紙魚たれた掛け軸【壱】
物品を手に入れる際にまず気にすることは、需要である。
私自身が「欲しい」と思う、その需要は最優先として、ほかの人々にとって欲しくなるものというのも重要な点だった。売り物を謳う以上、そこは外すことができない。
あ、そこの掛け軸を拝見しても?
「構わねえよ」
ありがとうございます。私は巨漢の店主が奥の棚の上に載せていた掛け軸をじっくりと眺めた。
霜月の朝、露店市場は冷えのはじまりが漂っていた。抜けるような秋空の下で風は低く地面を這い、長着と足袋の隙間から肌に吹き込む。そろそろ股引なり肌着も用意した方がいいかもしれない。
露店市場は早朝からはじまり、昼過ぎには店じまいとなるものも多い。早じまいの理由は他の本業を持つ者が仕事前に古道具の整理に出しているだけだからとか、旅から旅の露天商が次の目的地へ向かうためとか、まあそんなところだ。
この店主も他の土地での露店市場にて見たことがある。……顔に傷ある雰囲気からして股旅の身か。賭け事を禁じ侠客や風俗乱す者を取り締まる『賭博犯処分規則』が廃止されてしばらく経つが、博徒の類は変わらず息苦しそうではある。
さてそんなことはどうでもいい。
大事なのは、掛け軸。
率直に言って、掛け軸の絵そのものは世間的な値がつかないものと思われた。水墨画であったが、題材は不気味だ。
なにせ、走る線が描いているのは『紙魚』である。紙を食べる、切った爪くらいの大きさで脚がうじゃうじゃの白い虫だ。あばら家の床と思しき線の上に四匹の紙魚が躍っていて、上方の空間には紙吹雪。
奇妙な題材で、かつ空隙の扱い方も甘い。構図も線のキレも達人の筆には遠いものだった。
けれど、どこか惹きつけられる。
ということはたぶんそうだろうと思ったが、紙魚はかさかさ、画面のなかで蠢いていた。
ははあ。これは面白い。
私は感嘆したが、一旦興味なさげにして店主にこの品を戻す。
それから、ほかの絵を手に取り値を訊ねた。三円? こちら、さような値付けがされるとは名のある作家のものですか。え、落款がない? ではだれが描いたものかわからないのですね。それで三円ですかそうですか……おおかた菱川師宣の真似をして描いたものでしょう。見返り美人を参考にした構図です。ふむ、顔料は悪いものを使っていませんね。おそらく弁柄の鮮やかさ。ただここの、たくし上げた裾の紅と色が異なります。日焼けした部分との質感の変化からして髪飾りの紅はあと塗りですね。この修繕の方は経年変化を考慮に入れられていなかったか、あるいは当時と同じ辰砂の顔料は用意できなかったのでしょう。そのあたりの精密さは加えられなかったことを思うと、甚だ惜しい品だと言わざるを得ませんね。三円は少し強気な値付けに思いますが、いかがか。
……そうですか二円十銭までいけますか。
ところでこの掛け軸はおいくら? 二円? こちらも落款はなくずいぶんと傷んだ紙面ですしそも紙魚の意匠で好まれる気はしないと思いますが……一円二十銭? いいですね。どちらもいただきます。
私は値引きに少しうなだれる店主の後ろで、彼が品を風呂敷へ包むのを見ていた。ちなみに軸先の風鎮──掛け軸が風にはためかないようにするための重石飾り──は良いものだった。
松の傷に滲む松脂に似た黄色、ぬめりを帯びた艶やかさ。おそらくは田黄石だ。それこそ落款に用いる印などをつくるための『印材』として清の方では値がつく。店主は知らずぶら下げていたのだろうが、私からするとこれ単品で商いの品として扱える。
いい仕入れができた。紙魚は飾るとして、田黄石は印材として売ってしまおう。
美人画も買いたたくために難癖はつけたが暗めの客間にでも吊るせば赤が薄闇に映えそうな品である。絵の本体こと本紙を外して、掛け軸をうちにあるもう少し立派なものに変えれば五円くらいで売ることができそうだ。
勘定をしながら私はお代を渡し、風呂敷を受け取る。ついでに、店主に尋ねた。こちらの掛け軸はどちらで手に入れなさったので?
すると店主の男は首をかしげ、なんとも言えない顔になった。
「わからないんだ」
なんです、仕入れは別の者に任せているのですか。
「いや、そんなことはねえよ。しかし、わからねえ。俺はどこでこれを買い付けたんだろうな? 拾ったということはないだろうし……」
首をかしげているので、もったいぶるとか面倒なことをしたいわけでもないらしい。なんでか、紙魚の入手経緯を忘れてしまっているようだ。
私はこの点も興味深いと思い、満足して品を受け取った。アンテイクのどこに飾るか、いまから楽しみである。絵に描いた餅と並べると食欲がなくなりそうだが、こうした外部要因でもあの呪いは無効化できるのだろうか? 試してみたいところだった。
「お買い物終わった?」
買い付け、仕入れですよ。買い物ではなく。私は他の露店をながめていた美也子さんに言う。
今日も彼女は顔を外からのぞかれないよう、目元には透ける紗のヴェールを下ろし、洋装でかつかつと歩いていた。ぴんと伸びた背筋は人なら保ちつづけるのも辛いと思わせる立ち姿だが、人ならざる彼女には気にもならないらしい。
「いわくつきは売り物にならないんだから、買い物でしょ」
それはごもっとも。
「売り物、もっと探そうね。ところで私も良さそうなもの見つけたんだけど」
なんでしょう。
「このちいさな印籠、銀細工だと思う。値段つきそうじゃない?」
どれどれ……ああ、これはたぶん仕入れの方が高くつきますね。総銀製ではなく、表面だけ銀をまぶしたものです。
「なんでわかるの」
横にある商館時計をごらんなさい。これは総銀製です。
「……一緒の輝きに見える」
ですが、触れるとこちらはほら。裏まで温かいんです。銀は熱をよく伝えますから、霜月で寒くなっても日差しの温かさだけでここまで熱を帯びます。ひるがえってこの印籠は表面だけしか銀を使っていないので、熱を伝える力にとぼしく裏側は冷たい。こういう違いがあるんですよ。
「鷂くん、いつもそうやってまじめにやればきっともっと儲けられるのに。あと、私は温度とかわからないから」
ああ、そういえばそうでしたね。
視覚を除くとなんの感覚も持たない彼女を伴い、私はアンテイクへの帰路に着いた。




