出力モーターは最高だ……! この程度の直線なら、最高速度にまで達する事も無いだろう……! だけど、最高速度に達するまで加速が収まる事は無い!
つまり、このモーターのお陰で、僕のクーシェ・ドゥ・ソレイユは無限に加速するのだよ! この場においてはね! はっは、ははははははは!」
キャットさんが何か言っていましたが、今の私の意識は坂のてっぺんにあります。
本当に後もう少しです。
もう五つ数えるまでに到達しそうです。私の胸は、期待に高まります。
五、四、三、二、一。
……カウント、ゼロっ!
到達完了です。私の視界には、一面の澄み切った青空が映し出されました。そして眩しい太陽の光が広がっていきます。手を伸ばせば、雲にだって手が届きそうな予感がします。保護魔法のせいで風が感じられないのが相当惜しいぐらいの爽快感です。
私の心に達成感が満ち溢れます。
そして。
坂の頂上までたどり着いた私とクーちゃんは、そのまま空へと投げ出されました。
つまり、坂を登る勢いそのままに、まるで坂道をジャンプ台にするかのように、空中へと飛び出してしまったのです。
「え?」
私は、わけもわからず呆然とします。
まだ放物線を描いている途中の私は、こっそりと下を見てみます。
そこには、坂道から続く道がありました。
けれどもそれは、どんどん遠ざかっていきます。
私の浮遊はまだ終わりません。
どうやら勢いが強すぎたようです。そもそも、まだ浮き上がっている状態なのです。
その勢いのままに飛んでいると、やがて長い下り坂が見えました。
その下に見えるのは、住宅街です。昼時の光に照らされた、鮮やかな街並みが見えます。
前に視線を向けると、地平線の向こうにある山の影さえもが見えます。
その景色は非常に壮観で、私の心も、ほんの少しの間奪われてしまいます。
……さて、私の落下点は一体何処になるのでしょうかね。
「……って考えてる場合じゃないしいいいいいいい!!? お、落ちる! 落ちるこれっ!!! どうしよう!!!? 助けてっ!!! 誰か助けてってばっ!!!! お願いっ!!!! 何でもするからあっ!!!! 誰かーーーーーーーーっ!!!!! たーすーけーてー!!!!」
「フゥ……落ちつきなよ。アプリ、君が乗っている物は何だい?」
「そ、そそそそそ、掃除機ぃっ!!!!!」
「なら飛べるはずさぁ! さあ、ハンドルを持ちあげるようにクイっと!」
またしても、キャットさんがよくわからない事を言ってくれます。
ハンドルなんて部位、私は知りません。
私は、その疑問をそのまま吐きだしてやります。
「ハンドルってどれぇっ!!!?」
「普段、掃除機を持つ時、持ち手となる部分だぁ!」
私は、咄嗟に二つの選択肢を浮かべました。
今、片手に持っているグリップか、もう片方の手にある本体についた取っ手か。
考えている暇はありません。
叫びます。
「どっちぃぃっ!!!?」
「どっちもさっ! 両方ともハンドルという! レースにおいては両方を総括した呼び名さ!」
「ええっ!!!? う、うんっ!!! 分かったぁっ!!!」
非常に混乱しつつも、私は指示に従いました。
両の持ち手に力を込め、ハンドルを持ち上げるようにクイっと引きます。
すると、途端に落下時特有の不安定感が消え、クーちゃんの挙動が安定するようになりました。
どうやら成功したようです。
その上、キャニスター型の掃除機は空中に向かないからなのか、速度もようやく落ち着きました。
私が意識をはっきりとさせると、目の前の空には、でかでかと赤い半透明の矢印が浮かんでいました。あれは立体映像のようなもので、これから先の経路を指し示す物です。矢印は等間隔で浮かんでいるので、これに沿って飛行を続けていけばコースを外れる事もありません。
これでようやく安心出来ます。
私は、安堵のため息を吐きました。
「よ、良かったぁ……死ぬかと思った……」
「フゥ。まあ、試運転も無しに良く頑張った! 流石、僕が見込んだ宿主だ!」
「……あ……ありがと」
こう褒められると、あまり悪い気もしません。
こうして乗り越えてみれば、意外と楽しい経験だったとも思えてきます。
今も、解放感溢れる空中遊泳を楽しめているわけなので、私の心はそれなりに満たされていました。ブオオオオオオンといった排気音が五月蠅い事この上ありませんが、それでも全身を包む解放感の前では霞んでしまいます。
いや、わかっていますよ。そりゃあ、レースはまだ終わっていません。
けれども、ここらで一度気を抜いておきたいじゃあないですか。
さっきまでの疲労が、想像以上に蓄積しているのです。
あのまま張り詰めていたら、どこかでパンクするのは目に見えていました。
だから、私はつい気を緩めてしまいました。その緊張が、すぐに結び直されるとは知らずに。
突然、キャットさんが声を張り上げます。
「でも油断している暇なんてないぞぉ! 後ろを見ろぉ!!!」
「へ……?」
私は、後ろに視線を向けました。
そして、すぐに後悔しました。
見なければ良かった。そんな思いが、私の胸の中を満たしていきます。
「えええええ…………?」
思わず、顔全体で絶望を表現してしまいました。
いや、確かに途中で薄々勘付いてはいたのですよ。
けれども、そんなのすぐに信じろと言う方が、どだい無理な話ですよ。
私は、ここで初めて気が付きます。
――――私の背後には、他の全ての参加者が居るという現状に。
キャットさんは、楽しげな声をあげます。
「ハハっ! 君は集中していて聞こえなかったようだが、さっき僕らが一位だというアナウンスが入っていたよ! でも、僕らは空中戦になると途端に最弱化するからね。なんたって、僕のクーシェ・ドゥ・ソレイユは陸戦特化にし過ぎたせいで、普通のキャニスター型以上に空中は遅いからさ。これから腹を括るしかないよ!」
「あの……ここから、地上に降りるという選択肢は……ないの……かな?」
「ウウム……地上は遠いからねぇ。色々と、不都合があるよ。それに、そこまでたどり着く前に、君がやられてしまう可能性が非常に高いし、下に着いた所で道が複雑化し、かえって目的地まで遠くなる可能性もある。僕は推奨しないね……というか、そもそもコースアウトだ」
「で、でも……流石にあれがこっちに向かってくるなんて……無理だよぉ……」
私の視線の先、そこには空を埋め尽くさんとする勢いの、巨大な黒い塊がありました。
あれは、複数の参加者が次々と空へ飛び立っていくせいで、そう見えてしまっているのです。
……それにしても相当距離が開いていますね。それだけ私が空中に飛ばされた勢いが強かったのでしょうか。まあ、他の機体は坂を抜けてもそのまま飛び立つだけですが、クーちゃんの場合は投げ出されましたしね。その差でしょう。
この距離のお陰で、他の参加者達の数がいかに多いのかがよくわかります。
本当に、こうして見ると夥しい数です。
そしてもっと恐ろしいのは、あの中には、恐らく私のクーちゃんより遅い機体は無いであろう事です。
あれが迫ってくるのです。それも全部。恐いにも程があります。
しかも私自身、先ほど多くの参加者に挑発紛いの事をしてしまいました。恨みも買っているはずです。
私の視界が、涙でぼやけてきてしまいます。
そんな中、キャットさんは能天気な声で、随分と残酷な発言をしてくれました。
「このレースは、確か魔法を用いた妨害が出来るレースだったね。使える術は……二つまで許可されていたっけな。アプリ、君はどんな術を使うんだい?」
これは、私にとって最もされたくない質問の内一つです。
ちなみに術、というのは魔法を使う際の「型」のような物です。
現代では、術の複数所持が当たり前となっており、私の場合も例外ではありません。
もっとも、それが使える物かどうか、といった点はまた別問題なのですがね。
「…………か、紙コップをギリギリ浮かせられるぐらいの念動系一つと、蛇口をせき止められるサイズのパネルを作れる生成系一つ……かな?」
キャットさんの返事が聞こえなくなりました。
やはり絶句しているようです。
当然でしょう。これでは妨害戦に勝てそうにもありません。
最初の頃は、皆驚いて私に攻撃をかけませんでしたが、こうなってしまえばもう歯止めは利かないでしょう。
私は、やはり小慣れた溜息を吐き捨てます。
一番恐くないやられ方とは何なのか、私の思考はもうそれで一杯です。
そういった事を考えていると、ようやくキャットさんが息を吹き返し、呆然とした声でこう言いました。
「それ、小学校低学年で習うような術じゃないか……!」
全くもってその通りで御座います。
ところで、私の表情は今どうなっているのでしょうか。
どうにも、羞恥で赤く染まっているのか恐怖で青ざめているのかが、よくわからないのです。
まあ、何にせよ。
私の受難は、まだまだ終わりそうにない事だけは確かなようです。
おまけ
アプリ・アクセルハートの術
・念動操作(弱)、文字通り念動力のような力で物を操作できる。しかしアプリの場合、近距離限定な上に力も大した事が無い。
・パネル生成(小)、小さな不可視パネルを生成できる。だが極小な上に長時間維持できず、しかも動かす事さえもできない。
・両方とも、小学生が魔法の基本に触れる際に習わされる「練度を上げねば実用性が無い術」という扱い。そうであるが故に、別系統の術を得意とする人間は授業以外で使おうともしない。
・本来、中学生ならもう少し高度な術が使えるのだが、アプリはそれらを習得するに至っていない。