紙魚たれた掛け軸【参】
一体どうしたことだろう。たしかに、身体はひどく凝り固まっているし空腹のめまいも感じ始めている。
どうやら私が三日寝たままだったのはまちがいないらしい。よろけた私を、美也子さんが硬質な体でがっしりと支えてくれた。ソファに腰かけさせてくれて、目の前にボブリルを持ってくる。
「少しずつ匙ですくって飲んで。急に食べると胃腸がびっくりする……って、夕季乃さんが言ってた」
木島夫妻が来たのですか。ひと口含むごとに胃腸の底に熱が戻ってくるのを感じつつ、私は問う。
「そう。『仕入れだけじゃなく売ったらんとあかんよ』ってお小言に来たみたいだけど鷂くんが起きない様子見て心配してた。でも鷂くんの体は、木島さんが手配した術師のひともとくに異常ないって」
ではなんでしょう。単なる疲労ですかね。
「疲労だけで昏睡するほど働いてもないでしょう?」
それもそうですが。ボブリルをすくって飲みつつ、ううんと考え込む。
考えられるとしたら……視線を店の奥にやって、鴨居から下がっている紙魚の掛け軸を見据えた。昨晩の夢は、たしかにあの掛け軸の内側から店内をながめているような角度だった。ひょっとするとこのいわくつきのせいだろうか。
「あの掛け軸じゃない、この昏睡の原因」
美也子さんも同じ結論ですか。私の問い返しに彼女はこくり、うなずく。
じつは昨晩──というかこの三日のあいだ、掛け軸の中から店内を眺める夢を見ていたのですよ。そう伝えると、「ね、縁切ってそれ、捨てたら?」と壁の掛け台にある妖刀を彼女は真剣に指さす。
たしかに、この妖刀で私との縁を切ればこの品は手放せるだろう。いわくつきのなかでもこの刀は、最上級の逸品なのだ。
しかしせっかくのいわくつきでまだどんな呪いがあるかも把握していないのにそんなことをするのは、どうももったいないような気がした。それに店内を見ると……ああ、やっぱり。寝ているあいだに縁が切れた、先日の煙道との一件で用いたオルゴウルと、絹谷家でもちいたダウジングが消えている。
この妖刀は使い方を誤ると良縁や金縁も切るが、かといってなにも切らず一日を終えると癇癪を起して所有者の持つ縁を無作為に切ってしまう。寝ているあいだに癇癪を起されたのだろう。正直、これ以上手元から物が減るのは困りものだ。妖刀は最終手段にしたい。
「じゃ、どうする?」
そうですねぇ。
私は紙魚たちに内心で謝りつつ、くるくると軸に巻いて掛け軸を飾らず置いておくことにした。つまり、掛け軸に店内を見せない策である。
────。
ところがその晩も、夢に見た。茶色いしみのついた景色だけがずうっと眼前に広がっている。これは掛け軸の裏面だ。巻き取るときに紙魚の絵の面が触れている、台紙の裏側だ。
こうなると店のなかを見渡すよりもはるかに退屈で仕方がない。さっさと目を覚ましたい。そう思っている私の背後ではかさかさ、紙魚がさまよっている音が聞こえていた。
上から降り注いでいる紙吹雪を食べているらしい。
そういえばあの紙吹雪はなにかと思って頭上を見ると、簡素な人型をした紙製の式神が、己の身を端からちょきちょきと刻んで降り注がせている。掛け軸を正面から見たときの画角には、映らないような高い高い位置でその作業はおこなわれていた。つまり全自動餌やり機巧だ。
ということはこの紙魚たち、もしかするとこの絵のなかで飼われているのかもしれない。私がそのように考えていると、また外が白んできて夜が明けた。
「また三日、寝てたよ」
そのようですね、美也子さん。空腹のひどさで胃腸がきりきり痛み、どうやらまた大きく時間を奪われてしまったようだと判ずる。腹部を押さえる私を見て、美也子さんは心配そうだった。
「いわくつき極まれり。妖刀使いたくないならせめて手放すとか、あるいはこの呪いを解く方法を探したら?」
ですが呪いと言っても、体には異常が無いのですよね。そうなると問題があるのは眠っているあいだの私の意識。いわば魂が、夢の中であの絵に囚われているのかもしれません。
「夢……ねぇ」
美也子さんにはしっくりこないようだった。さもありなん。美也子さんは睡眠というものが存在しない。一応眠るのに近いことはできるらしいが、「意識が無いあいだは見るものなんて無いし、仮にあっても意識が無いんだから覚えてない、つまり無いのと同じ」とのこと。
というわけで今回に限っては、触ると死ぬ箱のときのように『身代わりの御守りを持ち、美也子さんに呪いを飛ばす』ということはできない。そもそも夢の中に御守りなどを持ち込めるかも不明だが。
さて、どうしたものか。
「いやだから、呪い解く方法探しなさいって」
解いてしまうとせっかくのいわくつきがただのモノになってしまいます。できれば機序を解き明かして、廻呪を成したいものですね。
などと言ったら蹴とばされた。私はただ無二のモノをそのままにしておきたいだけなのに。
「でも寝っぱなしだと物を売ることも買うこともできてないじゃない。暮らしが成り立たなくなるようなモノは困るでしょ。この一週間、この前の美人画くらいしか、売れていないみたいだし」
美人画? そんなもの仕入れてませんよ。店内の物品すべてを把握している身として、それは胸を張って言える。
ところが私の言葉に、美也子さんは凍り付いた。
「物より大事なことがない、蒐集品のために生きてる鷂くんが。そんなことぜったい、言うはずない」
……どういうことでしょうか。もしや私、先日一緒に仕入れた品を忘れていると?
「だって、玄関近くに飾っていたよ。紅の特徴的な美人画。弁柄と辰砂の色のちがいが、どうだとか。得意げに講釈してたもの」
言われて見据えたその先には、本紙がまっさらに空白になってしまった掛け軸が下がっていた。
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実際、何度も三日寝を繰り返すのはしんどいし、もったいない。おまけに店内の商品に影響が出るとあっては、さすがに私も動かざるを得なかった。
おそらく私が所持している限りこの効果は出つづける。となれば、前の所有者から情報を聞き出すのがよいと思われた。最悪の場合は解呪を依頼することになろうが、情報如何ではまだあの品を保ちつつ無害化する廻呪も可能なはず。
そんなわけで人を伝ってあの店主の所在を探ると即座に汽車を乗り継ぎ、私は横浜まで出た。露店市場が今日やっているそこに、例の博徒風の店主が居るとつかんでいた。
やあ、こんにちは。
「あ、お前このあいだの」
先日はどうも。買った品のことでうかがいたいのですが。
「返品はきかねえぞ」
その迷惑そうな反応。すると、あなたもあの掛け軸に『厄介』を抱え込まされていたので?
私の質問に、店主の男は片眉を上げた。それから、「たぶんな」とつぶやく。たぶん?
「だから、覚えてねえんだよ。なぜ、どこであれを手に入れたのか。先月、気づいたら扱い品の中にあって、夢でうなされると三日過ぎてることもあり商売あがったりだ。どうにか、手放したかったんだよ。だが捨てても投げても返ってくる。『売らなきゃ、ダメだ』と気づいた」
呪いというのは纏わりつく。縁ごと切り離すには別の人間に縁を移すしかない。店主はそこに気付いて、あの掛け軸を私に売ったようだった。
では風鎮の田黄石も、価値に気づいててわざと付けていたのですね?
「玄人ならアレだけでずいぶんな値になるとわかるだろうからな。値付けの安さにつられて、得したと思って買うとは踏んでいた」
どうも化かし合いはこちらの負けだったらしい。私もまだまだ精進が足りない。
ともあれ、情報が少ないのは困った。いつ手に入れたかも、なにも覚えていないとは。帳簿はないのです? 購入者は上客になるかもしれませんし、私は名簿管理もしているのですが。
「なんだお前、やっぱり同業かよ。帳簿か……あるにはあるんだが」
見せていただいても? 値付けの相場とかは見ませんから。あの掛け軸のせいで、ずいぶん困っているので少しでも手がかりが欲しいのです。
遠まわしに責任をつっつくと、店主は「仕入れのだけだぞ。値段は見るな」と険しい顔で今月から先月の仕入れ帳簿を渡してくれた。やあどうも。
そうしてぱらぱらと頁をめくっていって、私は不自然に仕入れが途絶えた時期があるのを見つける。こちら、ご病気でもされてました?
「いや、そのあたりは夢でうなされ三日寝込んだりする前だな。別段体調を崩した覚えはねえ」
なるほど。どうもありがとう。
なんとなくつかめたものがあったので、私は礼を言ってその場を辞す。と、去り際に店主が声をかけてきた。
「そういやお前、このあいだの市で連れてた女がいたろう」
美也子さんですか? 私は何の気なしに返す。すれば、店主は身震いし、あたりに視線を走らせて、まるで自分が見張られていないかと気にする素振りでつづける。
「……なあアレ、人間か? ちらと横顔が見えるときがあったが、目つきが……どうも……」
さあ。どうでしょう。
答える義理もないし面倒だし、用件は済んだので私はそそくさと家路についた。
紙魚については、今晩中にけりをつけたいものだった。




