不死になる茶碗【参】
煙道は所有・金銭・兌換を理解しないが、物々交換についてはぎりぎり理解している。「物体は時間と空間の幅を取るので、それをべつの物と置き換える手続きには意味があるのでござる」とのことだった。よくわからない。
ともあれ、そういうわけなので物々交換には理解がある。欲求を強く持っている他人を探り当てることも得意なので、まず煙道に物々交換を持ちかけてもらい、仲介料(現物支給)を渡して途中から私が仕切る。交換から、うまく値をつけて物品を売り抜く。これが金策尽きたときの定石であった。
「おなか、大丈夫なの」
あまり大丈夫ではありませんね。目が回りそうになりながら、私は美也子さんに応じた。彼女は美しい玻璃と黒曜の瞳をまたたかせて、球体関節の腕をきしりと鳴らし水差しとコップを私に差し出す。やあ、ありがとう。
「空腹って、どんな感じかしら?」
感覚のない物には、わからないものです。しいて言うなら、昨日あなたが狐者異に対して怒っていたとき。あれは思い通りにならないことに不快感があったのでしょう? 空腹というのは自身のからだのままならなさに対する不快感です。思ったように動けない自分、思ったようにならない自分、思い描く理想と現実の落差。そこに対する不快感や焦燥感を、腹部に押し込めたような感じです。
「わかるような、わからないような……でも人間って、不便ね。いろんなことで不快感を覚えてしまうなんて」
……人になるのが、嫌になりますか? 実際になれるかはわかりませんけど。
私はぐるぐる鳴っている腹をさすりつつ水を飲んでごまかしていた。美也子さんは首をふりふり、水を飲む私を見てほほ笑む。
「でもその不快の解消が、とても楽しそうに、うれしそうに見えるの。私はきっと、不快もない代わりに喜びもないのでしょうね」
私にはわからないことだったので、これには答えず水を飲んだ。
さて昼頃にアンテイクへ戻ってきた煙道を見て、これで食い繋げたとのうれしさと品物との別れの悲しみが入り混じった複雑な気持ちになった。まあとりあえず、お帰りなさい。
「ただいま戻りまして。鷂氏、一覧表と持っていった品をここに置くでござる」
いかにも盗人らしい、唐草模様の風呂敷から雑紙に包まれた品々が帰ってくる。このまま持ち去られるのではないかと少々恐れていたので、無事帰ってきたことにほっとした。
表を受け取りぱらぱらめくると、記入されている人名やその人物の詳細が目に入る。どうやら品物に興味を持ってくれた人を書き込んであるらしい。
その中で、『焚いた香を嗅ぐと近くにいた生き物を傾国の美女と思い込む』香炉に興味を持った人がいたらしく、赤く丸がつけられていた。
「交換に相成ったのでござるが、よろしいかな?」
表の下部に、意外と達者な煙道の字と絵が躍っていた。向こうが出してくる交換の品が書いてあるようだが……茶碗? 誰か著名な作家の作だろうか。しかし説明書きを見る限り、作者も年代も不明とあるのでたいした価値とは見えないが。
「じつはこれ、いわくつきのようで」
聞きましょう。私は客間の卓上に身を乗り出した。後ろで美也子さんが頭を抱えるカタりという音がしたが聞かなかったことにした。
しかし煙道はどこかいぶかしげという顔で、いつのまにかくわえていた煙草にいつのまにか構えていた燐寸で火をつけつつ言う。
「この茶碗でものを食べた人物が、不死になるのだそうでござる」
触れると死ぬ箱につづいて不死の茶碗とは。面白い話になってきたと感じて、私は外に出て訪問することを決めた。
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食事に関する言い伝えというのは、さまざまにある。たとえば葬儀の際の飯は山のように盛って箸を立てるが、あれは死者の最期の食事として供するものだ。そうした「向こう側」の食事と生者の食事を分ける記号として、箸を立てるのだという。
また棺を出す際に茶碗を割る風習もあるし、食と死と生は切っても切れない関係にあるといえる。
「お初にお目にかかる。大郷道潅と申す」
私が訪問したのは、浅草から出てしばし。暑いなぁと思いつつも河上に風渡る両國橋を抜けて、陸軍省御用地の横を少しずれた通りだった。
邸宅の中で腰丈のテエブルを挟んで向き合ったのは立派に髭をたくわえた身の厚い偉丈夫で、玄関で見た先端のすり減りが少ないステッキと、彼の羽織る紋付きの黒の深さを見るに、日に当たってあくせく歩くことなどなく常から馬車で移動している身分であることがうかがえた。
私は深くお辞儀をした。鷂千史です。
「早速だが、あの香炉。細工も精緻でじつにいい、気に入った。しかも煙道君に聞くところによれば……いわくつきだそうだな」
袂に手を差し込んでそのように言う大郷の顔は、香炉の持つ呪いの真贋をいぶかしんでいる。けれど『呪い』があることそのものは疑っていない。開化後のこの国にはめずらしい人物のようだった。
ええ、どのような香を焚いてもあの香りと共に見た生き物を絶世の美女と思い込みます。あ、女人が見た場合は絶世の美男子になります。
「面白い。実用にも耐えうる品とお見受けする。……その点で言うと、こちらが出している品は実用できるかというと疑問ではあるのだが」
髭を撫で、大郷は困ったように苦笑した。茶碗の呪い、とお聞きしましたが。
「ああ。茶碗で食した者が不死の身となるようでな……少し説明をしてもよいか?」
無論。人と語らうのは面倒が多いが、向こうが一方的に喋るのを聞く分にはまだマシだ。などとは口にせず、大郷の語る茶碗の逸話を拝聴した。
──この茶碗はかつて我が母が歩き巫女より頂戴したものらしい。ああ、歩き巫女だ。神に仕える巫覡というよりは、民間の霊能力者というやつだ。
口寄せなる業で死した者の霊魂をその身に降ろし、口をきくという話だが……御維新のあとすぐ、そうした怪しげなものを封ずるべく政府より巫女禁断令が発布されていたからな。細々と、祭りの隙間などにやってきていた住所不定の民だったようだ。
ともかくも、母は幼いころにその歩き巫女と関わりを持ち、足しげく通って親しんだという。彼女の口寄せは見事なもので、たとえば家内を亡くしたという男が来ればその男の家内しか知らぬことを言い当てる。別の者には隠しごとを言い当てる。たいしたものだったそうだ。
巫女は母を可愛がり、母も巫女に懐いた。だからだろう、別れの際に彼女からこの茶碗を頂戴したという。
そう。死者を喚ぶ巫女が、『不死になる茶碗』だと言って遺していったのだそうだ。
本当にそんなことができるのか、と母が訊けば、近くの川の叢に行けばきっとわかると言う。行ってみれば仰天、そこには先日死したはずの見覚えがある男──そう、家内を亡くして巫女に口寄せを頼んでいた男だ──が、立ち尽くしていたという。
ああ、たしかに死んだのは間違いがない。なにやら、このあたりの者ではなかったようでな。宿場で客死したのを官憲が検めている場に母も居合わせたそうだ。
だが川縁に、立っている。つまり、死んではいなかった……乃至、死なない男だった、と。
巫女は「彼にはこの茶碗で飯を盛ったのよ」と、どこか哀しげに語ったらしい。
以来巫女に会うことはなかったそうだ。母も、なんとはなしに不気味に思いその後茶碗は使うこともなく土蔵にしまっていた。
……なぜいまこれを手放す気になったか、と?
勿論それは主の香炉が気になったこともある。が、正直に話そう。
この頃当家を訪ねてきて、『茶碗を返せ』と言う者がある。
戸口に立って門を叩き、老いた錆び声で響くように言う。甚だ迷惑をしていてな。
手放してしまえば、もう来ぬのではないかと考えている。
……追い払えばよいのではないかという顔だな。
足の無い相手の追い払い方を私は知らん。
其の方は、こうした『いわくつき』の扱いに詳しいのだろう?




