異端の翼 幻の戦闘
はじめまして、ありんこたろうといいます。
今作が初めての小説なのでご指摘等がありましたら優しく言ってくれるとありがたいです。
それではどうぞ御覧ください
「震電飛行前最終点検完了!」
「燃料補給完了!」
「弾薬装填終わりました!」
「格納庫扉開け!!」
掛け声とともに、格納庫の奥から一機の機体がゆっくり姿を現した。
鋭く突き出した機首。
主翼より前方に配置された小さな前翼。
そして機体最後部に押し込まれるように搭載された巨大な六翅の推進式プロペラ。
周囲に並ぶ零戦や彗星とは、まるで別時代の航空機だった。
「発動機回せ!!」
整備員の声と同時に、ハ43発動機が低く唸る。
ボボッ―――ヴォォォォン!!
震電の機体全体が震え、後部プロペラが回転を始めた。
[震電より司令所へ。離陸前準備完了]
「司令、局地戦闘機震電、移動準備完了とのことです」
「わかった。直掩の零戦にも急ぎ離陸するよう伝えろ。……まったく、何に手こずってるんだか」
[震電一号機、格納庫より誘導路へ従い滑走路へ移動せよ。道中、駐機中航空機に注意すべし]
[了解]
——————————————————————————————————
滑走路へ向かう異形の機体を、基地要員たちは無言で見送っていた。
「……本当に飛ぶのか、あれ」
誰かが小さく呟く。
前翼機。推進式。
海軍航空隊の常識から外れたその姿は、“異端の翼”と呼ばれるに相応しかった。
———————————————————————————
[滑走路到着。駆動装置最終点検を行う]
「駆動装置異常なし。油温、水温とも正常」
「震電より司令所、離陸許可を求む」
「よし。十八試局地戦闘機震電、発進を許可する」
「了解。震電、離陸します」
「混合気注入。吸気三段。回転数上昇確認」
「フラップ離陸位置へ」
「大尉、お気をつけて!!」
1000回転。
1400回転。
1600回転。
1700回転。
2000回転―――
「ブレーキ、リリース」
震電が滑走路を走り始める。
「走行良し……っと。これで離陸手順完了だな、ニイチ」
「少しは早くなったけど、まだまだだね」
「嘘だろ〜……」
「戯言言ってないでさっさと試験区域行け!!」
「はいはい〜」
ニイチ。
ミッドウェー海戦の頃から見えるようになった、“愛機の魂”らしき存在だ。
「しかし何でお前、試験機にまでついて来れるんだ?」
「知りたい〜? 知りたい〜?」
「……やっぱいいや」
「なんでだよ!! そこは“教えてくださいお願いします”だろ!!」
「はいはい、教えてくださいお願いします」
「棒読み!!」
「で、結局なんなんだ?」
「なんかお前について行ったら来れた」
「……真面目に聞いた俺が馬鹿だった」
「おい誰が馬鹿だ!!」
「お前しかいないだろ」
「なぜだ?」
「ここ衣浦海軍基地だぞ。厚木から二百キロ以上離れてる」
「なんとかなった」
「怖っ……」
「なんか言った?」
「イエ、ナニモ」
「そうだよね〜?」
—————————————————————————————————
「知行〜、直掩機来たよ」
一機の零戦が震電の左後方へ並ぶ。
[君が今回の護衛か。よろしく頼む]
[お供できて光栄であります。この命に代えても、大尉と震電をお守りする所存です!]
[……その機体は零式戦か?]
[ご不満でしょうか?]
[いや。たとえ老兵の零戦であれ、肝心なのは乗り手だ。機体性能は操縦者の技量を支える土台に過ぎん]
その瞬間、背後で吹き出す声がした。
「っ、はは……無理……!」
「ニイチ、笑うな」
「だって今の喋り方! 急に“歴戦のエース”みたいになるんだもん!」
「これでも大尉だし真珠湾から戦い抜いているからな、あながち間違いじゃ……」
「そういうのと一番無縁だと思ってた」
————————————————————————————————
「試験区域到着っと」
「巡航四四〇キロは伊達じゃないな」
「むぅ……」
ニイチが少し不満げにこちらを見る。
「悪かったって。零戦にも良い所はある」
「……ほんと?」
「ああ」
「例えば?」
「旋回性能」
「他は?」
「低速域の安定性」
「他は?」
「回避機動しやすい」
「よし、許す」
「あと無線するから笑うなよ」
「努力する」
[これより単独飛行試験を行う。君は少し離れて哨戒を続けてくれ]
[了解]
[頼んだぞ]
零戦が離れていく。
「……行ったね」
[震電一号機より司令所へ。これより本機の評価試験を開始する]
[司令所より震電へ。貴機を目視で確認した。存分に乗り回してくれ]
「よし―――行くぞ、ニイチ」
「あいよ!」
その瞬間、震電が空へ突き刺さるように急上昇した。
「高度八千……九千……一万!!」
「水平移行―――って、え?」
計器を見た知行の目が僅かに見開く。
「高度一万で……七〇三キロ!?」
「B29を追い越せる速度だね、これ」
震電はさらに空を裂く。
急旋回。
バレルロール。
急降下からの引き起こし。
高速域でも機体は破綻しない。
(高速時の操縦性良好……急降下時も問題なし。低速域に若干不安はあるが、対爆撃機迎撃を考えれば許容範囲か)
「日本の技術も、ここまで来たか……」
知行が小さく呟いた。
その時だった。
[指令所より震電へ。緊急入電]
空気が変わる。
[B29編隊接近中。先行迎撃隊は壊滅状態―――]
通信の向こうでは雑音混じりに怒号が飛び交っていた。
[敵大型爆撃機編隊、上空侵入。現在目標ニ向ケ進撃中―――我攻撃効果ナシ―――敵防御火力強大ニシテ接近困難―――]
ノイズ。
[現在行動可能機、本機ノミ―――燃料弾薬共ニ限界―――至急増援ヲ―――]
ガガッ―――
[被弾―――操縦不―――]
通信が途切れる。
数秒間、誰も喋らなかった。
————————————————————————————————————————————————
「司令、B29編隊の進路を確認。現在飛行中の震電が迎撃可能圏内です。迎撃を命令しますか?」
「迎撃だと? 彼は護衛を含めてたった二機だぞ。正気かね?」
司令の声には苛立ちよりも、困惑が混じっていた。
「しかし司令。局地戦闘機震電には実戦を想定し、既に弾薬が装填されています。ここで実戦投入しなければ...」
通信士が言葉を切る。
“もう機会は無いかもしれない”。
その場の誰もが理解していた。
「……はぁ」
司令は重く息を吐いた。
「ここは現場の操縦手の判断に任せよう」
———————————————————————————
[指令所より震電一号機、応答せよ]
[こちら震電一号機。何か?]
[現在、B29編隊が本土へ侵攻中。先に上がった迎撃隊は迎撃に失敗した。詳細な進路予測は後ほど送る。……まず貴機に意向を確認したい。これの迎撃にあたるか否か]
「どうするの、知行?」
ニイチが静かに尋ねる。
知行は前を見たまま答えた。
「聞かれなくても決まってる」
[―――勿論、迎撃に当たる。敵編隊進路情報を求む]
—————————————————————————————————
「震電一号機はどうすると?」
「……迎撃に向かうそうです」
「なんと……」
司令が目を伏せる。
「試験機を危険に晒してまで……いや、仮に震電が優秀でも、二機でB29編隊を止められるものではない」
沈黙。
やがて司令は小さく言った。
「……無線を代われ」
通信機を受け取り
[震電一号機。引き返したまえ]
司令の声は低く、重かった。
[この期に及んで抵抗したとて何になる]
[本土防空隊は既に消耗し切っている。たった二機でB29編隊へ挑んだところで、結果は見えている]
[貴様は貴重な試験機と搭乗員だ。失えば、それこそ日本海軍航空隊に残された最後の希望まで潰える]
操縦席の知行は、しばらく黙っていた。
夕焼け空の中、震電の風防へ赤い光が差し込む。
やがて知行は静かに口を開く。
[……司令。この判断が、一軍人として誤っていることは承知しております]
ニイチが隣で黙って彼を見る。
[ですが、この戦争はもうすぐ終わる]
[敗戦となれば、日本が積み上げてきた技術も、人材も……その多くが失われるでしょう]
知行の視線が計器盤へ落ちる。
[この機体―――震電に残された時間は、あまりにも短い]
[ですが、だからこそ意味があるのです]
[たとえ数十分でも、この機体が空を翔けたという事実は残る]
[異端と笑われたこの翼が、B29を凌駕し得る性能を持っていたと証明できれば、日本の航空技術は決して無意味ではなかったと後世へ残せる]
通信室の誰もが息を呑む。
[私は……負け戦を覆せるとは思っておりません]
[ですが、最後まで空へ抗った技術者達と整備兵達の想いまで、敗北と共に消えていいとは思えないのです]
ニイチが小さく目を伏せた。
[この震電には、日本の航空技術者達の夢が詰まっている]
[ならば私は、その夢が本物だったと証明してみせたい]
短い沈黙。
[異端の翼と呼ばれた震電が、その力を示せる機会は、もう二度と来ないかもしれない]
[―――いや]
[日本の技術が、世界に牙を剥ける最後の瞬間かもしれないのです]
誰も喋らなかった。
[どうか……私の勝手をお許しください]
長い沈黙。
やがて司令は深く息を吐いた。
[……そこまで言うのならば、もう何も言うまい]
[行け―――十八試局地戦闘機震電]
[貴機に敵爆撃機編隊迎撃任務を課す]
[その異端の翼で、日本最後の意地を見せてこい]
知行は静かに答えた。
[了解]
[―――必ず戻ります]
通信が切れる。
その直後、ニイチがぽつりと呟いた。
「……ほんと、ずるいよね」
「何がだ?」
「そういうこと真顔で言うところ」
「ちょっとだけ、本気で格好いいって思っちゃった」
知行は苦笑する。
「今さらか?」
「今さらだよ」
ニイチは少しだけ視線を逸らした。
「だからさ」
「ん?」
「ちゃんと戻ってきてよ」
知行は少し驚いたように目を瞬かせる。
だがすぐ、小さく笑った。
「努力する」
「努力じゃ困るんだけど」
「無茶言うな」
——————————————————————————————
その直後、後方を飛ぶ零戦から通信が入る。
[大尉。私もお供させて下さい]
知行は少しだけ眉をひそめた。
[零戦は高高度戦闘に向かん。平気か?]
[問題ありません]
若い操縦士の声に迷いは無かった。
[いざという時は、盾になります]
その言葉に、知行は返答できなかった。
代わりに、隣のニイチがぽつりと呟く。
「……何でそこまで出来るんだろうね」
知行は前を向いたまま答える。
「さぁな」
だが、その声はどこか重かった。
その時だった。
―――ガンッ!!
「!?」
零戦の機体が不自然に揺れる。
続いて、
ボンッ……ボフッ……
黒煙が零戦の機首から噴き出した。
[なっ……発動機が!?]
[どうした!]
[回転数低下、油圧急減―――駄目です、発動機が死にました!!]
知行の表情が変わる。
[基地へ引き返せ]
[ですが大尉、私はまだ―――!]
[その状態では飛行維持すら危うい]
[しかし!!]
知行は短く言い切った。
[見れば分かる。基地に戻れ]
無線の向こうで息を呑む音がした。
やがて、悔しさを押し殺した声が返る。
[……了解]
[大尉、ご武運を…先に帰投します]
零戦が降下していく。
その背を見送りながら、ニイチが小さく呟いた。
「……本当に良かったの?」
「何がだ?」
「連れて行かなくて」
知行はしばらく答えなかった。
「この戦争はもう終わる」
夕焼けの雲を震電が突き抜ける。
「終われば、ああいう若い世代がこれからの日本を支えるんだ」
ニイチは静かに彼を見つめる。
「……別に私には」
小さく呟く。
「あなたのほうが大切なんだけど」
「ん?」
「……何でもない」
震電は加速する。
その異端の翼は、ただ一機でB29編隊へ向かっていた。
【トーマス・D・クック少佐機】
「各員、対空警戒を怠るな」
[Everyone, stay sharp for enemy aircraft.]
「先程の迎撃隊とは違う連中が来る可能性がある」
[We may encounter another interceptor force soon.]
B29編隊は高度一万近い空域を安定して飛行していた。
これまでの日本軍機は問題ではなかった。
高度性能不足。
速度不足。
火力不足。
爆撃を阻止できた機体など存在しなかった。
「ま、結局いつも通りだろ」
[Probably the same as always.]
「日本軍機なんぞ怖かない」
[Japanese fighters are nothing to fear.]
「静かにしろ。無線私語は禁止だと何度―――」
その時だった。
「……おい、何だあれ?」
編隊後方の搭乗員が呟く。
雲を裂くように、一機の機影が迫っていた。
細長い機首。
前方に小さな翼。
そして後方に巨大な回転プロペラ。
誰も見たことのない形だった。
「推進式……?」
「いや待て、なんだあの速度―――」
その瞬間だった
「敵機急降下!!」
警報が編隊内へ響く。
夕焼け空を裂き、一機の異形が突っ込んできた。
細長い機首。
前方へ突き出した小さな前翼。
そして機体最後部で唸りを上げる六翅の推進式プロペラ。
B29搭乗員達の誰も、その機体を知らなかった。
「なんだあれは……」
「日本軍の新型か!?」
震電は真正面から編隊へ突っ込んでくる。
普通なら自殺行為だった。
だが異様なのは、その速度。
速すぎる。
照準器へ収める前に、機影が視界を横切っていく。
「速い!!」
[Too fast!!]
「上部銃座、撃て!!」
十二・七粍弾が空を埋める。
だが震電は機体を小刻みにロールさせながら、その弾幕の隙間を縫っていた。
「知行、右上!」
ニイチの声。
知行は反射的に操縦桿を押す。
次の瞬間、機体上方を曳光弾が通過した。
「下からも来る!」
震電が半転。
B29下部銃座の射線を紙一重で避ける。
知行は歯を食いしばる。
(遅い―――!)
震電は高速域では圧倒的だった。
だが速度を落とせば、この機体は不安定になる。
低速格闘戦など論外。
ならばやることは一つ。
「一撃離脱を徹底するとしよう」
震電が編隊下方へ抜ける。
その瞬間。
知行は操縦桿を強く引いた。
ヴォォォォォン―――!!
六翅プロペラが咆哮する。
機体が空へ突き刺さるように急上昇した。
「上昇してくるぞ!!」
「馬鹿な、なんだあの上昇力―――!」
B29搭乗員達の顔から余裕が消える。
震電は編隊上空へ飛び出すと、そのまま左旋回。
普通の戦闘機なら失速しかねない姿勢。
だが震電は速度を保ったまま旋回を続ける。
「来るぞ!!」
知行の目が細くなる。
照準線。
編隊最後尾。
―――捉えた。
「…ここ!!」
ドガガガガガガガッ!!
機首四門の三十粍が火を吹いた。
曳光弾が一直線にB29へ吸い込まれる。
直後。
最後尾七番機の右翼付け根が吹き飛んだ。
ボゴォッ!!
「七番機被弾!!」
「右エンジン炎上!!」
火災。
だが終わらない。
三十粍弾が翼内燃料へ引火した瞬間、B29の巨体が火球へ変わった。
「だめだ!! 墜ちる!!」
炎を引きながら、七番機が編隊から脱落していく。
「……一撃だと?」
誰かが呆然と呟いた。
クック少佐は息を呑む。
(これが日本軍機だというのか……?)
震電は既に次の攻撃へ移っていた。
「敵機下方へ離脱!!」
「いや、反転する!!」
震電が編隊下を高速で抜ける。
速い。
速すぎる。
銃座旋回が追いつかない。
「照準が―――!」
「追えん!!」
その瞬間。
「知行、左後ろ!」
震電がロール。
直後、機体後方を十二・七粍弾が掠めた。
ガガガッ!!
「被弾!?」
「浅い!」
左主翼後端へ穴が開く。
だが飛行に支障は無い。
知行は即座に再加速する。
「まだ行ける」
「でも弾減ってる!」
ニイチが残弾計を見る。
「あと四割!」
「十分だ」
震電が再び急上昇へ入る。
B29編隊が崩れ始めていた。
本来なら密集防御で迎撃機を寄せ付けないはずだった。
だが震電は違う。
速すぎる。
高すぎる。
そして火力が重すぎる。
「なんなんだあの機体は!!」
「後ろにプロペラがあるぞ!!」
「推進式だ!!」
クック少佐は夕焼け空を駆ける異形を見上げる。
銀灰色の機体が赤く染まっていた。
まるで空に浮かぶ刃だった。
(こんな迎撃機を……日本はまだ隠していたのか)
震電が再び降下へ入る。
真正面。
指揮機直上。
「敵機急降下!!」
「全銃座撃て!!」
曳光弾が空を埋め尽くす。
だが震電は構わない。
小刻みなロール。
最小限の回避。
無駄が無い。
まるで弾道を“読んでいる”ようだった。
「知行、上!」
操縦桿を引く。
「右!」
半回転。
「今!!」
知行は引き金を引いた。
ドガガガガガガガッ!!
四門の三十粍が火を吹く。
直後。
クック少佐機左主翼付け根へ弾丸が集中した。
ボゴォッ―――!!
「Major Cook’s aircraft hit!!」
「火災発生!!」
「燃料タンクに引火!!」
クック少佐は激しく揺れる機内で歯を食いしばる。
炎が翼を走る。
警報。
悲鳴。
赤熱する計器。
その中で彼は、風防越しに震電を見た。
夕焼け空を背に、異形の翼が駆け抜けていく。
その姿は恐ろしく、
同時に、どこか美しかった。
「……見事だ」
次の瞬間。
B29指揮機が空中で爆発した。
轟音。
爆炎。
崩壊。
指揮機を失った編隊が一気に乱れる。
「指揮機墜落!!」
「編隊維持不能!!」
「任務中止、撤退!! 撤退だ!!」
B29群が散り散りになっていく。
その背を、震電は追わなかった。
知行は静かにスロットルを戻す。
「……終わったか」
ニイチはしばらく黙っていた。
やがて小さく言う。
「ねぇ」
「なんだ」
「今のあんた、ちょっとだけ“震電の操縦士”っぽかった」
「今さらか?」
「今までは“零戦乗りが無理してた感”あった」
「ひどい言い方だな」
ニイチは少し笑う。
そして、そのあと静かに呟いた。
「でも、ちゃんと似合ってたよ」
夕焼け空の中。
異端の翼は、ゆっくり帰路へ向かっていた。
震電後部の六翅プロペラが低く唸る。
戦闘は終わった。
空にはもう、銃声も炎も無い。
残るのは、薄赤く染まった雲と、長く尾を引く黒煙だけだった。
「残弾ゼロ」
知行が計器を見ながら呟く。
「燃料も帰投ぎりぎりだな」
「ほんと、無茶しすぎ」
ニイチが呆れたように言う。
だが、その声には安堵が混じっていた。
知行は小さく息を吐く。
その時、不意に機体が震えた。
「……っ」
「知行?」
計器を見る。
油圧がわずかに低下している。
被弾の影響か。
知行は静かにスロットルを調整する。
「まだ飛べる」
「でも着陸、大丈夫?」
震電は高速域では圧倒的だった。
だが低速になると途端に牙を剥く。
失速速度が高い。
着陸は難しい。
しかも今は被弾している。
知行は少し黙った。
「……最後まで気難しい機体だな」
「似てるね」
「誰にだ」
「お前」
ニイチが少し笑う。
そのあと、不意に静かになった。
風防の向こう。
夕焼け空を見つめたまま、小さく言う。
「ねぇ、知行」
「なんだ」
呼びかけは軽い。
けれど、どこか違った。
ニイチは少しだけ息を吸う。
「もしさ」
一拍。
「これが最後だったら」
知行はすぐには答えない。
スロットルをゆっくり戻しながら、
前だけを見ている。
ニイチは続けた。
「ちゃんと聞いてほしいことがあるんだけど」
震電がゆっくり高度を落としていく。
戦闘の熱が消えた空は、
もうただの夕暮れへ戻り始めていた。
やがて知行は短く言う。
「言え」
ニイチは少しだけ笑った。
けれど、その目は冗談を言う時のものじゃなかった。
「私ね」
「うん」
「知行のこと、好きだよ」
空気が止まる。
エンジン音だけが、遠く聞こえた。
知行はしばらく黙っていた。
ただ前を見たまま、
夕焼けの滑走路を見つめている。
ニイチは何も言わない。
逃げない。
ただ、返事を待っていた。
やがて知行が小さく息を吐く。
「……そうか」
「それだけ?」
少しだけ笑う。
でも、その笑いは少し揺れていた。
知行は静かに言う。
「今は、それでいい」
「なにそれ」
「着陸に集中したい」
「最低」
「この機体、気を抜くと本当に死ぬ」
ニイチは吹き出した。
「こんな時まで震電優先なの!?」
「試験機を優先するのは当たり前だ」
「はぁ〜〜〜……ほんとそういうとこだよ」
だが、その声は少し嬉しそうだった。
知行は続ける。
「この空は、まだ終わってない」
ニイチは黙って聞いている。
「だから俺は、今これ以上の答えを持てない」
少し沈黙。
やがてニイチが小さく呟く。
「……ずるいね」
「そうか?」
「そうだよ」
でも、そのあと少しだけ笑った。
「じゃあさ」
「うん」
「次に飛ぶ時まで、返事は保留ってことで」
知行は少しだけ口元を緩める。
「了解だ」
その時。
前方に滑走路が見え始めた。
———————————————————————————
「震電だ!!」
基地要員の一人が叫ぶ。
「戻ってきたぞ!!」
夕焼け空の中。
銀灰色の機体が静かに降下してくる。
機体側面には無数の弾痕。
左主翼後端は抉れ、
塗装は焼け焦げていた。
「着陸に入るぞ……」
整備長が息を呑む。
「あの機体、低速は危険なんだろ……?」
誰も答えなかった。
————————————————————————————
「速度二三〇……まだ高い」
知行の額に汗が滲む。
「でも落としすぎると失速する」
「難儀な飛行機だねぇ」
「他人事みたいに言うな」
震電が降下する。
その瞬間。
機体が不穏に震えた。
「っ―――」
失速の気配。
知行は即座にスロットルを押し込む。
ヴォォォォォン!!
後部プロペラが唸り、
震電がわずかに浮き上がる。
「危なっ……!」
ニイチが息を呑む。
知行は返事をしない。
視線は滑走路だけを見ている。
風。
速度。
機体姿勢。
ほんの少しでも間違えれば終わる。
「知行」
「なんだ」
「ちゃんと帰ろう」
その声は、さっきよりずっと静かだった。
知行は小さく頷く。
「……ああ」
震電が最後の降下へ入る。
滑走路が迫る。
百。
八十。
六十。
「今だ―――」
操縦桿を引く。
接地。
ドンッ!!
機体が一度大きく跳ねた。
「っ!」
震電が蛇行する。
左脚が悲鳴を上げた。
ギギギギッ―――!!
「脚が!!」
「耐えろ……!!」
知行が歯を食いしばる。
速度が落ちる。
まだだ。
まだ止まるな。
ヴォォォォン……
やがて六翅プロペラの回転がゆっくり鈍くなる。
そして―――静止。
静寂。
夕焼けの滑走路中央。
震電は確かに帰ってきていた。
その瞬間。
基地中から歓声が上がった。
だが知行は、しばらく操縦席から動かなかった。
操縦桿を握ったまま、
静かに前を見ている。
ニイチが隣で小さく笑う。
「お疲れ、知行」
知行はようやく長く息を吐いた。
張り詰めていたものが切れる。
そして、小さく呟く。
「……返事」
「ん?」
知行は前を向いたまま言う。
「保留は性に合わん」
ニイチが目を瞬かせる。
知行は少しだけ笑った。
「俺も、お前が好きだ」
数秒。
ニイチは固まっていた。
やがて顔を覆う。
「今言う!?!?」
「言えと言ったのはお前だ」
「そうだけど!! そういうことじゃなくて!!」
知行は初めて少しだけ声を出して笑った。
夕焼けの中。
異端の翼は、
確かに帰ってきていた。
——————————————————————————————
戦後
静かな展示室。
震電はガラス越しに眠っている。
もう空を飛ばない機体。
年老いた知行が、その前に立つ。
杖をつきながら、ゆっくりと。
「……久しぶりだな」
誰にともなく呟く。
その瞬間。
背後で声がした。
「遅い」
振り返る。
ニイチがそこに立っている。
変わらない姿。
あの時のまま。
知行は一瞬だけ目を細める。
「まだいたのか」
「そりゃいるよ」
少し間。
ニイチは軽く笑ってから言う。
「ねぇ」
「なんだ」
「昔のやつ、ちゃんと覚えてる?」
知行は震電を見る。
そして短く言う。
「覚えてるさ」
ニイチは少しだけ首を傾げる。
「じゃあさ」
「うん」
「もう一回聞かせて」
風が止まる。
展示室の音が消える。
知行はしばらく黙ったあと、ゆっくり言う。
「……好きだ、と言ったな」
ニイチは小さく頷く。
「うん」
知行は少しだけ間を置く。
そして続ける。
「今も同じだ」
ニイチは一瞬だけ目を見開く。
そして、少しだけ笑う。
「遅いよ」
「そうか」
「でも、悪くない」
少し沈黙。
ニイチはふと真面目な顔になる。
「ねぇ知行」
「なんだ」
「これってさ」
「うん」
「ちゃんと“返事”になってる?」
知行は震電を見る。
その向こうに、かつての空が重なる。
そして答える。
「……ああ」
「そういうことにしておけ」
ニイチは小さく笑った。
「ずるいなぁ」
「今に始まったことじゃないだろ」
「そうだね」
「もう離れない、ずっとそばにいる」
「大丈夫なのか?」
——————————————————————————————
夜。
博物館の外。
空を見上げる若いパイロットがいる。
「……今、誰か見てた気がする」
「誰だ?そこにいるのは」
風が吹く。
その一瞬だけ、空に影が重なる。
誰もいないはずの空域。
しかし確かに、そこには“飛行”があった。
ニイチの声が、風の中に混じる。
「私のこと見える人初めて見た」
そして空のどこかで。
「私は空を飛ぶ者の意志を継ぐ者」
空は続く。
人が変わっても。
時代が終わっても。
「これからよろしくね」
それでも、まだ飛んでいる。
異端の翼 幻の戦闘 完
思い切って書いてみましたが意外といい出来に仕上がったと思いますが初めてなのでこれからも小説を投稿する際は優しく注意してくれますとありがたいです。
それではまたいつかお会いしましょう。
さようなら〜




