魔物と拳
人の手が入っているのであろうその森は明るかった。本来であれば木こりや狩人が休憩するために拓かれたその広場には招かれざる影が二つ。
片方は、人間。獣の様な呼気、体の奥底から溢れ出すかのような唸り声は彼の全身から立ち上るよう。『彼』の年頃は凡そ23、4と言った所か。大陸では対して珍しくもない灰色混じりの黒髪をうなじの辺りで乱雑に括り流している。服装は頑健そうなブーツと、手に併せたグローブ以外に特筆すべきものはないどこでも手に入りそうな服装であった。
対するは、獣。形は猪に近いが、鋭い鋼鉄を思わせる雷を発する牙を誇る様に携え疾駆を阻害するためであろう腹以外の表皮は文字通りの岩の鎧で覆われていた。物理的な攻撃をその体に通すことは困難だろう。電猪と言われ恐れられる、人をも喰らう雑食の『魔物』だ。……そして、彼奴はこの3日何も口にしていない。青年が睡眠以外の時間、常に周辺に張り付いていたためだ。こちらの事を極上の餌としてしか見ていないだろう。
それを見て取ってなお、彼は手に嵌めたグローブを誇示するように右手を前にして。二度、三度と手を挑発するように動かした。その意味を理解したわけではないだろうが、獣は地面を爆ぜさせその勢いのままに猛進。
予想よりも早い速度に黒灰の目を僅かに見張るも、予期していたこともあり横跳びに回避。体を回して様子を窺えば青年の体よりも太い木の幹が圧し折られ、生木が裂ける音を立てて倒れていた。木こりが居たら嘆声を上げずにはいられないだろう光景である。
――直撃を喰らえば危ういのは此方だ、と青年は思考を頭の片隅に置く。無論、勝ち筋が無いわけでも無いが――
最近はあまりにも出現数が多すぎる。男は猪から目を逸らすことなく嘆息した。
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男ことリジア・ベルトクリスは無駄飯喰らいである。勿論彼が彼の起居する村内に於いて仕事をしていないと言うわけではない。彼の義姉がそう冗談交じりで吹聴しているだけだ。もっとも当の本人としては義姉の言い分もわからなくもない。
彼の仕事とは、村で管理している地域に魔物が発生した際にそれを狩り、その死体を村に持ち帰る事である。逆に言えば魔物が発生しない限り彼の仕事は無いのだ。普段は子供たちを預かったり村の畑を手伝う等の雑用のみであり、生産的な行為は一切と言っていいほど行っていない。仮に彼が畑を持っていて――魔物との戦いで命を落とした場合、畑を誰が引き継ぐのかで問題が発生する可能性があるためだ。
彼の住む村落は決して小さくないが大きくもない。余計な問題を孕む可能性は小さいほど良いのだ。
故に彼は『無駄飯喰らい』と言われているのである。あくまで、普段は。
「……『また』魔物が出たのか? 」
リジアは呟いてその鍛え抜かれた太い腕を組んで眉間にしわを寄せる。ここ数か月、クリツド村周辺での魔物の発生率が増加している事に気が付いていたためだ。先代から役割を受け継いでからここ数年は幾ら現れても多くて3月に1匹、少なければ半年に1匹程の頻度であった。
ところがここ数ヶ月での出現数は10匹。異常な数と言えるだろう。
「結構な事じゃない、現れればその分村が潤うって事よ。」
「そうは言うが義姉さん……このまま増えれば俺一人では対応しきれないかもしれない。」
机を挟んでからからと笑う義姉に対してリジアは苦笑混じりに苦言を呈する。この事態は村長の娘である彼女にとっては歓迎することであれ、厭う事ではないらしい。
この世界において魔物とは魔法を使う事の出来る生物の総称である。乱暴に括ってしまえば不思議な事を起こせる生物全てが魔物と言っても良い。それは植物であろうと動物であろうと例外ではなく、意思や、言葉が通じる事が無く、知性が無ければそれは魔物なのだ。
とは言えそのような生物がそうそう発生することは無い。母体が自然発生する魔力に身を浸し、魔力を子に宿さなければただの動物なのだから。
かつてその身から魔物を生みだすことの出来る『魔王』なる存在がいたと言われるが――それも遠い遠い、寝物語で語られる程度には昔の話である。
余談だが、魔王の信望者の子孫が『魔族』だと伝わっている。彼らは代々褐色の肌をしているが、今やそんな細かい事は気にする者は殆どいない。辺境では例えどんな後ろ暗い者であれ村に協力しなければ死んでいくものだし、彼らは代々魔力を繰る術に長けているので有用であるためだ。……勿論、村内で問題を起こさなければの話だが。
(人為的に魔物の発生を助長している者が居るのか、はたまた自然発生の大規模な魔力溜りでも出来たのか……)
リジアは少しだけ考え込んだが、息を吐くと思考を追い払った。そう言うのは都だかの偉い学者や研究者に任せればいいし、そもそも小難しい事を考えていても魔物が息絶えてくれるわけでも無い。
魔物の死体は余すところなく有用だ。皮や骨は言うに及ばず、内臓や毛、羽の1枚までも価値がある。血ですら薬の材料や大規模な魔法の触媒になる上、肉も美味い。2、3匹狩り、公平に分ければ村人500名全員が一冬を越せるほどの収益が出るのだ。
最も公平に分けられたことなどリジアの記憶にはないのだが。
「明々後日、討伐に出よう。兄さんにもそう伝えておいてくれ。あ、おかわりくれる? 」
「『居候、三杯目はそっと出し』って言葉を知ってる? 知らないわよね。」
スープ五杯目を平らげつつの日常である。実際彼は無駄に飯を食っていた。鍛えている分食う飯も多いのだとは彼の弁解である。
――――――――――
かくして十分に情報を集めた彼は魔物と対峙するに至っている。
恐怖は無い。彼にとって魔物を狩るのは当然のことであり、そして目の前の相手を斃さなければ待つのは自身の屍と村の崩壊だ。勿論村人達が彼に劣る、と言うわけではないが少なくとも経験、個人の戦闘力としてはリジアの方が上だ。魔物を倒すために常に鍛えている男と七日に一度の安息日だけ剣を振るう人間とではどちらに分があるか言うまでもない。
(……厄介、だな)
内心でそう吐き捨てつつ彼は手を軽く開閉する。人間の手は岩を砕くように出来てはいない。雷を弾けるようにはなっていない。
(つまり普段と何ら変わることは無い。……相手が死ぬまで殴り続ければいい。)
魔物の肉体は余すところなく財産であると言うのは前に触れた。つまり収益を多く上げ、村を潤すためには出来る限り肉も血も損なうことなく、仕留めなければならぬ。そのためだけに彼らは肉体を鍛え、頑健、凶悪極まりない魔物相手に徒手格闘のみを以て挑むのだ。
幾度目かの突進を避けリジアは構えらしい構えを初めて取った。伸ばした右手は手刀、垂らした左手は緩く握る。姿勢は前のめりに。獣のような呼気が一層激しくなる。視線が敵手に対してピタリと合わされている。
「ベルトクリス対魔徒手格闘術後継者、リジア・ベルトクリス。」
知性を持たない相手に名乗っても仕方ないのだが――彼はいつも名乗るようにしている。ある種のスイッチ的な行動か。
「参る。」
言うが早いか駆けるが早いか。凄まじい勢いで突貫してきた猪を今までの横っ跳びとは違う無駄のない紙一重の動きで交差。そのまま岩の鎧へと鋭い蹴りを叩き込んだ。
当然姿勢を崩すのはリジアの方だ。鎧には一部の欠損も見られず、そのままの勢いを保持して猛突。僅かな時間の交錯であったがどちらが有利なのかは言うまでもないだろう。
陽は中天を僅かに過ぎた所。長い長い戦いは始まったばかりだった。