不死になる茶碗【弐】
「やぁやぁ鷂氏、久方ぶりでござる。少し瘦せましたかな?」
開口一番そんなことを口にして、袴と着物越しでもわかるほど腹についた肉を揺らした。
訪問者の男は紐で耳へ引っ掛ける形式の眼鏡をかけているが、紐も頬肉の厚みがために張力の限界に挑戦させられている。じつに肥えた御仁である。年のころは四十も半ば過ぎているはずだが顔立ちはどこか幼い。
煙道庄吉というこの男は音も気配もなく店内に入ってきていた。たまに立ち寄るという酒場へ電報を飛ばしてもらったのが昼過ぎだというのに、夕方にはもうやってきている。
私が痩せたかはわかりませんが、あなた夜半は仕事ではないのですか。そう訊ねると「拙者いまもむかしも仕事などしてござらん」と時代がかった間の抜けた口調で言う。
「喫食は必要なとき、勝手に手元に現れるものでございましょう?」
そう答える彼の手には、カリーライスがあった。近ごろは港の方でなくとも洋食屋が増えていると聞き及ぶ。この現世とのはざま、隔理世の外の浅草にも店ができたと聞くので、そこの品だろう。皿の縁に『洋食 回明軒』と店の名前が描かれている。もう片方の手にも、栓抜きと麦酒が携えられていた。煙道はもぐもぐと咀嚼しごくごくと飲み、皿と瓶を床に置く。
食事の皿と匙、酒と栓抜きを持ち歩く怪人……というわけではなく、この男はするりと店に入りさらりと盗んできたのだ。だれにも気取られることなく。
肥満の巨体にもかかわらず、この男には足音も気配もない。ついでに倫理観や所有権の概念もない。
『万物は流転する』『ゆえに自分の手元にも来る』『だから万物は自分の物である』という狂気の三段論法によって盗みの自覚なく誰にも知覚させず、すべてのものを掌中に納める神業・無盗取りを実現する大泥棒こそがこの男だった。
「しかし相変わらず煤けた家ですな、転宅ないし物を外に出そうとは考えないので?」
余計なお世話ですと私が返すあいだにも、煙道の手の内には背丈的に手が届かない棚の上に置いていたはずの小型のオルゴウルが納まっていた。おそるべき早業。神業誇る盗人の前では、この骨董屋も彼の私物置き場と化す。
だがそれは私が仕掛けた罠だ。
その品は、『ぜんまいを巻かずに触れると指が離れなくなる』オルゴウル。
びたっと両手の指がオルゴウルの小箱にくっついてしまい、さしもの煙道もあわてた。
「あれ、鷂氏。これ、指が離れないのでござるが」
外してほしければここにある品を必要とする人のあてとその仲介をお願いします。そのために呼んだので。
「もしや拙者を諮ったのでござるか?」
無遠慮に品物に手を出すからそうなるんです。
「なぜ遠慮が必要と? 拙者が拙者の物に手を伸ばすことに、どこの誰の許しが要るので?」
反駁とかではなく純粋な疑問として、煙道は言っている。屁理屈を並べて煙に巻くつもりだとか私を挑発して言動を操ろうという気だとか、毛頭ない。
私はため息をついた。言外の表現や「察してほしい」という態度、暗黙の了解などという訳のわからないものを基本に会話を進める普通の人間どもも苦手だが……裏表が無い点はともかく、ここまで常識も倫理も無い人間の相手もそれはそれで疲れる。嗚呼、本当にね。
面倒くさくなったので、私はさっさと切り上げるための魔法の言葉を使うことにした。
──煙道氏、私はいますぐそのオルゴウルを聴きたいんです。あなたはその、邪魔をしている。
言えば、途端に。
煙道は指がくっついたときよりもなお、あわてた。
「それは申し訳ない。ではご要望、お承りするでござる」
あっさりと彼は私の言いなりになった。
やっと彼の行動を縛ることができたので、美也子さんがこそっと奥からこっちをのぞいた。
煙道は近代国家が認める財産権・所有権といったものを理解しない。そもそも万物は流れ去ると理解しているため、他人が持っていることと自分が持っていることとのあいだに区別が無い。ゆえに金銭と品を兌換できるという社会の仕組みもわかっていない。
欲しいときにそこにあるから手を伸ばすだけで、他人もそうすればよく、それでなぜか追われるなら逃げればよく、己の存在感の薄さと逃げ足ならそれができる。壊れた理性の中でそんな風に生きている。物をなんでも欲しがるし掌中に納めたがるが、その実、『物の価値』というものを一切理解しないのだ。
そんな彼だが、いやだからこそというべきか。『時間』『経験』というものについては他者の邪魔をしてはならない、という妙に律儀な規範を持っている。たとえば彼が盗んだ(という自覚はないが)カリーライスについて、盗まれた者が「金を払え、弁償しろ」と言ったところで煙道は「べつのカリーライスをあなたも盗ればいい」としか思わない。
ところが「いますぐ食べたかったが、このあと人と約束があり、もう食べる時間がない」という主張をすれば煙道はあわてる。相手の時間と経験の邪魔をしてしまったことになるからだ。
この機序を把握せずに煙道と関わることは絶対にできない。
ようやく安全と見た美也子さんは──彼女も物なので、煙道に一度盗まれて二週間返ってこなかったことがある──私に紙の束を渡してきた。
「じゃ、値段付きそうなものを帳簿から抜き出しておいたから。これよろしくね」
受け取り、ぱらぱらとめくる。……ああ、どれも気に入っている逸品だ。正直手元から離したくない。と思ったものの美也子さんの視線が鋭いので私はしぶしぶうなずいた。背に腹は代えられぬ。
私がこれ品物の一覧です、と渡せば、煙道もしぶしぶうなずいた。この様を交互に見、美也子さんは小首をかしげる。
「ふたりって、ちょっと似てるよね」
美也子さんが平然と言う。物の価値もわからない煙道と一緒にされるのは大変に心外で、私はそんなことないですよと気持ち大き目な声で言った。




